ユング心理学を本格解説|ユングは後期ラカンで分かる!ユング対ラカン

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うたまるです。
(※この記事は諸事情で難しい内容となったため、脳トレに最適です。平易な本格ユング入門記事をお求めの方は以下のリンクの慎重勇者の記事を参照ください)

今回は、深層心理学でもユングとラカンのロジックの違いと共通点の解説を介して読者にユング心理学・深層心理学を読み解くための強力な視点・パースペクティブを提供します。

そのため最強のユング入門・深層心理学入門としても読める記事になりました!

またユングはラカンとの違いが強調されることは多々あれど、後期ラカンとの近さについては何故か全く知られていません。

なのでそこのところもきっちり解説します。

というわけでここでは時間という観点から、ユングとラカンを統一的に解説。深層心理学を存在論的に解剖してゆきます。

まさにユングやラカンに興味ある人は必見、この記事で一気にユングとラカンの理解が深まります。

ではさっそく時間という着眼点からユングとラカンの違いと共通点を把握し、双方の理解を深めてゆきましょう。

ユングと今

ユング心理学と精神分析の最大の違いは、今の位置づけにあります。
ラカンの項で後述しますが、ラカン派精神分析では根源的今を欠如として捉えています

それにたいしてユングでは今が中心となります。このことはユングの『黄金の華の秘密』からも分かるように、東洋思想との近さと密接に関わります。

しばしば指摘されることですがユング心理学は仏教にとても近いところがあるのです。

そのため東洋思想、ことに禅や西田哲学において基本となる時間の今が中心的役割を演じます。

ユングと今の関わりをもっとも端的にしめすユングの言葉に「神経症とは過去の心的外傷を原因とするのでなく、そのつど今において生み出される」というものがあります。

周知の通り精神分析理論では過去が原因として措定され、時間の過去から未来への流れを前提に心的事象が説明づけられます。

しかしユングではそれと異なり、つど今において心的外傷はファンタジーとして創られると考えます。

たとえばユングは子どものころ、登校時に同級生に突き落とされ、それが原因で神経症性の発作を起こすようになり、不登校になりました。

しかしユングはこの神経症を克服するなかで、同級生に突き落とされたとき、「これで学校に行かなくて済む」と思ったことに気づきます。

つまり心的外傷となる突き落としがあって、それが原因で神経症となったのではなく、突き落とされたという外的事実を利用して、学校へ行かなくて済むというファンタジーを形成したわけです。

したがってその都度、今の瞬間において、突き落とされた経験を心的外傷としてつくりあげ、そのように認識することで、神経症となるというわけです。

つまり過去に原因となる出来事などなく、もともと学校へ行きたくなかった無意識が突き落とされたという外的事実を利用してそのつどそれを外傷として想起することで神経症を形成するわけです。

ここで重要なのは過去の外的出来事である突き落とされたことが、そのつど今においてその意味は心的外傷として規定され創り出されているとユングが考えていることです。

これは今において過去があり、過去は今においてつど創られ刷新されるということに他なりません。
このような時間意識は極めて共時的なものです。つまり過去は今という時間において共時しているということです。

このユングの思想を突き詰めれば、本質的には時間には今しかく、時間とはつどの今の反復だということにつきるでしょう。

ここが分かると後述するラカンの女の式やサントーム・依存症の議論とユングとの関係が一気に見えてきます。

また、今への着眼、今を根源的事態と見なす時間意識のため、ユング派において現実性は、つどの行為によって創られると捉えられます。

そのため河合俊雄などはつどの行為によって現実性が生じることをつねに著書で強調しています。

(※河合俊雄がいう行為における現実性の着眼は非常に重要で、ユングを存在論的ないしは木村敏的に理解する上でも欠かせない)

つぎに重要なのは、ユングは夢などのイメージの象徴としての意味を考え、解釈することを重視する一方で、イメージや夢の体験を解釈によって言語的な意味に還元し尽くすことを最上とは考えてはいなかったことです。

言語的意味に還元しつくすことのできない直接性をユングは考えており、この点もラカンとの比較で理解するにおいて非常に重要なポイントになります。

またラカンなどでは自由連想に典型されるように、シニフィアン(語音)の連鎖が重視されます。このような精神分析の重視するラップ的な「感情⇒干渉」などの語音による連想の横滑りをユングは重視しません。

そうではなくユングは隠喩的にイメージを垂直に深めることを重視します。何かに置き換えるのではなくイメージそれ自体に垂直的に入るのがユングの特徴なのです。

このような垂直の深まりは、フロイトが夢を隠すものとしたことに対して、ユングは夢は隠さないとしたことにも対応します。

またユング心理学が今を準拠点とすることが分かると、シンクロ二シティ(共時性)の論理についても理解がはかどります。

ユングのシンクロニシティは非常に厄介な概念で、これのためにオカルトだという批判を受けることもあります。シンクロニシティは多分にエセ科学的な超心理学的ニュアンスを含む概念としても有名なのです。

しかし、今への着眼からシンクロニシティを理解すれば、超心理学的な領域に触れずにロジカルな理解をすることが可能です。

シンクロニシティとは「意味ある偶然の一致」を示すユングのタームで、原因につづいてその結果が生じるという経時的着眼点ではなく、布置(コンステレーション)によって生じる複数の事象の同時性に着目するものです。

たとえば「虫の知らせ」などはその例です。そのためシンクロニシティとは、いわば外的出来事に対する内的な意味付けよって生じる事象同士の繋がりのようなもの。

このシンクロニシティの発想からも、ユング心理学では、外的事実ではなく、内的ファンタジー(イメージ)が先で、そのファンタジーにおいて外的事象が意味づけられていることが分かります。

(※ユングにおけるファンタジー・心的事実の先行性は存在者に対する存在の先行性として理解するのも手)

以上からシンクロニシティは因果的な時間の経時性ではなく今という時間における共時が中心になっているといえるでしょう。

またシンクロニシティで欠かせないのが、しばしば共時性の世界観が易経に近いと言われることです。
つまりシンクロニシティとは極めて東洋的な時性なのです。

とくに言語に着目するとシンクロニシティは非常に日本語的だと分かります。というのも日本語は語順による統制を受けず語順を入れ替え可能だからです。

したがって日本語では時系列的な順序、すなわち因果律的経時性は解体しており、つど今において事象が共時しているという意識が優位なのです。

そのため日本語はユングが神経症について語ったように、つど今において世界や過去・未来が作り出されているという今の反復を中心とした時性に親和します。

このことも中期ラカンとユングの差異や後期ラカンとの近さを理解する上で非常に重要になります。

言語学でいえば、英語など欧米語はシンタグマティックが優位で換喩的(経時的)、日本語はパラディマティックで隠喩的(共時的)だといえます。

ここまででユング心理学が今を視座として精神世界を体系化していることが分かりました。
次にラカンとの比較に入る前に時間について簡単に解説します。

僕たちが認識する客観的な時間の一般的なイメージは過去から未来へと一方通行に流れる客体の変化・動きとえいるでしょう。

(※本当に時間を客体化するとゼノンの矢のパラドックスのような非連続な今の継起に還元されるので、連続性と一方通行の流れをもつ時間はいわば公共的時間)

ところが過去から未来へという一方通行の流れを時間に想定してしまうと矛盾が生じます。

まず時間には始点がないと仮定しましょう。すると無限に過去を遡れることになります。しかもどれだけ遡っても際限がなく、無限の過去を遡りきるということは不可能だとわかります。

するとここでは時間は過去から未来へという流れを持つと仮定しているので、現在の西暦2023年にたどり着くことができなくなります。

つまり時間に始点を設定しない場合は現在に到達できず矛盾が生じるわけです。

つぎに時間に始点があると想定しましょう。

すると客体の変化はある時点でスタートしたことになります。ところが何も変化していないところから変化することはできないわけです。

言い換えれば、時間(変化)がない状態から時間(変化)を始めることはできません。始まるという変化が可能なためには始まりに先立って時間(変化)が存在せねばならないわけです。

かくして時間の始点は措定するたびにその後ろにずれ込みこれが無限に連鎖し始点は遡行し続け、定点として固定することができなくなります。

遡行して始点が後ろにずれつづけることは、時間の過去から未来へという原則と矛盾するので容認できないのです。

以上から時間を客体化する場合、2つの矛盾が生じてしまうといえます。

(※以上の2つの時間のパラドックスは深層心理学を理解する上で必須。とくにラカンを理解するときに非常に役に立つ)

したがって時間は空間(客体・客観)の系には属していないと考えられます。この時間の矛盾を客観の構造をとくことで解決したのがかの有名な現象学者ハイデガーの名著『存在と時間』です。

前期~中期ラカンと過去

後期ラカンとユングの交差点:女の式

いよいよ、ラカンとユングの知られざる接近に迫ります!

S1を存在を表象する主客未分の存在者(シニフィアン)であり、時間のそのつどの今であるとすれば、これは共通感覚に根ざし、自他未分の普遍性を持っていることが分かります。

つまり会話をしていて言語の意味を超えて感じる相手との共通感覚による直接的な情動の感応(疎通気分・享楽)こそがS1を形成すると考えることができるわけです。

ラカン派はかたくなにS1の固有性を強調しますが言語以前の直接性であるS1は自他のあいだを表象するもので、存在を帯びていると解釈できます。

それゆえ自他の普遍性に通じる経路として理解すべきだといえるでしょう。

いわば自明性における、おのずからをして身ずからとなすような普遍性から生起する絶対的固有性と考えられます。

いずれにせよ、S1に認められる有としての根源的今は自他(存在者)に先行してある自他未分(存在)の位相である共通感覚につうじています。これは木村敏でいうメタノエシスと関係が深いともいえます。

とすれば、このようなつどある今に視座をおくユングが個人を超えて、集合的無意識や元型を考えたのも頷けるわけです。

個人の底にある自他の共通性として取り出したユングのこれら主要キーワードは、存在としての根源的今がもつ自他以前の無人称的なあいだ・共通性として解釈する余地もあるでしょう。

しかしラカン派はS1と今の反復という多神教的時間性に到達したにもかかわらずなお、自他の峻別以後という存在者の次元にとどっまっているふしがあります。

ラカン派はS1を他者とは異なる固有性として自他の峻別のみに固執してしまう、このことは男の式からまだ脱却し切れていないことを示していると解釈できるでしょう。

(※男の式が悪いのではなく、男の式とは女の式なしには成立さえできませんがそのことについては長くなるので割愛します、興味ある人は僕のYouTubeのヘーゲルの動画を見てください)

しかしラカン派もユング派も僕が知る限りでは、木村敏や竹田青嗣が重視する存在の行為性(能う)・存在そのものへの着眼が弱くイメージだとかS1だとかの具体的な対象に依存しているふしがあります。

これでは発達障害をはじめとする人間心理の本質を見逃すことになるでしょう。


じじつ存在の次元から見ると様々な主体の存在様式を簡単に規定できます。

たとえば、離人症は存在の消去、神経症は存在における〈他性〉の抑圧、発達障害は存在における〈他性〉の排除、統合失調症はつどの存在の非連続化、鬱病は存在における〈他性〉の否認、として分かりやすく体系的かつコンパクトにまとめることができます。

この存在に視座をとるやり方は木村敏的であり僕は木村敏の影響をかなり強く受けています。

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