こんにちは!本好きのうたまるです。
古典や論文を読むとき、なんとなく読んでいませんか?
じつは古典によくある人文系の書籍には正しい読み方があります。
人文系の古典を読むときは著者の主観にそくして読まないと理解できないものがほとんどです。
この記事は以下の人におすすめ
- 古典や人文系の論文を自然科学の論文となんとなく同じような感覚で読んでる人
- 論文の読解の質を上げたい人
- これから人文知や古典に挑戦したいという人
- 特定の心理学や生物学などの文理横断的な学問に興味がある人
- 基礎的な教養や思考力が身につく読書をしたい人
古典は正しい読み方を知らずに、なんとなく読んでしまうと理解が浅くなるだけでなく、誤読におちいりせっかくの読書が台無しになってしまいます。
ぼく自身、最初の頃は間違った読み方をしていて、理解が浅く誤読をしていました。またアマゾンレビューを見るかぎり世の中の過半数の人は古典を誤読しているようです。
というわけで今回は人文系の論文や古典の正しい読み方を解説してゆきます。
人文学と自然科学の違い
じつは人文学と自然科学では論を展開するにあたり、その前提となる世界観からして、まったく違います。
そしてその世界観の違いから、人文学のテキストと自然科学のテキストでは読み方が根本的に異なるのです。
この違いを理解しないことには、古典を読むという行為は成立しません。
それではさっそく具体的に人文学と自然科学の違いを確認してゆきましょう。
自然科学のテキストとは
まず自然科学とは何か?から見てゆきます。
自然科学とは、一つの客観的真実を追究する学問です。そのため人文学問によくある派閥は存在しません。つまり自然科学には、一つの客観的で揺るぎない真実があるという前提があるわけです。
ニュートン派とかアインシュタイン派というような派閥がないのもこのためです。ようするに自然科学には自然科学派しかないので~派という概念は必要ないわけです。
また自然科学は客観的な世界がある、ということを前提とするため、再現性と反証可能性という原則をもうけています。
この自然科学の再現性と反証可能性という二つの原則は、主観性を排除するためのものです。つまり主観性を排することによって、一つの客観的な真実を取り出すというのが自然科学のコンセプトだということです。
まず再現性から確認してゆきましょう。
再現性とは、ある科学実験とその結果は、誰が何回やっても同じであることを示します。
たとえば、ある人が特定の条件のもと水を熱したら100℃で沸騰したとします。このとき他の人が同じように水を熱したら50℃で沸騰したとします。この場合は水が沸騰する温度に再現性がないので、水は100℃で沸騰するということはいえません。
なので実験とその結果に再現性がないと、実験結果は客観的事実として認められないのです。
ポイントは再現性とは、いつ誰が何回やっても同じ結果が得られるということです。
そもそも人によって結果が変わるということは、観測者の主観が入っている可能性が否定できません。
主観というのは人によって異なるため、客観的な一つの真実を追究する自然科学の世界では排除されることになるのです。
そして、この主観性の排除のための操作が再現性の確認であるといえます。
次に反証可能性ですがこれは、あらたな実験結果や発見が、これまで科学的事実とされていたことに反する場合に、これまで正しいとされていたことが間違いであると訂正される可能性も持っているということです。
反証可能性のないものは、科学の定義から外れます。
たとえば宗教では聖書に書いてあることには、まったく反証可能性がありません。聖書に書いてあることは絶対であり訂正されないのです。
具体的にいうと、ロケットによる観測によって地球が丸いことが発見されても聖書の記述は訂正されませんでした。
なので人によっては今も地球は平面であるという主張をするわけです。このような反証可能性のなさのために、宗教は科学と区別されています。
なので反証可能性も客観的な一つの真実を取り出すために自然科学がしつらえた原則だといえます。
このことから自然科学とは、人々の主観から切り離され、それ自体で成立するような一つの客観的事実があるという世界観を前提にしていると分かります。
そして主観性を排除し客観的事実を取り出すことを目指す自然科学のテキストでは、もちろん著者の主観も完全に排除されます。
なのでニュートン力学の論文を読むのに、ニュートンの個人的な生い立ちだとか性格、時代背景などを知る必要はないのです。
そうした著者の主観性を抜きにして客観的に成立することだけを記述したのが自然科学のテキストだといえます。そのため、いつ誰が何回読んでも書かれいる内容から読み取れる意味は変化しません。
その意味で自然科学のテキストは意味が固定された動きのなさが特徴のひとつです。
ところで量子力学のさまざまな実験が示唆し、多くの哲学的論考が示すように、厳密には自然科学が前提する客観というものは存在していません。
そのため自然科学の前提する世界観は、あくまでも仮定であり仮説に過ぎません。事実として、量子力学などの自然科学の分野では客観がないというようなことが示唆されつつあります。
人文学のテキストとは
こんどは古典に多い人文社会科学のテキストの特徴について解説してゆきます。
ほとんどの人文学とは自然科学的な客観性を確定できません。そのため人文学の多くは、一つの解釈という側面が強いのが特徴です。ゆえに人文学がその論を展開するにあたり前提とする世界観は、著者の解釈(主観)によって異なります。
このように言うと、ひろゆきのように、文系学問は個人の感想、客観的真理に到達できないから無意味、と思われるかもしれませんが、それは違います。
というのも、人文学が研究の対象とするものは、そもそも客観的に存在する物(客体)ではないからです。
つまり自然科学の研究対象というのは多くの場合、実体のある具体的な物質やその物質の性質であることが多く、こうした物質というのは個々人の主観から独立して、それ自体として存在しています。
なので実体のある客観的にそんざいする物質に関することからは、客観的な真実を取り出しやすいわけです。
しかし人文知の対象はそうではありません。たとえば哲学では正義や愛について、その本質がなんなのかを論じますが、正義も愛も人間の主観と無関係に独立して存在しているわけではありません。
正義も愛もそれじたいが主観的なものであり、ひとつの解釈としてしか存在しないのです。
つまり正義という物質が個人の主観と無関係に独立してあるのではないということです。
なので、そもそもが主観的でしかない人文学の対象には自然科学のような一つの客観的真実というものは存在していません。
正義とはこの世界にいる個人が世界をどのように解釈するかによって変化するものであり、いわば個人と世界との関係性に他ならないのです。
だから一つの絶対的で客観的な正義のあり方は定義することができません。
このような主観に過ぎず実体を持たない対象には、自然科学とは異なる真実があるといってもいいでしょう。
あるいは、正義のような実体のない主観の本質が何なのかという答えは、解釈という形でしか存在しないといってもいいかもしれません。
したがって個人の主観と切り離せない主観的な対象についてを論じる人文知のテキストは自然科学のようには読めません。
つまり、著者の生い立ちや時代背景をたよりに、行間にかくされた著者の主観的な世界観を探りながら、その世界観(行間)に照らして文章を読む必要があります。
また著者の主観という’曖昧さ’にそくして書かれていることの意味が決まってゆく人文知のテキストは、読むたびにその表情を変えます。
つまり著者の主観は、主観という曖昧なものであるため、はっきりしないところがあります。
ですから時間をおいてもう一度読むと、これまで気づかなかった思わぬ一面が見つかることもあるのです。
そのため思いもよらぬ新しい読解が可能になることは珍しくありません。
古典がけっして古くなることがないと言われるのもこのためです。
こうした主観性の側面がもっとも強いのが心理学であるといえます。心理学が扱う心というものは、主観のことに他なりません。
主観を扱う心理学は科学的手法では追求できないことがあまりにも多いというのが現状です。
よく実験心理学などの科学をうたう心理学も含め、心理学は科学ではないと言われることがあるのもこのためでしょう。また精神分析などの人文系の心理学がフランスなどでは今も心理学の主流な地位にあるのもこのためです。
心などの人文学の対象が主観である以上、自然科学的な手法では研究しつくすことができないわけです。だからこそ人文知には派閥があり、どくに心理学には数え切れないほどの派閥があります。
フロイト派やユング派というときの派とは、まさにその学問体系が主観であり解釈であることを物じ語っています。
というわけで心理学や哲学に代表されるような古典のテキストは、自然科学の論文のように字義通りに読むことはできません。また自分勝手に自己の価値観を押しつけて読んでも、まったく内容を理解することができないのです。
そもそも、そんな風に読んでもちっとも楽しくないです。
ところが、ぼくがレビューなどを見てぼくが確認したかぎりでは、自分本位に読んだり、自然科学的な前提で読んでいる人が過半数を占めるというのが実情のようです。
まとめ(人文知と自然科学のテキストの違い)
ここで、話を整理するためにいったんまとめます。
自然科学とは、一つの客観的真理を前提し、その追究のために再現性や反証可能性によって主観を排除します。
そのため自然科学が前提する世界観は主観性と完全に切り離された客観的世界が存在し、そこに到達できるというものです。
したがって自然科学のテキストは著者の生い立ちや個人的な価値観などの主観性と切り離して客観的に読むことができます。
次に人文知とは、とりあつかう研究対象が正義や心など主観そのものであり、主観を排除する自然科学の手法では満足な研究ができません。また一つの客観的真実も存在しません。
そのため人文知が前提とする世界観は多様であり、著者によって前提される世界観に差があります。
したがって人文知のテキストは、一つの解釈になりやすく、そのテキストを理解するためには著者の価値観や生い立ちなども考慮し、著者の主観に照らして読解しなければなりません。
学問の特徴 | 世界観 | テキストの特徴 | |
自然科学 | 一つの客観的真実がある | 個人の主観から独立した客観的世界を前提する | 内容が一義的で著者の主観性は関係なく客観的に読める |
人文学 | 解釈であり客観的真実い | 著者によって前提とする世界観が違う | 多様な読み解きが可能であり著者の主観性にそくして読解しないといけない |
実際に古典を誤読して起こったこと
ぼくはもともとは理系で、そこから独学で心理学などの古典を読み出したので、最初の頃は誤読をしていました。ここではその失敗を紹介し、古典の読み方が分かっていないといかに悲惨なことになるかを示します。
僕は読書をはじめたころ精神分析で有名なフロイトの本を手に取ります。
しかしフロイトの入門書を読んでいると、フロイトの生い立ちが書かれ、その生い立ちとの関連からフロイトの理論が説明してありました。当時はその理由が理解できませんでした。
というのも当時の僕はゴリゴリの理系脳だったため、フロイト個人の生い立ちはフロイトの理論となんの関係もないと思っていたからです。
当時の僕は関心は、精神分析の理論がどれだけ普遍的(広く一般的)に適応可能かということだけでした。このような自然科学的な考えではフロイトのテキストを読解することはできません。
この誤読から、ぼくはフロイトの考えの面白さと説明力の高さに引き込まれる一方で、フロイトの正しさを客観的に評価できないことに、不満をもつようになってゆきます。
また心理学には客観的な一つの真実があるという前提で読んでしまっていたので、ユングなど、他の派の心理学の論文を読むたびに、どっちが正しいかということばかり考えていました。
このような意識での読書は非常に窮屈であり理解の妨げにしかなりません。
しかし読書を続けていくうちに、この記事で説明した人文知と自然科学の違いに気づき、そこから一気に読書の質が向上したのです。
古典を正しく読むことで得られるもの
これまでに説明したことを念頭に正しく古典を読むことで、人生は豊かになり、自己変容につながりやすくなります。
また古典(人文学)のテキストのだいごみはなんと言っても客観性によって固定された自然科学のテキストと異なり、その文章が生きていることです。
古典が行間にやどす著者の生きた主観性は、それ自体が一つの世界観であり読者にとっては、まさに未知の世界への参入という意味合いを含みます。
そのため古典を読むことで読者は、著者が示す未知の世界に触れる体験をすることになるわけです。
さらにこうした読書体験を通して、これまで自分が絶対だと思っていた自己の価値観や世界観がひとつの個人的な価値観に過ぎないことを知るのです。
また自分と異なる世界観の存在を知ることで初めて人は、本当の意味で自分と異なる他者を理解することが可能になります。
したがって古典を読み解くことで、自分と異なるタイプの他者の発言の文脈を読んだり、多元的な視点で物事を深く考察することが可能になるわけです。
このような深い読書体験はまさに古典を読むだいごみと言っていいと思います。
まとめ
- 科学は再現性と反証可能性により客観性を追求し主観性を排除
- 科学が前提とするのは主観から独立した客観的世界
- 科学のテキストは著者の主観と切り離して読める
- 科学のテキストは誰が何回読んでも変化がなく同じに読解可
- 人文学は研究対象そのものが主観的であり客観的真実はない
- 人文学の前提する世界観は著者によって異なる
- 人文学は著者の世界観・主観にそくして読解するもの
- 人文学は著者の読むたびに読解できる意味が広がり変化する
- 古典を読むと価値観の異なる他者理解や多元的な視点が可能になる
こんかいは以上です。
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