うたまるです。
最近、ぽこ堂で論理言語学研究者と心脳論問題やクオリア問題を論じて、なぜシミュレーション仮説を否定すると激しく否定されるか分かったので記事にする。
※分かったというのは厳密には、おそらく~ということだろうという個人的な信憑を得たという意
※ここまでリテラルに文意を解説しないと伝わらない
論理言語学者について
本題に入るまえに、この記事での学問の扱いについて訂正しておこう。
論理言語学者はどうも論理学的論理を絶対化しているタイプの学問ではないらしい。
聴いた話を僕なりに解釈して要約すると、論理多元主義?だったかを採用し、そのうえで諸科学に対する汎用性の高い数学論理に依拠して言語の論理学的記述を試みる学問?ということらしい。
しばしば当ブログ記事では、形式論理言語学を問題視する言説を張ってきたが、これについては一部、訂正が必要であろう。こうしたことはいうまでもないが社会批評的言論では珍しくない。
さて、論理言語学は数学的記述によって言語を研究するもので研究者の多くは大学に属し、予算獲得にも一定、配慮せねばならない立場ではなかろうか。
もし数学的に言語を完全に解明できたなら、その学問地位の向上と圧倒的な学問的プレゼンスが約束されるだろう。
だから、学問の性質上、論理言語学の研究者は言語に対する論理学的な記述の優位性を強めたいという欲望が働くような状況にある、といえなくもないだろう。
こうした意味では、数学論理による人文領域研究への批評は一定の有効性と妥当性を持つと考える。
根本的誤認
不正確なところもあるかもしれないが、言語学研究者との議論の結果を僕なりに要約すると、絶対的な真理は確定しえず客観的真理は訂正可能性、可疑性をもっている、だからシミュレーション仮説やクオリアの数値化の絶対的不可能性を断定することはできない!
僕の理解だと相手の主張はこんな感じ。客観的真理は必ず可疑性があるから分からないという結論は議論するまでもなく自明ですよね、といったらこの言葉の意図はまったく通じなかったが同意はしたので、だいたいあってるだろう。
つまり言語学研究者は、客観的真理には可疑性がある、という相対主義の論法から、語り得ないものを語る態度でもって懐疑論をつかってシミュレーション仮説やクオリアの定量化の可能性を主張していた。だから議論中に問いえないものについて問うているんじゃないの?(語り得ないものについて語ってるのでは?)と聴いたのだが完全に無視されてしまいはっきりしなかった。
※問いえないものについて問うている、というのは回答可能を前提としたクオリアの完全で客観的な定量化は不可能か可能かとの問いを、懐疑主義的レトリックで問いえない問いに変換して、分からないと結論してるだけでしょ、という意味
なんで無視するのという感じ。これじゃ議論にならないと感じて凄く疲れた。
現象学的なクオリアの議論でスパゲッティモンスター論法でコンテキストを勝手に入れ替えて、定量化の可能性を指摘されても本当に困るのだが。
おそらく僕の記事にクレームを大量におくりつけてくる人たちの根底にもこの思いがあるのかも。
さて、これはそもそもの議論の前提におけるコンテキストの誤認による。
まずシミュレーション仮説の絶対的不可能性を厳密に論証することはできない、僕はそんなことをしていないし言っているつもりもない。
そもそも客観的真理もいかなる証明も可疑的であるからこれはいうまでもないだろう。たとえば、語弊のある例を出せば、どんな数学的証明もこの数式が正しいという催眠術にかかっているのかもしれないとか言い出せばもう確証のしようがない。
だから通常はコンテキストによって、論証とか証明とか言う場合の、その信憑の程度は変る。
したがって僕の記事の文意は、
シミュレーション仮説の不可能性を絶対的に論証はできないことが前提で、
ここではシミュレーション仮説が可能か不可能かの問いを、問いうるもの(語りうるもの、答えられうるもの)として設定し、つまり厳密な絶対的かつ不変的論証の可能性はないの前提で、強い普遍的な信憑・確信としての暫定的判断を出しうると仮定し、その意味で不可能という判断をくだすにたる妥当性があるだろうと主張したい。
なぜなら、クオリアは現状、客体ではないと考えるほうが現象学的な妥当性が圧倒的に高く、それゆえクオリアは物理的・客体的な観測可能性を持たず客観的に数える手段が原理的に存在しない可能性が極めて高いと考えられ、したがって定量化を実現する手段をもたないだろうから。事実現在、客観的な定量化の方法の具体的な目処もたっていない。また、シミュレーションを数理的な演算として定義した場合、シミュレーションにおいてクオリアや主体ないしは物自体を表示・表現する手段も存在しないだろう。
数式を演算したり計算するだけで物自体のすべてが再現されるというのは存在論的には、ほとんどありえないというあたりまえのことを言っている。
ようするに日常、自明とされ通常確証され、事実と措定されているものを、正しいと前提して訂正可能な議論がスタートしている。
問いうる問いについて、問いえないもの(絶対的真理の懐疑性)を取り出して、コンテキストをすり替えても反論にならない。
数学はこの場合、客観空間座標を示す記号でしかない、その客観空間は視覚優位のユークリッド幾何学空間と別の数学的空間もあるだろうが、原則、数字はどの数学でもデジタルな性質は変らないだろう。
ゼノンのパラドクスは現代の数学でも解かれていない。これをもってクオリアの定量化を不可能と論じることの何が問題なのか意味が分からない。今のところ不可能と考えて概ね問題なかろうという程度の意味。ハードプロブレムに挑戦したけりゃ自由で勝手にやっていればいい。
※追記:論理言語学の人が量子力学の数学がどうとか複雑な数学ならクオリアは定量化の可能性があると意味不明なことを言っていたが、そもそも客観的観測ができてない、つまりクオリアをクオリアとして数える手段・観測機がないのに数え終ってから問題となる数学の話をしても意味ないだろう
論証のコンテキストや意味を勝手にすりかえて
絶対にそうだと言い切れないと懐疑主義のレトリックでスパゲッティモンスターをしても意味が無い。
相対主義の論法で可疑性を取り出しても無効なことは哲学の基礎を知っていれば自明。
現状目処もなくやりようがなさそうなことの根拠を一定程度提示してそれをもって、不可能というのは普通。だから繰り返すが、訂正可能性のない絶対的断定をしているわけではない。いかなる客観にも可疑性があることを自明としたうえでの回答だからだ。
現象学の論理を援用しているわけだから、僕の記事では、このことは前提となる。こういう前提すら分からない人は頼むからプラウザバックして欲しい。相手するの疲れるしだるいし、そういう人はこのブログの想定読者ではない。
そんなの無効だ!論理的に不誠実だ!ふざけるな!と思われるかもしれないから繰り返し説明する。
客観的真理は可疑的、つまり訂正可能性を持っている。もし論理的に厳密にしか言及してはならないなら、つまり言説が完全にリテラルな意味しかもちえないなら、空飛ぶスパゲッティモンスターはいるかもしれない!と言わねばならず、あるいはこの世界は夢かも知れぬということになりコンテキストに基づく信憑からくる真偽判断の断言が全て間違いとされてしまう。
ようするに問いうるもの・答えられる問いとして僕が問いを設定し、自らそれに答えた記事に対して、語り得ず問いえない相対論、つまり可能か不可能かは不明で決定不能だという訂正可能性の指摘をするのはナンセンス。
客観の訂正可能性、可疑性を否定する文意は最初からない。
だから、何かを断言していても、その信憑性の水準はコンテキストに依存する。
あくまでも現状無理でやりかたの目処もたってないから、それをもって今のところ不可能(と考えても概ねよかろう)、程度の含意ということ。なんでこれすら分からんの?
こんなことでは、いちいち、可疑性があるから厳密には断言できないが、と何回も言わねばならなくなるだろう。そもそも当該記事はエンタメ要素を狙ったものでもあり、過激目の論調を意図的にとっている。このブログの初期の記事はSEOを意識したものがいくつかあり、シミュレーション仮説の記事はその最たるものの一つだ。やや炎上商法的な手法をとっているといってもよい。
また、世間へのカウンター言説として、あえて誇張して不可能性を主張する戦力にある。
言論ではこうしたカウンターの言説であえて誇張することがしばしばあるし、こうした言論は社会通念上も、許容されていると思うのだが。
ともあれ、こうした文脈が読者を選別しないブログでは、いっさいくみ取られず誤読される、ということを思い知った。
いちいち厳密にリテラルに記述などしていたら、たかが思いつきの趣味の個人ブログ記事を書くにも、査読つきの学術論文を書くほどの堅苦しさを要するし、文脈を読む読者には蛇足となろう。
個人ブログには個人ブログというテキスト外コンテキストがある。
繰り返すが、現状この程度の根拠があれば、概ねシミュレーション仮説の可能性は今のところはないと見なしてよいだろうというのが、僕の論旨である。
つまり、記事の想定読者や論述の仮想敵は、(全てを物質そのものではなく)その数学記号として取り出される物質の客観面に還元できる、ということを絶対視する価値規範や論説にある。この時代精神に対するアンチとしてシミュレーション仮説を否定しているということ。この文脈を無視して頭の弱いクレームを送りつけてくる読者が多すぎて困っている。
※専門的にいうと現実界と象徴界とは差異があり象徴界には欠如がある、この欠如が人間の近代的な自由の根拠となるわけだが、この欠如を埋め立てたいとする学問的野心と消費社会の欲望の再生産の構造とには相同性があろう、という人文学的にベーシックな問題提起をしているに過ぎない
また、いうまでもないが、客観・数学還元主義は時間の今のアポリアをうむ。だから心身問題にしろクオリア問題にしろ存在論的な現象学が非常に密接に関わっている。
さて、彼との議論の最後、客観は可疑的なので分からないという結論への帰着は論じる前から自明ですよねと言ってみたが、この文意が伝わらなかったのは本当に疲労感を増大させた。
学問的な議論で懐疑主義なんかもちだしたら、何も議論にならないだろう。
可疑性を前提に、それでも論じ合って暫定的な共通確信の合意を構築しようというのが議論の意味だと思うのだが。論じる前から自明の懐疑主義をもちだして何の意味があるの?こんなことされたら本当に疲れるって。
もっとも記事の方では、前述の理由から、ニュアンスが不明瞭になっていた節があるのは認めるにやぶさかではない。とくに想定読者を一般人に想定していたから、最近の一般人はかなり思い込みが激しいので、意図や主張の前提は全部、解説しておくほうがよかったかもしれない。
僕は面倒なことできないので、ここで当ブログの注意点を書いておく。
僕のやってる学問的考察は全て解釈に属する。解釈学的側面があり現象学的な要素もあるから。
つまり絶対的で客観的真理なんか言及しない。厳密にはそのような客観的真理はないという意味においてすらないと考える(現象学)。もともと人文学の本質領域とはそういうものである。かりに断言していたり、完全論証とかいう言い方をしていても、それはエンタメとかもろもろを意識したサムネ的な戦略込みと理解していただきたい。
また、自分にとって挑戦的な考察をするほどブレるし、間違いを犯すリスクは高まる。
このブログでは攻めるときは攻めるので当然に研究につきものの間違いは多分にあるだろう。
アクチュアルな思考の記録がブログのコンセプトなので、それも当ブログの味として了承願いたい。
このブログは趣味の個人ブログで査読付きの学術論文みたいな論文を生産する場ではない。いちいち赤字を垂れ流して趣味で継続しているもので、金にもならないのに、金を払いもしないで僕に厳密さを要求されても非常に困る。
また僕は自分にとって自分より能力が高いと思える人以外のいうことは一切聞かない、だからクレームを僕に入れても実力を実証できないなら意味はない。こういうとデカルトの方法序説の原則に反するとさわぐ人がいるかもだが、これは個人ブログで僕の趣味でやっているものだから、方法序説になにからなにまで従う必要は無い。
猿でも分かるシミュレーション仮説問題の簡略図
【数値・数式・演算】
↗(観測・数値化) ↘(数列を復元)
【現実世界】 【再現世界】
クオリアを非客体と仮定した場合、↗数値化可能性が原理的にない可能性が極めて高い。
もしクオリアや物質の全てを客観的・空間的に↗観測・数値化できたとて↘数列の羅列を復元し世界を再現する手段が現状ではまったくない。もし数列を計算するだけで再現世界になるなら、みんなで手計算して数列を書いていると世界が生じるというに等しいだろう。また主体やクオリアといった非客体を表示することは原理的にできないと考えるのが現状は現象学的にいって妥当である。
※↗と↘の不可能性が問題の焦点
また現状の限られた知識から類推する限りクオリアを非客体だろうと考えることには十分の現象学的根拠があると考える。したがってクオリアは非客体であるとか定量化できないと恣意的に定義しているのではない。
このような一般に了解可能であろうことを正しいと前提するならば、その限りにおいて、シミュレーション仮説の可能性は現状ではほとんどないだろう。もちろんこれは個人の意見の範囲をでない。
懐疑主義的に全て夢かもしれないと言われたら、そんなものには答えようがない。
なお、当該記事は世間一般に言われているところの安直なシミュレーション仮説信仰の絶対性の背後にある数値還元主義を論駁するものであって、そもそもそれ以外の文脈のシミュレーション仮説は対象外である。
※ハイデガーの議論とラカンの議論が論旨の根底にある、こういうことも分からないで、ごちゃごちゃとしつこく僕に絡んできても意味が無いし議論にならない、いちいちVRにまで沸いてきて絡んでくるなということ
心の哲学からの補足
さて、ぽこ堂で哲学全般にかなり詳しい人から、心の哲学について色々と教えてもらい、現在主流の心の哲学における心身問題の解答を知ることができたので、その観点から議論の補足をしておく。
心の哲学の主流な見解では一元論を採用して、脳機能と心を一体と見なし同時性を措定することでアンチノミーやアポリアを解消するという。
哲学的な基礎理論でこれを僕なりにかみ砕けば、心身問題のアポリアは心と体、心と物質とを二元論的に分けて、両者の関係を単線的な因果関係・先後関係によって論じることでおきる。
心を原因として身体物質に先行させれば、心という非物質(物質の非客体面)が物体(客体)を動かすというポルターガイスト的な奇妙な現象を受け入れねばならないし、身体を先行させれば心の存在意味が消失するというわけだ。
だから、先後関係を前提する二元論を解体して、同時性の一元論をあてはめることでアポリアを回避しようということ。
ちなみにカントの理性批判を知っている人が、普通に考えたら誰だって、この結論になる。
さて、すると心・主体やクオリアを捉えることがなく物質の客観性を抽象的に数値化する数学論理は、心身一元的なソレから客観的空間面と主体面を分離して二元論を構成していると分かる。
つまり客観系を措定することで主客二元、心身二元を構成する数学論理において、アポリアとアンチノミーが不可避に要請されると考えられるだろう。数学でクオリアは分からないというより、むしろ数学を使うことでアンチノミーが出てくるという側面があるということ。
※追記:分かりやすくすると、現実の世界を数値化して客体系が出てくるが、現実を数値・数式へと変換し、それをまた再現された現実世界へと変換・表現するときに、再現世界と元の現実世界とに差異が生じる、この差異がクオリアや主体、物質の非客体面に相当する
もちろんこれも絶対的真理ではない、あくまでも心の哲学の主流派の考えを素朴に受け入れて到達するもっとも自然だろう考察のうちの一つという程度の意味である。
※絶対的真理ではない、なんて注釈は普通はいらないが、アホのせいで書かないといけなくなった本当にうざい
心の哲学の主流派が二元論批判をしているなら、その主流派に依拠して考察を進めた場合、数学でクオリアを記述できるとするのはかなり無理があると思うのだが。
ゼノンのパラドックスが典型だが数学記述によってパラドックスが生じてくるわけで、そうしたパラドックスは二元論のアポリアを構成するわけだから。
※追記:心の哲学が一元的唯物ではなく、唯客体論をとって客体と主体を客体と客体機能として捉え、さらに客体の側からの機能の記述だけがあると考える場合、客体還元論となる。機能が客体に従属するという論理になる。つまり機能の意味が無く心身問題に回答できない。唯客体論の場合は客体機能の側からも同時に客体を記述できなければ客体原因論・客体先行論と変らないだろう
※最近、大澤真幸が動画で、科学者が心身問題や量子力学の観測問題について唯客体主義的なアプローチで解決しようとした研究があると紹介していたが動画によると最新の科学でも心身問題は解かれていなかったという。なお、量子力学とマクロ物理学との間の、つまり数学と数学の間の断絶は既に克服されたようである。つまり人類に残る最大の謎が客体と主体との断絶だということ
終わりに
ネタがないので極めて質の低い消化記事になった。現代人の決めつけ、帰謬論、コンテキストの無視、これにはうんざりする。
さて、言語学研究者との議論で、心身問題のアポリアの議論になったのだが。
僕は、このアポリアは線形論理的(純粋理性的)な因果関係・先後関係(スタティックで一方向的な先後関係)を前提することでつくりだされる仮象であろう(実際には先後関係はなく同時的)、と彼に提示した。
彼はそれは考え足らず云々で心の哲学を勉強してくれ、的なことを僕にいってきた。なんでも心が身体に絶対的に原因していて、モノならざる心がモノを動かすポルターガイスト的なことをあえて認めて考えるすごいハイレベルなものがあるとかなんとか。
何がどう凄いか説明もなく一方的におしつけてきて、このときは、こいつやべえなとなった。
これ聴くとじゃあその発想でアポリア解けたのかよ、とつっこみたくなるが、解けていないという、僕の考えがその陳腐な考えに劣るという根拠は不明であった。凄い偉い人がいる、あなた勉強不足で何も知らない!と一方的に決めつけられて妄想を強要されてしまった。凄く自信満々でどこからその自信がくるのか不思議だった。
※あとお前は知らないと言ってきたのでつきあったがそういう考えがあるというのは最初から想定している、というのも決定論を受け入れる哲学の派があるくらいなのでそこから容易に想定できる
スネ夫がボクのパパは偉いんだと言ってきたように感じて凄く疲れた、これが大学の研究者の実態らしい。ともかく、うざ絡みしてくる言語学の人の相手をしたあげく、嫌みを飛ばしてくる頭弱いクズがいたり、ぽこ堂は面倒な場所だなと思った。
その議論のあと、ぽこ堂にいた別の心の哲学に詳しい人に対して、僕のかくかくしかじかの考えより圧倒的に優れた心身問題のアポリアに関する考察が心の哲学界隈では提出されいると聞かされたがそれは本当か?と確認した。
その結果、現在、心の哲学で主流となる意見が、そのとき論じた言語研究者に対していった僕の意見とほぼ、まったく同じらしいとはっかく。つまり論理言語学の人が嘘をついていたと発覚、うざすぎる。なに考えてんだ?
研究でも嘘つくのか?
繰り返すが、心は脳の機能であり脳機能(脳の非客体性を含む物理的運動)と心にスタティックな先後関係はなく同時・同一(一元論)だと考えることでアポリアに一定の決着をつけるのが主流だという。
いうまでもないと思うが、心身問題のアポリアは一方的な心身の先後関係(因果関係)を前提するために生じるカント型のアンチノミー・純粋理性批判になっているわけで、純粋理性批判を知っている人が、まともな思考力で哲学的に考えたら誰でも同時性の可能性を考慮する。
なんでこの当たり前のことさえ一切理解しようとしないのか意味が分からない。
※カントの理性批判の議論をごぞんじなら誰でも、このアポリアが理性(線形思考、理性)から生じていると考える、だから理性批判を構造主義的言語論に転移すると僕の意見が出てくる
現象学の基礎も存在論も理解しないで現象学が専門とする心身問題で深層心理学やってる人にマウントとってくるなんて普通の感性ならまずありえないから、嘘が常態化して妄想と現実が区別できない研究者とは絶対に関わらないほうがいいなと思った。
そもそも科学史の解釈論を断定しておしつけてきたり、人の解釈にはいちいち難癖つけて、自分の解釈は強制してくる人で辟易した。これが大学の論理言語学研究のスタイルらしい。
二度と僕は、ぽこ堂には行かないことにした。ただただ面倒。だいたい最近はフーコーに全集中して何ヶ月もそれ以外の本など読んでいない。ここまでやって最近やっとフーコーがつかめてきたところ。
それを~の本を読めとか僕にとって自分より研究能力の遙かに低いと思われる人に上から言われても学問なめてんのか、片手間で理解できると思ってんじゃねよ、と思わされる。平行して何かを学ぶ余裕など一切無い。まさに人がフーコーと真剣勝負をしているときにアホをいうなと思わされた。
ぽこ堂で知的議論をやたらとやりたがる人は、余裕があるのだろう。こっちはフーコーを読んだあとでログインしているから最初から疲れていて学問的議論などやるモチベーションは無い。
ただし、論理言語学者が論理多元主義?で数学論理を絶対化していないという情報は非常に価値があり、それはとても参考になった。
さて、論理言語学の人が言語が人間主体に影響することは納得できないと言っていた。
これについて簡単にいえば、
私という一人称の言葉がなければ、私という意識を確立するのが困難となろう、逆に最初に私という言葉を教えれば、自然に自意識を生成するより短期間に私という自意識や自己同一性をもつことになろう、このように考えてはどうだろう?それとも人間が言語をもっても持たなくても自意識のレベルが変らないとでもいうのだろうか?
あるいは人間は言語によって思考しており、たとえば数学の高度な言語を思考とともに発展させ、高度な数学言語や哲学概念の誕生がさらに思考者の高度な思考を可能にし、思考主体の知性を上昇させる。このような知性と言語の連動から主体の諸性質に言語が回帰的に影響を与えると考えてはどうだろう?
それともこれすら否定するのだろうか。もう勘弁して欲しい、どういう思考回路なんだ。
さらに補足しよう。ハイデガーの時間論における客観時間が実存時間をベースとするという議論を動態構造的なディスクール論に転移するとディスクールや言説の論理構造が意を内在して主体を規定する作用があることの意味がよくわかる。
つまり時間の今のアポリアを解くことと言語構造が意をもっているという存在論的な言説構造論とは密接に連動している。
これについてはカントの純粋統覚の議論やノエマに対するノエシスの連続的調和の議論を構造主義言語学的な観点で観てゆくとよく分かるだろう。
ノエマあるいはノエマ的自己の存在論的な統覚のあり方が言語の意味連関的な構造と時間化とに連動していると考えるということ。
こういうレベルのことを準備なしで口頭でいきなり素人にわかるように説明するのは僕の能力では不可能であるが、このような解釈は一定の現象学的妥当性となにより広域の論理整合性を担保して体系的な現象記述が可能となるという利点がある。
だから相当な理由があってこういう考えを当ブログではとっている。素人に口頭で説明なんかしてられない。自分で勝手に本を読め。
論理言語学の類いが好きでこのブログをみて発狂している人がおられたら、僕は相手にできないので、ともかく面倒で疲れるから関わらないで欲しい。
またスネ夫タイプの人は僕は死ぬほど嫌いだし、このブログとは合わないから、プラウザバックして欲しい。
当ブログはこれより論理言語学者とスネ夫の立ち入りを禁止とする
おまけ:反生成主義哲学についての感想
ぽこ堂の知り合いが反生成主義という哲学を構想している。
これは反出生主義を救済する哲学だという。つまり、生まれて不幸だと感じるのは外界との関係において不幸だからで、幸福の多寡はこの意味で外的な何かに規定されている。
したがって反出生主義の不幸を取り除くため、外的な何か(生成)をリセットし、不幸という自己同一性の生成を消し去ろう、というもの。
あくまでも僕の勝手な解釈で反生成主義の概要を示すとこんな感じになる。
しかし、この着想は本人によると暗礁に乗り上げたという。
というのも、生成を破壊したそのあと自己を立ち上げて誕生する手段がないからだ。これでは再出生できないということだろう。
さてこの考えはラカンでいうスキゾイド論に似ている。
だから後期ラカンのサントームの単離、スキゾイド論やドゥルーズの逃避線あたりが参考になる気がする。
ただしこれらは主体の側を外界から分離するもので外界を破壊するというニュアンスは持っていない。
また、これら反生成主義に考えの似たフランス現代思想は、生成の場を象徴界に求める傾向があると思う。
おそらくだが、生成の否定を外界の操作や破壊と考えると困難になるように思う。だから生成を主体と環境との接点に想定し、その生成の場としての象徴界から逃避するというドゥルーズ的な考えから着想してはどうだろうか。つまり、いかに生成の場から離れたり関係してつきあうか、その付き合い方のオルタナティブを模索する、そういう方向で考えた方が簡単になる気がしなくもない。
これでは既存のフランス現代思想との差別化が甘くなると思われるかもしれないが、反出生主義の救済という目的意識と欲望とが、自らの論理生産に固有の体系を生じてゆくように思う。
反生成主義哲学の実践を、オルタナティブな未生成の場、意味付け以前の場所づくりに求める手もあろう。理論が実践を規定し、実践が理論に回帰するモデルで研究をすすめるやり方もある気がする。
いずれにせよ、反生成主義の哲学はポストモダンによった哲学になるのではないか、と思う。
個人的には、千葉や國分、松本卓也の考えに近くなりそうな気配を感じる。
コメント