※この記事、複雑な諸事情で分かりにくく極めて冗長になりました。しかし、読者がこの記事の論旨をある程度理解したなら、考え方や物の見方が根本的に変る可能性が高く、とくに社会について考える読者にとっては衝撃的な内容になっているはずです
うたまるです。
この記事の要点は二つ。
一つは無意識なるあるのかさえ曖昧な概念について、その確かさとある種の実在性を示すこと。
次にこれは無意識の確かさを明証することに直結するが、ディスクール(語られてあること)分析の意義と意味をつまびらかにし、ディスクールの動態構造がいかに人類の欲望(無意識の欲望)や思考一般を支配しているかを提示すること。
さて、フロイトが提唱して以来、無意識という概念は誰もが日常的に使う言葉となった。しかし無意識とはなんだろうか。じつのところ多くの人は無意識という語を使いながらそれが何かまともに答えられないのではなかろうか。無意識の欲望とか無意識に抑圧とかいったりするがそんなもの本当にあるのだろうか。
じじつ深層心理学では無意識は一つの作業仮説に過ぎないという見解が根強く、現象学的精神病理学に至っては、その仮説性から無意識という概念を使うことさえない。
※深層心理学の深層とは無意識のこと、それゆえ深層心理学はプラチック(日常自然になされる実際行為、習慣行為)をとらえる理論になりやすいかも
また無意識と言っても論者により種類があり、ユングなら個人的無意識と集合的無意識に分けて考えるし、ラカンなら無意識は言語のように構造化されているとし、さらに言語構造化された無意識とは別に享楽による現実界の無意識も考える。
一つの記事でこれら全ての無意識について語るのは無理なので、ここでは50年代ラカンがもっとも重視した言語的に構造化された無意識について、理路明瞭な解釈を提示し無意識のある種の実在性について明証したい。
無意識は言語のように構造化されている、この意味が分かれば欲望とは他者の欲望であるというラカンの公式の意味も分かるのだ。この二つのテーゼを深く理解するだけでラカンの理論は誰にでも納得できるものとなろう。
そんなわけで無意識理解のためにもこの記事ではディスクール分析を中心に論じることとなる。
と言うと、ディスクール分析?なにそれ?時代はマルクスガブリエルの新実在論だ!とか斉藤の人新生の資本論だ!と思う読者がいるかもしれない。
しかしそれは間違っていると言いたい。
この記事を読めばディスクール分析なき社会理論がいかに軟弱かを知ることになる。
またディスクール分析の視点を身につけると、人格が根本的に変化することも記そうと思う。さらにディスクール分析の水準を理解すれば、誰のどの思想についても、しっかりと見定めることが可能となるだろう。
この記事が読者に提供するのは、知識ではない。そうではなく世界を別様に在らしめるところのオルタナティブな主観である。それもたんにオルタナティブというのでなく、既存の読者の主観の構成を、その否定を介して弁証法的に肯定する主観。
ともあれディスクールを知ることは無意識を知ることなのだ。
さて、フーコーはディスクール分析で有名。
といってもフーコーの論理は小難しく、僕自身、山本哲士の入門書を読み出したばかりでフーコーを主軸にすることはまだ難しいため、僕がつくった動態構造論として、新しいディスクール分析を解説したい。
動態構造論は現象学や存在論、構造主義のエッセンスが入っていてベーシックな仕上がりになっている。ベースはラカンの主体水準と象徴界分析で、そこに複数の要素を入れ込んだ。
ディスクールが分かると、政治系インフルエンサーがカンパ詐欺や訴訟ビジネスを乱発する理由から、学問における自然科学万能論(自然主義)の蔓延、様々な社会思想・学問の潮流(学問教義・エピステーメ)、ポストモダンなど、あらゆる人類のディスクール(語らい)の統一的メカニズムを洞察可能。
というわけで、この記事では人類の多様な言説がどのような構造を持つかを解き明かし、人が語らうことの本質的な効果や意味を分析し無意識の謎とその実在性に迫る。
この記事はディスクール(語られてあること)の動態構造をトポロジー風に分析することで、まったく新しい地平を開くのだ。
※注意点:フーコーのディスクール分析とこの記事のディスクール分析はかなり異なる。フーコーはヘーゲルの歴史哲学と現象学を否定して歴史の必然性と偶然性、主体規範との一致とズレといった結合と分離の関係を分断して偶然性やズレを絶対化する誤認をもつと思うが、この記事のそれは結合と分離の弁証法を前提とする。人文学のテキストはその同一性を探すように読むこともできれば、その同一性から弾かれた言説にフォーカスして可能性を開くこともできる。さらにフーコーと違ってこの記事のディスクール分析はラカンの構造論に多くを依拠する
ディスクール分析とは
今回紹介するのは語り手の人柄(主体)と語られたことを照応するという一般的な話の聞き方とは根本的に異なる。
そうではなく語り手の語らいから語り手という主語(語る主体)を消去して初めて見えてくるディスクールの編成と自律性を分析し、そこから主体水準(ディスクールの構造)のレベルを判定するというもの。
いわば語りの主語をいったん消去し、語ることでなく語られてあることが語る主語を規定し言及してゆく次元を洞察するもの。
語る主語・主体を優位におく見方をプラクティスの社会科学というが、この記事が示すのは、語られてあることが語る主語や社会を規定してゆく次元となる。このようなディスクール分析の次元をプラチックの社会科学と呼ぶ。
※プラクティスとは実践のこと、目的的なこと。プラチックとは実際行為・日常の行為のこと、主語でなく語るという述語のこと
この洞察はラカンの疎外やフーコーのディスクール分析の基礎的な捉え方となる。とりわけこの記事では、人間主体が日常で何かを言語的に表明したり思考したりする、そのたびに自己主体を語られてあるところの言説構造の内へと疎外(投入)している事実をベースとした分析をしてゆく。
ともあれ、重要なのは普段、僕たちは語り手が主語として、自らの道具として言葉を弄して意を伝達していると考えるが、
しかしこれが深層心理学的にも現象学的にも間違っていること。
そうではなく、自身の語る言葉の論理構造のうちに自己主体がそのつど疎外(投入)されているのだ。
その論理のうちに主体の意は言説へと疎外され、言説の論理構造に従って語り手の欲望(意)の産出が統制されることとなる。
ようするに人は自らの意志や欲望を言語化するように強迫されているわけで、それゆえ人間の欲望や意志の動きは言語体系からの規定も受ける。
たとえば人は主義主張をするとき、誰しもが自分なりの普遍的ルールをもつ。
誰もがプライベートな道徳の法をもっていて、そのルールを自分と他人に普く適応する。つまりその瞬間瞬間に生じる動物的欲求をむき出しにする人などいない。そうした欲求(エス・S)であり主体(Subject)は言説の論理構造であり倫理構造(ルール・法体系・言語体系)に疎外されて社会的欲望を形成することで、言語構造的に秩序づけられることとなる。
このルールはその個人にとって普遍的で、自他ともに同一のルールの適応がなされることがほとんどだ。たとえば、合理主義者であれば、欲求はつねに合理性という規則(理)に去勢されることで言語的欲望に加工され、合理性をもつ限りにおいては、相手の気に入らない意見であっても受け入れたり、あるいは合理的であるということで相手のその意見を気に入るようになったりする。
日常の素朴な人々の主張や態度の実際行為を確認してみれば、言説構造の側がつどの主体を方向付け規定するところの構造をなす次元が見えてくる。
また構造に規定され、構造に内在する意は、あらたな主体の行為や主張を方向付け、言説の構造へと回帰してゆくこととなる。したがって、ここに示す構造は、構造主義にありがちな静的・客体的・線形的・脱主体的構造ではない。
そうではなく動態構造、意を内在する構造が洞察される。言説の動態構造とはその構造がそれ自体として意=価値付け・他者の欲望をもっているのだ。
したがって、この記事では、そのディスクールの来るべき終局形を示すことにもなろう。
※主体と環境を分けたり主体と構造を分けて線形の因果関係を措定するプラクティスのモデルではなく、構造と主体の相互循環を捉える
また言説の論理構造が分かれば、その話者には自覚されていないその話者が未来に向かう先や、話者が語る動機のうち本人には自覚されていない無意識(言説構造・他者)の欲望をとりだすことも容易となる。
事実、僕はYouTuberの話を聞くとき、具体的に何を言うかにはほとんど関心が無い。僕は構造を中心に判断している。言説の社会科学的・心理学的な評価という点では何を言うかは関係なく動態構造が重要なのだ。
※こうした視点があると、プラチックの社会理論をプラクティスなディスクール編制で騙る三流の学者を秒で見抜くこともできる
たとえば政治言説なら、天皇は女系容認か男系容認かで意見がわかれ多くの人は男系か女系かという具体的内容だけを重視する。
しかし、僕は、具体的内容は考慮しない。男系でも女系でも関係が無い。そもそもどちらの制度(あるいは伝統形式)がいいかは一義的に確定できず、どのようなプロセスであり意(制象)において決定されるかが肝要だからだ。いうまでもないが、一義的に正しいことを決定可能なら最初から意見の対立は存在しない。
社会という意味と価値の審級においては絶対的な客観的な正しさは存在しない。特殊な普遍的な正しさがあるだけで、それは議論によってつど構成されるものに過ぎない。それゆえ現象学では社会の領域を本質領域と呼ぶ。本質とは意(現象学的志向性)によってしかいかなる対象も認識し得ないゆえ、意味と価値の領域こそが本質だということ。
このような一義的答え(スタティックな真理)のない領域では、ディスクールの動態構造を洞察することは欠かせない。なぜなら語り論ずることの効果が問題となるからだ。独断論的な語りが生産されれば社会が全体主義化しレイシズムやナチス化が起きるのは言うまでもない。だから具体的内容よりも、語られてあることの質が問題となる。
トポロジーとディスクール
今回はトポロジー風の動態構造分析をしたい。なのでトポロジーについて簡単に紹介する。
トポロジーとは幾何学の一種で、穴の数など、変形しても変らない性質によってあらゆる立体図形を分類するというもの。つまりもっとも本質的な構造特性によって、無限に存在する立体の形を分類、同定してゆくのがトポロジーだ。
たとえば、ドーナツと取っ手のついたマグカップは、通常はまったく異なる立体図形。
ところがトポロジーにおいては、どっちもトーラス(ドーナツ型)という同じ形に同定される。また正六面体も三角錐も円柱もトポロジーでは同じ穴のない球体にカテゴリーされる。ようするに薄いゴムの膜で図形ができていると考えるのに近い。
ゴムの膜は変形は自在だが膜を切ったり、膜と膜を融合させることはできない。するとドーナツもマグカップも同じトーラスのゴム膜からつくれる形だから同じ図形と考えるということ。
あくまでも比喩なのだが、この記事で僕が紹介する動態構造論も人々の主張をゴム膜に変換して、分類するのに近い。
たとえば、Aさんが男系天皇主義を主張し、Bさんが女系天皇容認を主張、両者が論争をしていたとしよう。
この場合、一般の物差しでは、両者は水と油で真逆の主張をしていると考えるだろう。
しかし、この記事のトポロジー風分析においては、両者の意見の図形構造は同じと見なしうる場合が多々あるというわけだ。
さらに、このトポロジー風分析では、言説をその具体的内容を中心に捉えるのか動態構造レベルで捉えるのかということ、
つまり話をどのような水準で聴くのかも語りの構造に依存すると捉え、言説を理解する仕方(話の聞き方)の構造と一体でディスクール(語られてあること)の動態構造が洞察される。
ここでは、語らうことが聴くこととセットでディスクールとして措定され、このようなディスクール分析の視点そのものもまた、一つのディスクールの動態構造を持つことを示す。
だからディスクール分析とは自己回帰的なモデルであり、その本質は自己内省として他者を洞察することにある。結論を先んじて言えばこの記事は、現代人の無意識に人間の自由を可能とする空隙・欠如を創り出すような動態構造を持つ。
補足
本題に入る前にどうでもいい補足
さて構造分析だディスクール分析だディスクール的プラチックだと言っていると、ディスクールの外部はどうなる?フーコーの考古学的手法には限界があるように、系譜学的な身体論が必要だ!という意見があるかも知れない。
この記事で身体論までいくかはいま書いてる途中だから分からない。
それはさておき、僕の総論ではディスクールの編制と身体環境との関わりは既に時間論・身体所有論において接続してある。もちろん、いまも研究中で完成しているわけではないが最低限の理論化は既にしてある。
フーコーやラカンは西洋人であるため、象徴界から現実界へと向かったのだろうが、僕は東洋人なので、その逆に身体論から言語論へという研究の進み方をしている。
また動態構造論は構造の外部を否定しない。むしろ構造の外部を回帰させることが重視されている。
倒錯の動態構造
発達障害や非定型発達など最先端の臨床カテゴリーについて触れる手もあるのだが、このあたりに触れると面倒そうなので割愛し、倒錯の構造としてまとめて論じる。
※倒錯と発達障害では構造が明確に異なるがここでは、分かりやすさを優先してあまり区別しない
倒錯(否認)の動態構造は内省構造を消失させる構造のこと、これの分かりやすい説明は以下の記事を参照、以下の記事は現代の消費社会、YouTube社会を倒錯のディスクールと見なして、一般人向けに記事にしたもの。以下の記事では内省の消失が消費社会の構造だと書いたが、この内省のなさを欠如の埋め立てとして再規定したのが倒錯の動態構造。内省=欠如。
ここでは、上にリンクした分かりやすい記事と異なる観点で解説してゆく。といってもこれまでの複数の記事で解説してきたことの幾つかを適当にまとめて記述しただけだが。
なので小難しい話はいらん、という人は、無意識の正体の項目までは、斜め読みくらいでいいかも。
この記事の要点は無意識の正体の項目にあったりする。
さらに動態構造論の動態の意味については以下の二つの記事が参考になる。
倒錯とはラカン派の三大カテゴリーの一つで性倒錯を意味する。フェティシズム、窃視症、露出症、同性愛、サディズム、マゾヒズムなどの性的な個性を示す用語だ。
なぜ倒錯者のディスクール構造から示すかというと、それが現代人の標準的な言説構造だからだ。
この記事では倒錯の動態構造の作動が、現代社会におけるあらゆる問題に密接に関連していることを示そう。
資本主義と倒錯のディスクール
すでに何度か記事にしているが、資本主義でありSNSは、待ち時間を消去して今その瞬間の満足をもたらすようにできている。
言語は社会的なもので、第三者に意を伝達可能であり社会の審級、経済の審級にあり、経済の価値規範では価格であり数字だけが価値の全てを構成する。
社会的承認を求めて言語空間・動態構造に自己主体を投げ入れることを疎外(S1→S2)と呼ぶが、この疎外によって人間の欲望は経済的な自己承認へと向かう。こうやって承認をえるインフルエンサーが鏡像(理想自我)でありパストラール(羊飼い・大他者)となってゆく。
※言語によって自己について言及し言葉でもって私は会社員だ!と自己を意味づけることが自己を言語構造に疎外することに対応する
さて、経済の価値規範には欠如がある。その一つは国家審級における税・関税だ。この経済的満足の欠如が経済活動にあって社会人が自ら価値・道徳を創造できるだけの主体の居場所(空隙)をつくりだす。個人が呼吸していきるための隙間であり、それは経済価値に一つの欠如が見出されることといってよい。
欠如一つの経済活動への禁止ともいえるし、経済言語空間における主体性の承認ともいえる。
関税の他に、自己の思い出や感動は金銭化や数値化を寄せ付けない質を持ち、これらも経済の価値規範にたいする欠如を構成しうる。
すでにいくつかの記事で指摘したが、現代では国家審級が経済審級に呑み込まれ、このことが近代民主の基礎単位であり社会契約の単位となる個人主体を解体するのだった。
たとえばディシプリン(規律訓練)の場である学校教育は今日、実学優先、経済合理性最優先の狂気的状態にあって、壮絶な白痴教育の徹底をなす。
およそ社会科学も人間心理も理解しない狂気の猿議員・官僚・資本家・国民が国壊しに熱狂し、人間破壊に没頭しているのが現状だろう。
またコスパやタイパといった流行概念もその淵源は経済合理性にある。
そんな経済審級を構成する社会空間では金で金を増やすことが強要・欲望される。
金とは欲しい物に対して行使・備給して、欲しい対象を手にするため、心的エネルギー(欲望・欲動)を表象したような概念だが、この貨幣が集まる先には大衆の欲望の対象がある。
だから人気アイドルやイーロンマスクには金が貯まり人々は彼らに熱狂し、少しでも接近するために欲望(貨幣)を向ける。
さて、資本主義の最大の欲望は金で金を増やすことだ。じじつ、ブログで一番金になるコンテンツは金の儲け方というカテゴリー記事になる。つまり最大の欲望の対象は欲望それ自身である貨幣・金自体。
この欲望の自己備給がもたらす終わりなきハムスターホイールの回転が現代人の自己を語る欲望、自己を言語の主体として言語化する欲望、疎外される先での主体の方向付けをなす。ようするに現代社会の言語構造・社会構造は人間を自己愛化させる。主体が他者であり他的対象を経由せずに直接自己を欲望するシステムが経済システムの本質。そのため性的禁止は解除される定めにあり、近親相姦の禁止をベースとする男女のキリスト教的な性規範も解体してゆく定めにある。
性倒錯(LGBT)を肉欲の罪として個人主体化し、性の抑圧と解放を語ることが近代の特徴だったとすれば、現代はその罪・自己欠如の消失を特徴とする。
※LGBTが悪いということではないが、LGBT概念そのものは不毛で危険とはいえる
※ラカンはこのような自己備給的な資本主義の欲望の構成を資本主義のディスクールという式で表現している、資本主義のディスクールは欠如・分裂する主体に商品がもたらす享楽aが供給され続け、主体の欠如が埋め立てられる循環構造を示す
またこれは貨幣が流動性にあって対象ではなく対象化する現象学的志向性のメタファーであるのに対し、それを貨幣として対象化し、その存在論的差異を消去する構造にも通じるかもしれない。
すくなくとも僕には、主体・心を数値化できるという現代人の虚妄は、貨幣という定量化において欲望の全てが表象されることに対応しているように思えてならない。
また商品における機能であり意味は、物理的な形状に付随し、意味の本体論が優勢を占めるようになる。こうして現代の言語学を占める学問教義(ディシプリン)は、意味の形式論理主義を展開し、プラクシスな社会科学という低知能な社会理論の温床と化す。
もちろん言語学における意味の本体論信仰は主流派経済学や行動主義の蔓延に完全に連動する。
※言語の意味とはコンテキストベースの関係の次元にあり、コンテキストなしでそれ自体で客体的にあるものではない。そもそも物ではなくて在らしめることが意味の属性となる。言葉というコンテキスト依存の道具存在は、一般意味・客体の記号であり、そのためにコンテキストレベルと一般レベル(客体)の差異が混同するようになっている。この混同が言語の意味の存在論的差異における誤認の問題を形成する。詳しくは竹田青嗣の『言語的思考へ』を参照
さらにこの言語の意味の誤認が商品における機能の形状化=分離技術を生じる。詳しくは山本哲士『哲学する日本』を参照
※社会空間・ニュートン空間の構成と時間、意味との関連は既に他記事で書いているので割愛
以上が資本主義における言語の語る欲望の基本構成となる。
この社会にあって、自己を言語的に確立しようとすると、かならずこの不毛で自己愛的な消費の欲望構造に巻き込まれることとなる。結果、後述するフーコーでいうディスクールの現実性の排除の問題なども起こる。
つまり資本主義のディスクールの作用が隠蔽され、こうした構造の影響や効果が認識不能となる。
この記事の語らいからして、自身の内省を排除する資本主義のディスクールが定める真理の領域から排除されてしまうということ。
さらに簡単に現代社会におけるディスクールの特徴を確認しよう。
国史のディスクールと訴訟と司法
まず、社会空間では主語主体が絶対化する定めにある。これは全ての人間が自己プロデュースをなす自己の経営者となることを意味する。
このことは現代の資本主義空間が近代からの延長としてあることを考えるとよく分かる。
主体の欠如なき世界、自己の根源的意味の欠如なき世界は近代以前の世界の特徴であるが、近代以前には個人主体という概念そのものが希薄、それにたいして同じく欠如が埋め立てられる現代人は、その逆に個人主体の絶対化がベースとなる。
たとえば経済審級に呑み込まれた日本の学校では国語をチョムスキー文法(主語がまずあって主語を中心に文法規則を考える文法理論)で教えている。
しかし、いうまでもなく、どう考えても日本語に主語はない。コプラ(be動詞)もない。日本語は述語(行為)がまず先にあって、状況におうじて述語が中動態的に行為主体を構成したりしなかったりするから、主語っぽいものも厳密には述語の補語に過ぎない。
※主語言語の現代英語ですら、文型を支配するのは動詞であり、主語制を支えているのも実は絶対的に述語
つまり学校は完全に間違った意味不明な嘘文法を教えている。なぜこんなことになるかといえば、学校が主語主体を立ち上げ、それを優位化する国家審級の機関にあって、それゆえに現代では経済合理性に呑み込まれているからだ。
また資本主義のディスクールにおける欲望システムは行為・述語に絶対的に先行する主語を幻想・誤認させるシステムになっている。この欲望構造の内にあっては必ず主体は主語の絶対性を妄想する。
※主語化について詳しくは当ブログ記事の未来予測記事やメタ論理学論考の記事を読むとその理屈が全部分かるはず、またブルーロックの記事も参考になる
さて、この問題は教育の歴史問題にも直結するので、それをベースに確認しよう。
現代、某ビジネス保守芸人の国史教科書が教科書認定に合格し、一部の中学で採用されつつある。
このナショナルヒストリーは、天皇の血統を軸に日本の歴史を国史としてまとめたもの。知的に鋭敏な読者であれば、これもまた、チョムスキー文法と同じディスクール構造(学問教義)にあるのが分かるだろう。
天皇中心の国史観は明治維新後から観られた歴史であり、近現代国家審級にある。そのためここでの国史は、特称の国家が前提されている。つまり学校文法的な歴史観ということ。近代国家において社会空間が本格化し学校によって国家化がなされる。
特称とは存在の有無が問われるもので実体概念。つまり国史とは国家を実体的に措定してしまう。
国史の問題は、本来国とは多様な場所の総体であり集合であって、存在の有無を問われない全称(幻想)に属するが、存在命題(特称)と全称との審級が混同され、国家が場所に先行するプラクシスな主語(特称)として実体化してしまうこと。
※道路や高速鉄道の普及を否定しているのでなく、それによって場所・述語制の水準が完全消去されることが問題であり場所から観たクニブリ水準の日本と天皇国史との二重性を担保せねばならないということ
場所の述語面の発露がまずあって、その終局に想定されるのが全称の国家。つまり国家という行為主体(特称国家)がまずあって、国家の統制のもとに場所がローカルとして述語行為・作動しているのではない、それは間違いということ。
※場所が地域として無数にあり、移動主体がさまざまな地域に移動するのではない、場所とは場所自身がその移動者に他ならない『トンネルを抜けるとそこは雪国だった』この一文でよく分かるだろう。繋がりつつ分節されたもの、それらに包摂されつつ包摂する全称が日本語(場所言語)から観た日本国ということになる
天皇国史による日本国の特称化、これが前述した存在論的差異の誤認の悪い効果の一つである。また民族学的に観ても、クニブリなき天つ神一辺倒の天皇国史は資本主義のディスクールの産物そのものというより他ない。
水田稲作であり土地(身体)の一方的領有からなる律令制的な天皇国家観はそれと対立するスサノオ系、国つ神の場所論と併存させねばならない。
※オオミタカラの天皇系とクニブリのスサノヲ系と日本語との関連は山本哲士の本に詳しく書いてある
マニアックになったのでなんとか分かりやすくまとめたい。
つまり、近現代国家は水田稲作の定住に起源をもち、天皇を司る水田稲作とは、狩猟と異なり人間が自然の大地を領有して、大地をテクノロジーによって開拓、コントロールすることを示す。これにより時間概念もまた人間主体が計画し未来を予定通りに到来させる連続的で因果的一貫性のあるものに再秩序化される。
この過去から未来への一方通行の時間の秩序化(線形因果律)は、したがって土地=身体を水田技術において所有・支配することに対応する。
またこれにより土地は人間主体により開拓・計画されるものとなり、高速鉄道などが整備されると、その場所に固有の述語面が消去されてゆくことになる。
つまり移動手段の発展や高速道路交通網の整備は場所の幾何学的空間化をなし、空間化=社会化によって場所は一様化される。
これによって場所の側から述語性が消され客体空間化をなすとともに、行為性・述語性は人間主体である主語(内面)に所有されることとなる。
※保守派はハイデガーを保守の哲学としがちだが、ハイデガーでは日本語の述語制である場所言語のシステムがスッポリと抜け落ち、世界内存在が社会内存在に直結してしまう問題がある。場所を洞察する西田とハイデガーの違いはこの点に集約される
※主流の保守言論人・大学人は象徴界分析の尺度をもっていないためこの点を見逃す、その結果、グローバリズム(英語化)に対してナショナリズム(母語=国語)で抵抗する袋小路に陥りやすい
※近代国家の措定する個人主体が主語幻想の誤認にあって、誤認の効果として経済審級に呑み込まれたり、妄想性隠喩を構成してナチス化したりする、これが近代国家のエラーコードの正体
つまり言語的な時間と空間の変遷と連動して国家幻想が誕生する。近代国家は中央が一律に全国を統治・領有するシステムなわけだから、高速鉄道網などで空間化されないと国家になってゆかないということでもある。
したがって国家幻想の誕生、とりわけ明治以後の近代国家は、水田稲作による土地の社会空間化と時間の客体化・均質定量化をベースとなす律令性を核とする天皇を中心化する。こうした国家幻想の析出は、もちろん諸個人の近代自己関係=私が私について考えるを構成する個人幻想の成立と連動している。
この主語制の動態構造をもつ近代国家の欠如=罪が国家の誤認構造と資本主義によって埋め立てられ、否認されると、現代のディスクール、倒錯の動態構造に至るというわけだ。
主語制国家幻想=近代主体が、主体の絶対的先行性を幻想・誤認することで欠如の否認が作動し倒錯化する。この近代神経症→倒錯という構造の内在的変動をして動態構造と呼ぶ。
さて、日本の伝統精神である日本語は明確に場所制にある。そのため保守がグローバリゼーションの暴走に抵抗して特称の国史を提出するのは滑稽千万というより他ない。
※特称と全称についてはパースの四分円が分かりやすい
国史教科書のディスクールの本質は資本主義のディスクールと変らない。それは倒錯者のせっかちなお喋りに過ぎない。
事実、国史教科書の音頭をとる保守芸人はいまも韓国ヘイト動画を垂れ流し、遺伝子研究を引用して、日本民族の優等性をエセ科学によって主張し続けている。彼の動画のコメント欄を観るとそのおぞましさがよく分かる。さらに彼のネームバリューに寄生する銭稼ぎ末端YouTuberは彼を知の神だという感じに連呼して再生数を稼ぎ金を儲けている。
※YouTubeがヘイトに金を出す犯罪企業だとよく分かる
国史がいかに罪をかき消す倒錯のディスクールにあるかよく分かるだろう。
国史それ自体は近代主体化に起源をもつのではあるが、それが支配化して誤認が作動するとポストモダンVS独断論民族古典主義となる。中動態国史としての場所日本史教科書をつくり抵抗せねばなるまい。天皇を語るなら国つ神から見えてくる日本史の位相を並記する必要がある。
言語の次元で言えば、国家(主語制)と場所(述語制)は二重性によって両立する。
この言語構成の二重性・根源的差異を見逃しているからメチャクチャなことになる。たとえば後期デリダであれば、否定神学構造を排除して場所レベル(アニミズムレベル)を絶対化しようとしていたり。
国家審級と経済審級のややこしい関係について補足すると、国家幻想は天つ罪であり刑罰の誕生に対応する、これは行為に責任をもつ行為主体としての主語主体の誕生に相当するわけだが、それゆえ刑罰は国家の司法幻想であり、主体の主語的同一性を構成して契約行為や一貫性を実現し、理性と非理性、主観と客観との分離を構成してゆく。
ここから自己の罪・欠如が消去されることで、なんらかの欠如・損失の原因を他者主体に転嫁して個人を裁くようになる。これは訴訟ビジネス化した日本社会のあり方が、資本主義的な欠如の否認に対応していることを考えると非常に納得しやすいだろう。
全てはロジカルに連動している。
最後に身体と建築空間について補足しよう。
近現代建築は、人間の身体の予定外の反応を全て排除することで成り立つ。たとえば舗装された道路では躓くことがない。自然の大地で人が躓くとき、そこには必ず身体からのコヘレンツがある。
身体が条件反射によってとっさに予期せぬ行為をなす。ここに身体を持ち支配することが、身体からの行為を引き受けることによって叶う中動態的主体性の地平があるわけだ。
したがって現代の社会空間、ネット空間はこの予期せぬ身体の闖入を排除することを目指す。人間工学的建築の問題もここに集約される。
かくしてディスクールの構造は建築空間や身体をも規定する。あるいは建築空間や身体環境がディスクールの構造を規定する作用がある。どういう建築と安全をめざすべきかはこの水準から考えてゆかねばならない。
おまけ:国史論補説
おまけ項目なので、細かな理論に興味ない人はこの項目は飛ばして欲しい。
※この項目、かなり分かりにくくなってしまいました
特称国史としての特称日本と場所制の全称日本のロジックについて簡単に補説する。
特称(存在命題)と全称(普遍命題)における問題は当ブログ記事の左翼と右翼の議論の齟齬を指摘した記事で理想の全称、実在・現実の特称という軸で理論生産したが、じつはその記事を書いているときから、この部分のロジックの甘さに思うところがあって、ずっと心のしこりになっていたので、ここで解消したい。
この議論の混乱しやすいのは、現実にあるものはコンテキストを持つが、しかし客体とはコンテキストなしに物自体として独在していると誤認されることにある。いわば現実コンテキストの客体化(時計によって定量化される時間、流れる時間の客体化・線形因果律の支配化に相当)が起こる。
客観的事物とは内在(自己の主観)において、対象が自己コンテキスト・自己主観を超越して客観的に独在するだろうという信憑から形成される。それゆえ可疑性をもつ。この可疑性が主客や自他の分離に相当する。可疑性は動態構造における内省・欠如の効果であった。なお、これは公私関係の分離にも関わるので、権力関係の作動形式にも通底する。
さて、我々は現実にそれが実在するか夢かを考えるさい、必ず現実コンテキストを参照する。
たとえば、友人が空に浮かんでいたら、それを実在する友人と考えるだろうか。
普通は、夢と判断するだろう。
したがって、現実における存在の有無の判断を基礎とする特称命題水準ではコンテキストがベースとなる。客体の有無の判断はコンテキストに依存する。
問題はこのとき現実コンテキストから可疑性という欠如を埋め立てる倒錯的ディスクールが暴力的に作動すること。そのために存在論的差異の誤認と混同が生じ全体主義化する。これは存在者一般の意味が経済価値においてリテラル化するのに対応。
次に、全称を考える。
全称肯定命題を否定する場合、論理学では特称否定命題が立てられる。
たとえば、全ての人は不死身だ!という全称命題では、少なくとも一人のとある人物は死ぬ(特称命題)を示せばよい。
そのため、実在しない存在について、たとえば、全ての火星人は茶髪だ!という全称命題を主張した場合、これを否定することができなくなる。全称命題にはかならず空の領域が入り込むのでこのような詭弁がなりたつ。
空・不在の領域が入り込むとは、たとえば文章を読解するとき、あらゆるテキストが同じ一つのコンテキストしか持たないとしたら、一義的な解釈だけしかなく文章読解はすべてリテラルな読解になり、コンテキストなる概念構成が成り立たなくなるのを考えると分かりやすい。
したがって全ての、という場合、それを全てとして対象化するために、外部の空が要請される。
だから全称は存在の有無が問われない。
存在判断の不在はコンテキストの不在を意味する。
するとここでの全称がイメージに相当すると分かる。
イメージとは存在と存在者とのウロボリックな関係を示す。
このことは存在者ではなく存在者の存在の同一性によって生じる隠喩を考えると即座に理解できる。
たとえば足の速い人が平原を走る姿に、ある人が「彼は鹿だ!」と隠喩表現したとする。
このとき鹿というイメージは、彼とある人との関係性において生じた存在・在ることが鹿とある人との関係において生じる存在・在ることと同一であるのを示す。だからこれを述語的同一性と呼ぶ。述語的とは存在の同一性のこと、主語的同一性とは存在者の同一性のこと。
※欠如論に傾倒するラカン派が隠喩において見逃すのは疎外における存在の同一性の地平
さて、存在は対象ではないだが、対象ならざる存在がこの隠喩表現では鹿に表象されているのが分かる。
したがってこの鹿イメージはコンテキスト(関係性)それ自体の表象化・具象化・空間化であるゆえ、そのコンテキスト性が忘却される。
※イメージとはもとより客体と主体のウロボロス構造にある
全称・理想・イメージがコンテキストを持たないとはそれがイメージの水準にあることを示す。
さてイメージの立場は近代以降とそれ以前では異なる。近代以降のイメージとは客観現実から排除されたイメージをいう。それは不在においてあるものかもしれない。
※それでいてイメージが第一の現実にある、イメージ(存在・意味)なき現実はない
つまりユング派でいう心理学的差異がここで問題となる。
心理学的差異とは存在論的差異の概念をイメージの水準にデプラスマンした概念で、イメージにおける具象性と関係(コンテキスト)との差異を現わすもので、関係のイメージ化による実体化・客体化の問題を含意している。
この心理学的差異がユング派のいう魂ということになろう。アニマとアニムスの戯れを開く根源的差異といってよい。魂とは一つには、イメージの弁証法的な運動であるところのイメージだということ。
※心理学的差異の話をした理由の一つは、全称と理想との関連を考えるときに存在論的差異ではなく心理学的差異という概念規定が生きてくるため
ともあれ、全称日本史の考えは、場所でありその術語面を主語的に所有し場所身体を空間化支配する国家主語を想定するプラクシスの誤認を解除することにある。だから一つにはそれはマルクス主義に代表されるプラクティスな社会科学論(意味の形式論理主義言語学・行動主義心理学・主流派経済学など)およびポストマルクスとしてのサルトル実存主義と客体構造主義の隘路を突破することにある。
そして一番肝心なのが、特称(客体)と全称(イメージ)の差異の混同。この差異を心理学的差異と呼ぶのだったが、特称国史・特称日本の問題は、全称(場所術語性の集合イメージ)が特称化(主語化、実体化)し差異がごっちゃになることで問題が起きること。
繰り返すが、この差異を消去してしまうのが倒錯の動態構造。差異が同一されているというのがポイントで、ただズレているだけではなく元は一つ。
※以前記事にした理想と現実の関係についていえば、たとえば左翼のいう戦争の例外なき完全不要判断は、戦争なき理想の審級と現実の実現可能性の審級とがごっちゃになることで、現実コンテキストに基づく判断が消え去ってしまうし、右翼の戦争必要論の一般化は特称判断がもつ現実コンテキストの客体化を生じ、存在論的差異が抹消されることでおきる、どちらもまったく同じ心理学的差異の誤認と混淆にある
このとき全称命題による帰納なき演繹判断がもつ判断ベクトル(全称命題による判断規則⇒個別の現実状況判断)は受動態ー能動態軸による主語制言語的な主語の先行性の誤認に対応する。
現象学的理解に立てば、経験科学・人文領域において機能と演繹とが弁証法的運動関係にあるのは言うまでもない。
つまり帰納と演繹とが独在されてしまうところに主語制言語の誤認がある。
現代における乖離と波紋型
主語の絶対化が近現代だといったが、それゆえに逆接的に主体性が解体する問題がある。
私が絶対化しその先行性が妄想されると、私という行為主体への他者の闖入が排除されることは既に示した。
しかし、こうなると自己主体は逆接的解体を余儀なくされる。主体性の逆生産がおきるといってよい。
事実、現代人は主体性が解体してきてることが疫学的に実証されている。
この理屈は簡単で、たとえば自由恋愛を考えよう。自由恋愛とは人間の営みのうちでも、自己の主体性の最大の発露と感じられる。それゆえ自由恋愛と言われるのだろう。
しかし、恋愛という主体性の発露は、まったき他者の闖入といわねばならない。恋に落ちるのであって登るのではないといえば分かるだろう。
自らの予定や予期を裏切って、自己の意に反して、恋に落ちるとき、つまり身体が思わぬ反射・反応をなすとき、予期せぬ他者の主体性が激しく侵襲するとき、その他者の主体性を引き受けることで強固な自己の主体性が生じる。このことは現象学的に否定しえない。
したがって他者性を排除し精神自己の身体に対する絶対的な先行性のもとに自己主体の優位性を盲信し、そのような発想から時空間の秩序を編成する現代社会空間においては主体は自らの主体性を立ち上げることさえできなくなる。
これによって、近代を代表する神経症は自己変異を繰り返し、対人恐怖症⇒境界例⇒解離性障害・非定型発達へと主体の解体レベルを強めてきたといえる。
神経症や統合失調症をユング派は渦巻き型と呼び、渦巻きとは中心=主体がある状態を示す。
対する波紋型とは乖離や非定型発達を示し、中心となる主体の消失を示す。時代は渦巻きから波紋へと向かっている。
いずれにせよ、マネーマシンと化して、資本主義に過剰に適応する人々には本質的な意味での主体性がない。ただ想像的なマウント欲望があるだけ。
たとえばビッグYouTuberは何者でもない。彼らはやりたいことをやってなどいない。そのつど、数字が取れることをしているだけでまるで主体性がない。ともかく承認が得たいだけでやりたいことがない人ほどビッグYouTuberに向いている。
ブログも同じで、マネタイズしようとしたらこのブログ記事のような内容はできない。ひたすら、大衆向けの頭の弱い文章をひり出すより他ない。頭を空っぽにしてくだらない商材を売りつけないと絶対に儲からないようになってる。
学問的に深めると必ず既存のディスクールの枠組みから逸脱し、それにより排除される。近年は大学も金儲けが大事らしく学問の評価基準に経済合理性が浸食しつつある。
このままいくと人文学は完全に壊れて危ないヘイト妄想を垂れ流しながら消滅するだろう。金になる学説なら絶対に優生学と民族ヘイトをやったほうがいいからだ。最近は一部の遺伝子研究系のアホ学者が露骨にそれをやって儲けているし、東大の生物学系の学者にも、とんでもないナチス的な社会理論の生産を企むアホがいる。
マーケティングを取り入れた論文なら、いかに過激にレイシズムを扇情できるかが鍵となる。
倒錯のディスクールの特徴
倒錯のディスクールがもたらす現代社会の特徴を簡単にまとめておこう。
倒錯のディスクールでは、資本主義の自己回帰的欲望構成と社会空間化において主体の欠如・罪が埋め立てられ、罪=責任が消失して他罰的となる。
主語幻想が強力で行為の主体が個人に実体化され関係のレベルが排除される、これにより性格や人柄が物質化(客体化)させられ、性格や心に本体が措定されたり客観記述可能な行動に同定されたりする。
すると、実際には嫌な人に対する嫌な奴という感覚は個人の主観であり、その嫌な奴と自己との関係性を抜きとって嫌を客体化することができないことが忘却される。
そういうわけで一度悪人と定義されると悪として永遠に固定・実体化されつづけネットリンチが起きる。
全てを他人に転嫁して、モンスターペアレントとかクレーマーと叫び、間柄を相手に責任転嫁し自己の欠陥を埋め立て、責任転嫁の訴訟社会を加速する。
客観的にどちらに非があるかとか、そういう水準だけでしか物が見えなくなる。昨今のインフルエンサーによる訴訟のショービジネス化もこれによる。
他にも政党に対する犬笛との政治的批評について法的に責任を問うのが困難だから、批評として無効という言説が生産されたりする。
言うまでもないが政治の機能の一つは立法、法改正にあり、政治的批評は法の妥当性を批評する役目を担うが、昨今の司法幻想の暴力的作動は欠如なき法言語を妄想させるというわけだ。
これが倒錯のディスクール構造の威力である。
また自分の道徳ルール、とりわけ合理主義規範を絶対と思い込む。さらに夢と現実の区別が溶けて客観現実がなくなる。客観主義の名の下で客観がその成立条件を解体し、壊れてしまった。
この他にも、自己肯定感を拗らせたり、主語主体の絶対化教育によって逆接的・逆生産的に主体性が消去される。
経済的価値以外の価値が消滅して暴力的な反暴力の監視社会に向かう。
単一の経済価値規範の支配化により、嫉妬競合関係が過剰になり、それによって動態構造が嫉妬関係にある人ほど、なんでも気に入らないことは嫉妬してる!で片付け出す。
といったことも起きている。
無意識の正体:自由意志論争のディスクール
自由意志の今日的議論のほとんどは、消費社会のディスクール・倒錯のディスクールにある。このことを前提に、いまいちど自由意志と言説の動態構造との関わりを確認し、ディスクールの動態構造がいかに強力かを示す。
これにより言語のように構造化された無意識が何なのかもよく分かるだろう。
最近、YouTubeでマルクスガブリエル好きの20代の人の動画などを観ていて自由意志に関する現代社会のディスクールの構造がつかめたので紹介する。
実は自由意志をどう捉えるかによって、主流派経済学のあり方から言語学、社会科学にいたるまでの人文学問のあり方が見えてくる。
まず現代人は英語における主語のような行為の絶対的原因として個人主体を措定する。この個人の自由意志を絶対化、誤認するところに近代の理性中心・人間主義が生じる。
他方、自由意志はない、という主張が自然科学をはじめ相対主義者を中心に主張されている。
つまり主体を絶対的原因に措定しても、主体に先立つ環境や生い立ちをさらなる原因として遡れるというわけだ。
すると主体の自由意志は消滅し、原因は無限に遡行できて確定しなくなる。
もちろんこれはカントのアンチノミーの議論と同型にある。
この自由意志に関する対立は、そのまま真理主義VS相対主義に対応し、これはサルトル的な無意識の主体を考えない主語主体優位の実存主義VS主体を排除した客体構造を絶対化する構造主義の対立にも通じる。
つまり構造主義において、その構造の一義的決定不可能性を帰謬論をつかって論証すればポストモダン的な相対主義がでっちあがるというわけだ。サルトル的実存主義VS構造主義は、この文脈において主体中心主義自由意志VS環境原因主義と大差が無い。
※主体への原因還元や主体に対する原因として客体環境を措定することを一概に否定しているのではなく、そのような線形の因果律だけを絶対化する視点によってディスクール的プラチックの水準が隠されてしまうことが問題となる、サルトルも構造主義もプラクシスにあり、その源流はマルクスのプラクシスな社会科学にある
さて、通常の視点では、この対立を止揚することもできないし、何が本質的な問題かも見えてこない。
ところがディスクールの動態構造を見抜けば、問題を特定して、議論の水準をデプラスマン(転移)することが可能となる。
さて、本題に入る前に、ディスクールの構造を分析するのは構造主義じゃないのか、という疑問があるかもしれないので、その点について簡単に補足しよう。
まず、この記事で提示するディスクールの構造は主体を排除して客観的な構造を記述するものではない。
主体に先立つ原因として環境・構造を措定するのではない。主体と環境の二元論はダーウィニズムのモデルにあり、本性的にそれは客観科学の線形因果律に属する。それはアポステリオリな時間に過ぎない。
そのような主客二項対立の線形因果律モデルではなく現象学水準の循環的因果律モデルを前提とした動態構造の分析をなす。
たとえば現象学のエポケーでは経験世界の視点変更を介して経験のアプリオリな条件・仕組みを記述するわけだが、この動態構造のモデルもアプリオリな因果律・時間系のレベルから人間の思考体系・ディスクール体系を分析する。
つまり構造はそれ自体として主体(価値付け・欲望)を内在しており主体において構造が、構造おいて主体があるという前経験的レベルで洞察をなす。
主語制言語が前提とする能動態と受動態の軸ではなく、より古層の、とりわけ日本語に特徴的な中動態から能動態へ、という実相においてディスクールの動態構造を捉えるとき見えてくる無意識(言語構造・他者)の主体(欲望)を洞察するといってもよい。
本題に入ろう。
自由意志はないという場合、僕の確認したところ、現代人の多くは相対主義に属するディスクールによってそれを主張する。
相対主義では、最初に主語主体を原因として前提し、しかし主体の行為・判断や性格は生まれた環境や文化的背景、遺伝などによって左右されているじゃないか!といって主体の優位性・先行性・責任を剥奪するわけだ。
この考え方は客観科学的な認識パラダイムからしばしば言われる論法ともいえる。素朴にみても主体ー環境(客体)のダーウィニズムモデルが措定されていることが分かる。
賢明な読者には、ここでは線形の因果律の思考体系が暗黙裏に絶対化しているのが分かるだろう。
しかし実際には線形の因果律・時間性は文明化によって構成されたアポステリオリなものに過ぎず、それは人類の主観と客観の分離にともなって言語構造(象徴界)において支配化した認識パラダイムに過ぎない。
※線形因果律の言語構造を否定神学システムという、ラカンでは否定神学システムは男の式に対応する。東洋の円環の時間に対する西洋の直線の時間にも対応する、ポストモダニストは線形水準を暗黙に絶対化する愚をおかす
語弊をおそれず単純化すれば、人の経験世界には主観しかなく、その主観が言語を介して他者と交換されるうち、科学技術の発展もあいまって、個々人で主観的な価値や感覚が多様化することで個体差が露わとなったことで、主観の内から主観それ自身が客観と主観とに分節して客観が誕生したに過ぎないわけだ。主観と無関係に独在的な客観があってそれに気づいたのではない。
※このように言うと唯心論との否定があろうがそうではない、唯心論ではなく、物自体には認識像が存在しないといっている、物自体は分からないのでなく認識像をもってない
客観は五感や共通感覚、欲望や意志といったものに相関してしか、つまり主観意識によってしか認識されようがないわけだから、このことは説明するまでもないだろう。
※物の在ること、在るが近代になって時間の線形秩序化・場所のユークリッド空間化において個人主観・主体に限定されたともいえる
このとき客体を成立させる時間構造が線形の因果律をもつ。ゆえに線形の因果関係・論理学的論理は、客観の審級にあるアポステリオリな法則性・時間化に過ぎない。
※原因とはアキレスと亀、ゼノンの矢のパラドックスからも明白だが、客観としては措定不可能である、この事実からの現象学的帰結がハイデガーの時間の実存性の指摘の核心。これはこの記事における内省構造の成立要件とも密接に関わる
であるにも関わらず、自らの主観とは無関係にこの古典自然科学的法則性・時間性が絶対化されて論じられるところに、自由意志論争のレトリックがあるのだ。
ようするに主語主体を絶対化した自由意志ある派も相対主義による自由意志ない派も、ともに同じ欠如なき客観的論理構造のディスクールに自己主体を疎外(投入)しており、ディスクールの構造が同じなのだ。
※線形の因果律と客観の時間系について詳しくは上記にリンクした当ブログの未来予測をした記事を参照。ちなみにユング心理学は線形批判として共時性・シンクロニシティ・相補性概念を生産する。儒学では知行合一の考えが線形思考への弁証法的批判の論理を提出しえるだろう。線形因果律はその否定によってのみ肯定されうる
補足すればデリダの作家の死やポストモダニストのアンチノミーによる不可能なものの提出は、全て意味の本体や根源概念について、それをないという仕方でネガ的に絶対化している。つまり認識パラダイムそれ自体は真理主義・独断論・自然主義と全く同じ。
穴(欠如・ない)を穴だけ取り出せないように、ないといわれるのは客観審級からのパースペクティブを絶対化することからきている。
※事実、言語外・現実界・身体の側からは欠如と呼ばれたそれは充溢とされる
したがって動態構造論の見地からは原因を無限に遡行して環境の彼岸に主体の責任・罪を消去する相対主義も、主体の絶対性を主張する真理独断主義もともに全く同じ倒錯の動態構造だということ。
※相対主義と客体主義の同一性は竹田青嗣の本がわかりやすい
また、自由意志はない、というレトリックは反出生主義のロジックと同型だと分かる。
というのも反出生主義は主体の幸福についての責任(原因)を環境・遺伝などに転嫁することでなりたつロジックだからだ。だから論理としては自由意志はないというのとさほど変らない。
これは客観構造・否定神学システムとしての線形時間の構成の根拠となる自己の欠如・原罪としての他者の引き受けの契機の消失を意味する。受動態ー能動態の軸の問題は能動の根拠となる引きうけの契機を能動より分離して受動態として独立に構成してしまう誤認・幻想にある。
受動態ー能動態の言語秩序・動態構造は社会空間化に対応するということ。
率直にいえば、相対主義(および主語主体主義・真理主義)はあらゆる責任を放棄する欲望をその言説論理の構造に隠し持つといってもよい。相対主義(真理主義独断論)の論理に依拠(疎外)し、その論理水準のディスクールから世界を認識する限り、誰にでも責任転嫁の欲望を惹起させるようになっているというわけだ。
主語主体主義は責任を自己主体・個人に還元するじゃないか!と思われる方もいるかもだが、彼らをよく観察するとまったく違うと分かる。たとえば武井壮は努力原因論を強弁し、自己の成功の原因の全てを自己主体に還元するが、実際に彼の生い立ちや成功の経緯を調べると、その成功と努力との間にはまったく必然性がなく再現可能性が著しく低いことが分かる。彼の主張はまったく論理破綻してる。
つまり成功者は自らの成功の全てを自己に帰結して自己はなんの欠落・罪もない選民だ!という古代妄想を騙っているに過ぎない。これは主語性の自由意志・能動性が何らの予期せぬ偶発性・他者性を引き受けることなしに可能だという主体の無欠性の信仰に起因する。
N=1だと思われる方もいようが、そう思うかたは是非、身の回りの主語主体原因論者を観察して自分で確かめて欲しい。
※責任・原罪を引き受ける近代主体タイプの主体原因論者もいるので、よく文脈・動態構造をみて判断する必要がある
つまり現代人は自己中だから責任転嫁しているのではなく、環境が責任転嫁をさせるのでもない。主体が疎外(投入)される言説構造において、主体が無意識(他者・言説構造)の欲望を欲望することで、自己中化しているに過ぎないのだ。少なくともこのような因果関係の水準が確かに存在し、しかもこの影響は大きい。
ラカンの欲望とは他者の欲望であるとはこのこと。
つまり論理実証主義、論理学的論理、合理主義の論理、これら動態構造は、その論理構造それ自体として客観こそが絶対価値で主観は無価値だという価値付け・欲望を内在するということ。この論理構造が原理的に内在するところのその構造自身を成立・運動させる根拠となる価値付け・欲望が、疎外された個人主体に欲望されるのだということ。
主客の素朴分離に留まる合理主義者の動態構造ではこのディスクールの動態構造の価値付けによる効果が隠されて見え無くされるわけだ。
※保守派言論人はディスクール分析の水準を持たないので、たとえば教育問題を論じると、家庭環境、身体条件の二つの水準だけが主題化され、この本質構造が見逃される
冷静に考えれば、誰にでも分かる当たり前のことを言っている。
ただし、もちろん環境要因がないといっているのではない。
そうではなく、ハイデガーの時間論からも明らかだが、原因の措定はその真偽とはまったく別問題として欲望相関性を持ち、原因を語るディスクールの動態構造においてしかありえないということを言っている。
いかなる原因もこの意味において客体原因ではありえない。ハイデガーの時間論の意味もここにある。
客観系を独在化してしまうから、この水準が見逃される。だから現象学が重要なのだ。本質領域で原因を語るときはその真偽とは別のより重要な問題があるということ。
言い換えれば、消費社会・倒錯の動態構造によりよく適応すればするほど、自己中で責任転嫁的になる側面が強力にあり、自己愛を強迫されるといってよい。
社会人としてよく生きようとするほど、消費社会の言説構造に自己主体の全てを余すことなく捧げることになるわけだから、もうこれは避けようがない。また学校教育がチョムスキー文法化・英語化して経済合理性に呑み込まれるということは、受験エリートほどバカになることでもある。
内省構造を欠く倒錯的な消費のディスクールの内側で思考する限り、どんな天才遺伝子でどんなめぐまれた環境にあっても加速度的にバカ(妄想的)になるのだ。
遺伝子だとか環境だとか、あるいは主語主体の意志だとかの線形の認識水準に依拠する限り、この本質領域の因果メカニズムは隠されて見えてこない。
ともあれ僕はこの記事で読者の疎外先にある言説構造の水準を転移したいと思っている。
ここに示す視点こそが肝要で、この記事で一番言いたいこと。この点が僕のこれまでの記事とこの記事との唯一の違いだと言ってもよい。
無意識の主体を洞察すること、語られてあることの動態構造を洞察し、ディスクールのプラチックなレベル(意識的な主語主体の語る目的性・プラクティスとは別の言説構造自身がもつ価値づけ、言説のプラチック)を見抜くことを読者に可能とするためにこの記事はいま書かれている。
この記事も日本語で書かれてはいるが、もっとも本質的な意味でこの記事の言説構造はメタ言語に他ならない。
というわけで言説の論理構造に内在する価値付けであり欲望をラカンは大文字の他者の欲望と呼んだ。大他者の欲望とは無意識・動態構造の欲望のことでもある。無意識は言語のように構造化されているというラカンの有名なテーゼは、僕の新しい解釈では、この意味においてこそ十分にいえる。
この水準で無意識について読者に意識してもらいたい。必ずや読者の言説や相手の話の聞き方が本質的にデプラスマンされることになるから。これは社会がサステナブルになるかいなかに直接的に関わること。
ディスクールの動態構造分析の威力をまだ疑う人がいると思うので補足する。
昨今の客観科学万能論は生活環境・幼少期の教育環境・時代・遺伝子を思考力や知能・性格の最大因子と見なす傾向にある。YouTubeでもそうした言説が多い。
しかし、人類最初の統合失調症は18世紀、ヘーゲルの時代まで存在しない。ヘルダーリンが最初の統合失調症とされる。
精神病は遺伝子による要因もあるが、近代以前には一人も存在していないし一卵性双生児で同じ養育環境にあってさえ、一方が発病したとて他方は生涯発病しないという例も珍しくない。
そして現代、統合失調症は激減している。
そもそも神経症も近代以降にしかないし、存在と存在者の分化した言語を持つ人間だけが統合失調症や神経症になる。
存在と存在者の区別のない動物語の世界で、生物が神経症や統合失調症になるのは原理的にも実際的にも不可能である。どんだけ統合失調症になりやすい遺伝子をもっていても言語構造が近代レベルにない場合、原理的に精神病にはならないのだ。
そして人類が神経症や統合失調症になったり、それらの病が遺伝子の要因を一切受け付けないごく短期間に消滅しつつあったりすることの直接の因子は全て言説構造の変遷に帰結可能だ。すくなくとも最新の遺伝子学・生物学のロジックではまったく説明がつかないのは確か。
いかなる家庭環境にあろうと消費社会に参与し生きるために労働や社会的承認を欲する定めにある人は等しく言語の相関者である消費社会の自体性愛的な欲望構造に疎外されており、自己の存在理由・欲望・意味などを社会的言語において表明し、自己主体を言語連関に組み込む。
したがって主体の思考ベクトル・欲望は言語の動態構造に規定され、自己が自己について考え決定する自己関係の水準もこの消費の言説構造に依存している。
この事実は何よりも大きい。
※動態構造に連動しつつその外部条件となる身体性との関連があるがそれは未来予測記事に書いてある
この事実は病碩学・疫学統計といった実証面でも強力に裏付けられるし、現象学的にも強力に論証できるのだ。
というわけでディスクール的プラチック・無意識の水準を無視して、人間主体の帰趨を論ずるなど愚の骨頂ではないだろうか。
にも関わらず、消費社会の言説構造の作動によって、この次元が見えなくされている。
だからディスクール的プラチックを洞察するとは意識理性中心主義にあるプラクティスの理論家が決して観ようとしない語られてあることの無意識・プラチックを洞察すること。
ところでメンデルの遺伝子研究は当時の生物学・植物学の学問教義の外にあったという。つまり学問として認めすらされなかった。
また地動説を唱えたら処刑される時代もあったが、この記事の内容はまさに中世ヨーロッパにおける地動説といってよいだろう。
この記事は、現代を支配する倒錯のディスクールや主客の素朴分離系のディスクールの動態構造のその外側でありかつ、自己内省的という意味でその真に内なる言葉なのだ。
読者諸君!我々の敵は、異なる思想でもなければアジテーターでもない!
真の敵は我々の主体自身に住まう言説構造、語られるたび強固となる、自らの発する言葉であり、その論理的な動態構造なのだ!
不毛な闘争はもうおしまいにしよう。意味が無い。
★以下の青枠の解説はマニアックなおまけなのでラカンや木村敏に特別の興味が無い一般読者は飛ばしてください
ディスクールの動態構造がラカンでいう言語のように構造化された無意識(大他者)に対応し、この動態構造に内在する構造の動因(構造をあらしめかつ構造においてある構造を変容しうる存在)としての価値付け・意が大他者の欲望=無意識の欲望に対応する。
このときラカンは、言説の動態構造(象徴界)における欠如として構造に内在する欲望・価値付けを描写する。したがって構造の変容因となる大他者の欲望は構造自体として内在しながら、構造の外部の存在論的位相にある現実界と定義される。
とりわけ重要なのは、現実界と規定される欠如は、欠如と呼ばれる限りにおいて象徴界(構造・シニフィアン体系)なのだということ。象徴界の水準から象徴界に内在する現実界・欲望を描写するため、それは欠如と呼ばれるのだ。
ここでパースペクティブは象徴界⇒現実界となる。視座は象徴界にあり、象徴界は存在ではなく存在者としてのシニフィアンの次元に属する。象徴界を基準とする限り現実界は欠如でしかない。
ラカンをまともに理解するつもりの人は、まず欠如という呼び名が含意するこのパースペクティブをしっかり理解しよう。
さて、後期に現実界へと視点移動がおきると、欠如とは呼ばれなくなり一者は在るというように在ると見なされ現実界からの現実界の記述が主題化する。
ここからが肝なのだが、木村の現存在分析ではラカンでいう欠如に相当する存在論的差異(現実界と象徴界の差異)を有や充溢と見なす。これは、そのパースペクティブが存在⇒存在者にあるからで、ラカンでいう後期の視点が前提されているため。
※存在論的差異をラカンはフリュストラシオン(欲望・欲求不満)と呼ぶ
すると、木村敏やヴィンスワンガーでは、統合失調症に観られる言説の動態構造(世界内)から主体(内存在)が弾かれてしまう状態を疎外と呼ぶことの意味もよく分かる。ラカン派ではディスクールの動態構造に主体を参入・投入することを疎外と呼ぶのだった。
しかし現存在分析ではその逆で象徴界から弾かれてしまう状態を自己疎外と記述するわけだ。
この二つ目の奇妙な表現の反転もパースペクティブの違いから解釈できる。
つまり主体であり存在および存在論的差異を欠如と見なす象徴界優位の50年代ラカンにしてみれば、主体を象徴界に参入させることは疎外であり主体の分裂・乖離と見なされるわけだが
これに対して、つどの今・存在すること・在るということに視座をとる木村敏では、つどの存在・あることがそれより過去の全ての存在・あることに対して統合不能な非連続性をもつことが問題設定されるため、ラカンでいう疎外の失敗が逆に自己疎外と見なされる。
話は簡単で象徴界の構造=動態構造における構造に症状因を還元するラカンのパースペクティブと異なり、存在・現実界・根源的今の側に視座をとって存在・あることの側に症状因を還元して存在態勢の種差(アンテフェストゥム・ポストフェストゥム・イントラフェストゥム)を本質と見なす木村理論では、存在自身の存在(ノエシス的自己)の同一性(自己性)の拒絶が精神病において洞察されるゆえ、それは自己疎外と呼ばれる。
というわけでラカンのパースペクティブと術語との関係をある程度明確に理解しないと、ラカンを理解した状態で、現象学的精神病理学やハイデガー、西田の理論を理解するときに、とても混乱することになる。
※僕は木村から入って、後にラカンを学んだが、最初の頃はこのパースペクティブの差異に気づかず、凄く混乱して苦痛だった、つまり二人の言ってることは個別にはなんとなく分かるのに合わせて全体を把握しようとすると途端に意味不明になる感覚。それは分かっていたことすら全部分からなくなる絶望なのだ
神経症の動態構造
神経症とは深層心理学では近代主体=ノーマルを意味する。
現代人はすでにノーマルではなくなったので、過去の人類の標準形に相当する。
倒錯(資本主義)の構造の項目で近代主体の説明も包括されているので、ここでは補足として神経症(近代主体)の症状論を簡単に示しておく。
神経症は人間が言語に疎外されることで生じる。つまり言語規範・社会的ルール・しつけによってその都度の欲求が去勢され、主体の欲求の幾分かが社会的欲望化によって無意識に抑圧(断念)されることになり、この抑圧物の意識への回帰によって症状が形成される。
このとき最初期に抑圧される欲動が母子一体の近親相姦願望だとフロイトは考えたようだ。
※無意識が作業仮説に過ぎないとされるのは、抑圧される場としての無意識が意識外であり直接の確認可能性をもたず、このような仮説領域の設定が神経症の症状メカニズムと治療理論を与えるためになされているから
このとき症状は抑圧された願望が意識の検閲を免れて、妥協形成として象徴化・暗号化されたものであるため、これを解釈(精神分析)によって意味付け、抑圧物を意識に統合することで症状を解消し自己の真理(自己認識)を刷新するというわけだ。
このとき、症状は最初、ただの記号みたなもんで、この記号になんらかの意味を神経症者は仮定するのだが、神経症者は分析家を専門家であり、症状=無意識の欲望の言語的意味を知る他者(知っていると想定された主体)と想定する。
この分析家への想定をラカン派では転移と呼び、転移によって症状はシニフィアン化する。
シニフィアンとは疎外(S1→S2)のことで、他のシニフィアン(社会的言語・S2)に主体を代理表象するシニフィアン(症状・S1)のこと。
※簡易化して補足するとS1は主体のことで、S2はディスクールの動態構造に対応させることができる。厳密にはS1とエスバレ(主体)は違うのだが。ちなみに→は欲望に相当するともとれる
つまり主体の意味の欠如(症状)を言語体系(動態構造)の内に与え承認する父として分析家が布置される。
この転移によって症状の解釈が起こるが、解釈する主体は分析家でなく神経症者であり、それゆえ神経症者は分析主体と呼ばれる。
分析家は不在の父の座にあるといってもよい。
また分析治療の終わりは、分析家への症状の意味を知っていると想定された主体の転移が破綻して、症状に意味がないことが発覚することでもたらされる。意味への妄想が自覚され主体は自己を意味に還元できないことを悟り、ひるがえって自己の自由な意味付けの運動が円滑化するのだ。
あまりに仮説的な議論で読者の失望を誘ったかもなので、仮説的でない補説をする。
ようするに自己が何者なのかということを現代人は言語的意味によって自己決定せねばならない。それが神=父の死後の近代において人間を人間の主体(自己決定する主体)とすることの運命であった。
かくして、運命が迫る主体の自己言及構造は自己の意味であり、言語の意味について、根源的な単一の欠如を構成するに至るのだ。
どのような単語も意味の意味の意味の…と意味を無限に遡行できてしまう。そのような線形の時間秩序を構成するディスクール構造であり社会空間性において、神経症における知を想定された主体の転移や症状への根源的意味の想定は不可避だということ。
神経症者は意味の意味の、、、と無限に遡るその彼岸に根源的意味を幻想してしまう。この根源的意味が喪われた自己の起源であり、近親相姦願望であり、心的外傷であり父の罪を構成・布置してゆく。
いずれにせよ、ありもしない欠如した起源を意味の彼岸に幻想すること、この幻想の作動において主客が分離して夢と現実が識別されるようになったり、男女の性規範が成立したりといったメカニズムをロジカルに読み解くのが精神分析の基礎となる。
ラカンは難解と言われるが、その基礎理論はシンプルで美しく明瞭であり、じっくり取り組めば決して難解ではない。
そんなわけで神経症者の幻想による欲望の効果の果て、欠如として構成される遡行される意味の欠如を埋め立て、言語体系を絶対化・全体主義化しようとするのが倒錯者なのだ。
また近代の運命において自己を意味づけるたびに自己が自己とズレてゆく自己解離に付随して、想定された意味を欠落した症状は、自己の真理を想定された享楽・根源的意味を布置された意味欠如として布置される運命にある。
この観点からすると仮説性を排して、神経症の理論を概ね納得することができるだろう。
あと、あくまでこれは神経症者の誤認であり幻想の効果において生じるというのがミソ。
※細かく説明すると切りが無いのでこの辺で納得して欲しい
神経症で肝要なのは
症状のプロセスが主体における意味の欠如=罪を中心に解釈=意味付け=隠喩を生じること。
症状も意味を想定されて反復される。
※自己の意味の欠如とは言語的意味=大他者における欠如であり自他の分離のこと。自己の欠如を自らが自身にもたらすことで生じる罪の意識のこと。罪とは自らに起因して欠如をもたらすことで生じる感情のことであり、自己欠如は原罪に相当する
つまり言説体系のうちに症状(無意味)が収まるべき意味の欠如が担保されているわけだ。もし欠如なき合理性、全てが数学的かつ決定論的に規定されるような経済合理全体主義的な言語体系(ディスクール構造)であったなら、症状(意味外・社会外に排除された未知)に対して既存の言語による意味付け(隠喩)は期待できない。
※隠喩とはあるシニフィアン・表象に対して別のシニフィアン・表象を上書きすること、たとえば足の速い人物という表象を観て、その人物表象について、彼は鹿のようだ!というように鹿という別の表象を上書きするのが隠喩。したがって隠喩は意味秩序の組み替えであり意味の欠如を要請する
したがって欠如なきディスクールでは、神経症者のような症状過程は成立せず、神経症も存在しないのだ。
というわけで、この欠如への意味付け(意味の上書き)を父性隠喩と呼ぶ。
父性隠喩であり父の名(言語体系における意味欠如の担保)によって、主体はそのつどの自己の非連続な主体性を言語体系に再疎外し、言語体系を、自己の未知性・非連続性としての主体の意味付けを介して組み替えてゆけるのだ。
※この意味で線形時間とは実は今における過去の反復によって連続されていると分かる。アプリオリな根源的今の作動が時間の本性であり隠喩はアプリオリな今を根拠とする
幼少期に父から自己の主体性の言語的承認を受けること、この動態構造内での自己主体の承認が父性隠喩をなす父の名において実現し、主体のディスクールの水準を神経症=近代主体水準へと移行する。このとき父の名であり父性隠喩が否認されてくると倒錯となる。
※父性隠喩が排除されると統合失調症に、それ以前の疎外が不全だと波紋型となる
学校審級までもが経済合理性に呑み込まれた今日、ディスクールの構造そのものが倒錯化・非定型発達化を余儀なくされ、結果、どのような父の息子も、神経症を構成することはほとんど不可能なのだ。家庭環境とか貧富とか遺伝子とか関係なく無理なのだ。もし可能性があるならばなんらかの意味で社会的不適応を起こす主体が、運良く優れた本を読むくらいしかないのかも。
すでに神経症水準の主体はほとんど消滅している。それは日本人のディスクールの構造から欠如が消滅しかかっていることを示す。
近代では経済合理性に対しては国家審級が立ちはだかり、国家・学教教育の言語を父性隠喩として経済合理性の言語にも欠如がもたらされていた。たとえば自由競争に対してそれを抑制する国家意志としての関税などはその例だろう。徴税分が要求の言語の存在論的差異・フリュストラシオンとなる。
ラカン知ってる人向けに一言補足すると、ラカンの欲望のグラフでいえば、下側の要求線D`は経済審級、上側の要求Dは国家審級の言葉に対応し、二つの線の差異(欠如)が欲望dの弁証法としての存在論的差異を開く、と解釈できそう。
ところが現代では国家審級の言葉が経済合理性に呑み込まれ、倒錯化が過激になったのだ。しかも国家幻想における空間化に伴う誤認がその要因なのである。ここにややこい捻れ構造がある。
補足しておくと、主体における言語的意味の欠如は、主体と客体、存在と存在者との差異を示す。この差異として主体が自己主体自身の言語的意味を求める欲望をラカンはフリュストラシオンと呼び、ハイデガーは存在論的差異と呼ぶ。主体たる存在論的差異は存在者と存在との差異であるところの存在・欲望である。
また、ハイデガーの言語における意味の存在論的差異の誤認の議論をラカンは想像的誤認と呼び、これを言語化(疎外)における性の規範化のメカニズムとして理論化している。
※誤認のため女性は主客分離後に分離に固執し男性は分離後に疎外に固執するとされる
圧縮して神経症のディスクール構造の概要を解説したので、つぎは学問との関連を簡単に紹介する。
僕の読書経験によると、一流の人文学者の論理生産には共通の思考の作法が存在する。それはフーコーでいうデプラスマン。
デプラスマンとは位相や水準を移動・転移すること。
たとえば存在論的差異は主体の欲望や存在者のあり方を存在論的レベルで理論化した用語だが、この存在論的差異をイメージとその具象性との関係として心理学の水準にデプラスマンした用語に心理学的差異がある。
すぐれた人文学者はこのデプラスマンがうまい。
論理モデルを別の領域に転移・隠喩して論理体系を組み替え創出する力が学問をするときには要請される。
これによって分野横断が生じたりするが、実際には一つの同じ問いが問われていて同じ問いの水準が転移・隠喩したに過ぎない。
※安直な理論モデルの隠喩はもちろん無効、ここでの理論モデルの隠喩は同一化によって組み替え変化を構成し、広がりにおいて問いを深化する
つまり父性隠喩を消そうとする消費社会のディスクールにあっては一流の人文学者になることは原理的に不可能。
ようするに、この記事は世に氾濫し、平然とナチズムを垂れ流すバカ学者に欺されないためにも、ディスクールの動態構造論を提示している。
※テレビネットには三流も多く、そういう三流を大衆は知の神とかいって崇める、これだと問題が悪化する
一つの問いに収斂するように隠喩によって体系的に組み込まれているかどうか、つまり隠喩・転移の構造をディスクールが持っているか、この点に着目すると何を言っているかに関わりなく学者の実力がある程度分かるだろう。
三流と一流とでは、そもそもその言説の動態構造の水準からまるで別、同じ日本語でも本質的に異なる言語なのだ。
陰謀論者とスピ系の動態構造
スピ系といっても人によるから一概にはいえないが、ここでの陰謀論者やスピ系は、重度にはまり込んでスピ系を客観的事実であり客観科学的なものと考える人を示す。
そうでないスピ好きはノーマルであってここに含まれない。
では分析してみよう。
スピ系はラカンの三大カテゴリーにおいては精神病に近い。
じつは動態構造としては、この人たちも倒錯者と近い。
※ただし倒錯と精神病の構造はラカン派では明確に異なる。欠如を埋めようとするのが倒錯で妄想で欠如が塞がってるのが精神病(パラノイア)、この記事ではそこの違いを簡略化してるところがある
精神病の構造では疎外後に疎外が否定されるのが問題となる。既に解説したように疫学的には精神病はこの数十年で激減しているがこれもディスクールの構造変容に起因する。
しかしながら普通精神病が蔓延しているとされる。普通精神病とはラカン派の概念でパラノイアなどのようなラジカルな症状を一切みせない、いわば発病しない精神病をいう。
つまり無症状化した精神病者が大量にいるのが現代なのだ。
そんな普通精神病の一群がスピ系や陰謀論者に相当する。
このようにいうとスピや陰謀論を悪と勘違いする人がいるかもだがそれは違う。そうではなくスピやオカルトがあるから、精神崩壊を免れているのだ。
妄想は病因ではなく治療因。この点を勘違いするととんでもないことになる。
また陰謀論と一口に言っても陰謀は事実ある。利権が絡み重大な政治決定の裏で不正が行われることは珍しくないからだ。陰謀論といっても一概に妄想扱いできるわけではない。
陰謀を薄弱な根拠でかたくなに否定するのも妄想といえよう。
すでに倒錯の動態構造で解説したように、資本主義のディスクール構造では主体の自由・非連続を保障する欠如が埋め立てられ、全体主義化しようとする。
一方で、資本主義型の全体主義はポスト全体主義でもあり、旧来のナチス型全体主義とは異なる面をもつ。
ナチスでは具体的な普遍規範が支配化していたが、経済合理性のディスクールではそれがない。
つまり金の儲かる意見であり規範が絶対化する人気投票システムなのだ。
だからいかなる価値規範も承認や金さえ集まれば正当化される。この相対主義によって勝ち組のパワーゲームとなり、最終的にはナチスにも近くなるわけだが。
ともあれ、ここでは社会への不適応を起こす個々人が主流と異なる言語的意味体系としての妄想世界をシェアして、それを公式化することが可能となる。
したがって全体主義的なディスクールの構造に対して、自己主体を生かすためにそこから逃避した主体は、固有の妄想にこもることなく社会的に承認されたスピや陰謀論の妄想体系を選択できる。
あるいは個人的妄想を自由に主張して、それを社会化・標準言語化できるのだ。
厄介なのは、こうした欠如なきディスクール達は、欠如なきゆえに多様性を持っていない。つまり、自己の意味体系こそが唯一の真理であり絶対だと確信されてしまう。そのために攻撃や決めつけだらけになる。妄想とはそれが空想であると自覚されない空想をいう。
このような妄想言語体系さえも、包摂して成り立つのが資本主義のディスクール構造といえる。
そんなわけで反資本主義の言説さえ商業化によって論者が豪遊するためのツールとなる。
※資本主義の否定が極めて困難なのはここに起因する
表面的に反目しあう客観合理主義者とスピ系は、ともに同じディスクール構造にあり、客観合理主義者の倒錯的な欠如の埋め立てによって、主体性の場を奪われた主体が自己主体を生きることを可能とする妄想世界・スピ系を構成するという関係にあるのだ。
つまりデバンカーを標榜して、スピ系を論破し、統計だとかを絶対化して人文科学と自然科学の区別もつかないエセ科学的言説をふりまくことで逆説的に、スピ系が生産されてしまうということ。
そうしてマッチポンプ的に生産したスピ系を叩いて、小銭稼ぎしてさらにスピ系を増殖させる錬金術。
※自然主義者は要素還元するので全体系が見えない
ディスクール構造の水準で洞察すると、いかに馬鹿げた茶番が消費社会を駆動しているかが克明に見えてくるだろう。
さて、ここからが本題だが、スピ系の特徴は、霊といった主観であり印象が客体化するところにある。
このような主体の水準と客体の水準、存在と存在者との差異(存在論的差異)が消滅してごっちゃになるのが欠如なきディスクールの最大の特徴である。
たとえば自然主義・客観科学主義者であれば、心・主体は脳である!と言って譲らず、人間の思考も数学的なシステムやAIによって完全に特定できるというレベルの低い妄想に取り憑かれる。
このブログでもシミュレーション仮説を否定しただけで、大量のクレームがやってきて面倒なことになっている。
自然主義者は物しかない、心は存在しない、あるいは心は物である、と言っている。
性格も客観的に観測可能な客体的行動に短絡されてしまい行動主義になるし、言語の意味も形式論理主義に還元され意味に本体が妄想されるのがこいつらの特徴だ。
どれだけアホかは、実証主義系の人文学者、とくに東大の一部の学者の論文とか読むとよく分かる。非論理的で意味不明、小学生の思考力すらないのが誰にも理解できよう。また東大の生物学者がYouTubeで開陳するアリの生物学の理論などを聴いてもその頭の弱さがよく分かる。
彼によると働きアリの働かないのは遺伝子が原因で、これが増殖して共同体を破壊するから人間の公共財を食い潰す人は働かない迷惑なアリと同じ、ということらしい。
人間の複雑な社会プラチックとアリの区別がつかないバカがプラクシスのロジックでプラチックを捨象して、ダーウィニズム的ナチズムを吹き上がる。これが自然主義者・資本主義の動態構造の効果だ。いい加減、学者のレベルが低すぎて僕の我慢にも限界がある。内省構造のないアタオカな学者は今すぐ強制解雇しないと社会も学問も本当に壊れると思う。
※学者の学問領域が細分化しすぎて、基礎教養がない危ない奴が多過ぎ、しかも実証主義の理論は簡単だから能力が低いとそこに向かうしかなくなる
まとめよう。
デバンカー・自然主義者は物しかないということで主体と客体の差異を消去して主体を物質客体化し、スピ系は霊を客体的な物質であり科学的測定可能性を持つと考え同じく主体・霊を客体化する。そのためスピ系は量子力学に接近して自然科学的な確証を得ようとする。
どちらもが主体と客体、存在と存在者、主観と客観との存在論的差異を抹消するディスクールにあることが分かるだろう。
この差異の抹消が、欠如の抹消に対応する。
個人的な主観・信念が客観と混同されれば、意見の違いから闘争になったり、妄想を断言するようになって危険なのだ。
簡単に補足すると、言語の意味の根源的欠如を持つとは、言語的意味の解釈・理解は不完全であり、そのために自己の客観性・言語性の理解には可疑性があるということ。
※既に解説したように言葉の意味は無限に遡れて、完全に言表しえない、この意味の不完全性が意味の根源的欠如であり可疑性や反証可能性の根拠であり主客分離の条件
この客観水準の認識に対する可疑性の構成が意味の欠如を安定化させる父性隠喩の効果。
つまり可疑性(欠如)こそが主観と客観を分離し、個人的解釈に過ぎないという仕方で主観と客観、自と他を分離するのである。
よって欠如が空想と現実を分かち、この分離・分節こそが、現実吟味と呼ばれる現実(客観)と夢(主観)を識別する能力を構成する。
また、これにともない人権の成立要件が満たされて、人権概念が可能となる。
ようするに欠如を欠いた資本主義のディスクールの動態構造に起因して、自然主義合理主義者とスピ系や陰謀論者の双方が相互依存的に再生産され続ける構造にあるということ。
そしてこの欠如の埋め立ての必然的効果として双方は、主観と客観の存在論的差異を失い結果、現代人は夜と昼、現実と夢、幻想とリアルの境を喪っているのだ。
コスプレブームも幻想世界が現実世界との境界を溶かして夜の夢が昼間の現実に侵食する様子をよく示すだろう。
ホストに狂った女性も一時の夜の幻想、禁止の彼岸にあるホストクラブが昼間の現実にまで侵食して起きる現象なのだ。
弁証法レベルの動態構造
弁証法レベルの動態構造のディスクールとは何を隠そう、この記事である。
欠如を埋め立てんとする誤認を正し、欠如を埋め立てる強迫にある倒錯のディスクールに欠如を確保するディスクール。それはある意味で、内省を迫る内なる良心の声なのだ。
倒錯構造にあって、そのうちで圧殺されようとする自由意志の悲痛な叫びを理論的に解析したものといってもよい。
ゆえに、この記事はシャーマンの仕事を人文科学化・深層心理学化したようなもので、止揚されたシャーマニズムという側面を持つ。
したがって消費社会のディスクールとは表向き相性が悪い。
なんというか欠如をもたらす言説になってるので、構造的に排除されるようになっている。だからこの記事は読まれないし理解されない。適応し満足した現代人は、この記事は欲望不能になっている。
どうしたものかと思う。
しかし、YouTubeを観るとZ世代には幸い不適応を起こしている人が多いようである。不適応は言説に関する内省のきっかけの一つ。
社会にどこか適応しきれない人にこそ、この記事は価値を持つだろう。
なにより、この記事の言説構造に自己主体を疎外(投入)すると知能が上がることは保証する。内省によって構造的に知能を上げるように言語の欲望が作動するからだ。
この次元に開かれた主体は、新しい自由を手にする。
そこでは止揚された人権が実現する。この新しい人権は既存の人権の動態構造のバグを解消したもので、持続可能な人権意識を実現し、ふざけたレイシズムを一掃し続けるように作動する。
このとき個人主体は自己をあらゆる可能性の総体として他者と相対することとなる。そこでの時間意識は線形妄想が支配化する時間とは根源的に異なる。
※線形因果律はその否定において肯定化と安定化を実現する。サステナブルな主客の分離が非分離系において実現する
またこれに対応して人類の所有観念も止揚され、新しい所有意識と身体意識が実現する。富の再分配、そのほかもろもろのあり方も、より安定的で万人に妥当なものに向かうだろう。
さらに、あらゆる歴史は今において賦活し現前する。
この時間意識において人は喪われた過去をいつでも取り返せるし、同時につど一回性をもつことにもなる。喪失において、それを取り返すことが叶う。これにともない悲しみの涙はそれ自体が欠如における結合の根源感情として自覚される。
このように言うと革命的ともとられるかもしれないが、何か具体的な制度や物がいきなり革命的に変るわけではない。そうではなく意識の問題であり、市民社会と資本主義がサステナブルになるというだけのこと。
僕がこの記事の言説構造によって開拓する新しい世界では理論上はこのようになる。しかし誰も救われたくないし誰も賢くなりたくない、それが全てだと思う。
最近は東大のエリートがマルクス資本論の本を出してバカ売れしているという。
結局、売れるのは主語性論理に属するプラクティスな社会科学の本ばかり。これではますます世界は悪くなるだろう。相対主義の論説が逆説的に独断論を再生産してしまうのと同じ構造にあると思う。
つまるところ現実の絶対的肯定と底なしの楽観主義か全否定からのリセットザワールドか、この二つしかなく、これは真理主義と相対主義との対立と同じ倒錯の動態構造によって生じている。リセットの後ではなくリセットそのものが目的化すると相対主義となり、リセットの後が真理化すると現実完全肯定とは異なる真理主義となる。
これら二つの欲望が構造化された無意識の欲望によって生じているわけだ。どちらもが自由を喪失した状態といいうる。不自由を否認することで自由の成立要件が解体するのでこのことには理論的必然性がある。
ディスクールをデプラスマンしないとどうしようもないのだが、ディスクールの水準を認識することさえ、できなくなっている。もはやディスクールは認識の外で、ほとんどの人はこのメカニズムをまったく認識しえない。
環境問題のディスクール
昨今、Z世代を中心に環境問題への意識が高まっている雰囲気がある。実際にそうなのかは知らない。
いずれにせよ、少なくない人たちが自然環境問題に奔命し明日世界が終る勢いで発狂しているのは事実だろう。
さて、本当に環境問題は大変なのだろうか。地震は人間の経済活動と無関係におきて数分の内に何万人もの命を奪い、何十万人もの生活を破壊する。それにくらべて人由来の気候変動の影響は、あまりにショボいと思う。
地震で死にまくるこの国で温暖化とか1度上昇したとか言われてもピンとこないのだ。
またアメリカのイエローストーンの火山が噴火すれば、北アメリカ大陸の全域が完全に生存不可能となりアメリカという国が終る。そればかりか地球が氷河期となり酸性雨が降り注ぐとのシミュレーションもある。
もちろん、イエローストーンの噴火と人間の経済活動にはなんの因果関係もない。イエローストーンの噴火がいつ起こるかは誰にも分からない。しかしいつかは噴火する。
僕には、経済活動と無関係のむき出しの自然の暴力のが気候変動より遙かに脅威に思う。
そもそも古代、サハラ砂漠は砂漠でなく緑地帯だったが、地球レベルで砂漠化が起きた。その結果、大規模な民族移動があって、ナイル川のエジプト文明、チグリス・ユーフラテス川のユーフラティス文明、黄河文明、インダス川のインダス文明ができた。
気候変動で川への民族移動が地球規模で起きて灌漑農業と人口集中のもと古代文明ができたのだ。
さて現在の人由来の気候変動、人間の活動と無関係におきた古代の砂漠化にくらべるとあまりにショボくないだろうか。本当に騒ぐレベルのものなのか。人工光合成装置の研究も順調ときく。技術革新でどうとでもなる気もするのだが。
じじつ、あんなに騒がれたオゾンホールは人類の技術や努力で塞がってきており既に解決した。
グレタトンベリが問題を解決することはありえないと思うのだが。解決するのは科学者だと思う。
僕の個人的な環境問題への疑問はさておき、本題に入ろう。
環境問題のディスクール分析では、本当に人為的な気候変動が大変なのか否かはそこまで重要じゃない。
重要なのは、自然環境が人間のおぞましいエゴによって汚されており、このままでは人類が滅ぶ!と語られることの意味と欲望、時代性なのだ。
自然環境問題を熱狂的に語る人は技術進歩による解決を罵倒、ともかく人間の経済活動や資本主義を標的に禁欲や脱成長をとく印象があるかもしれない。長期的観点ではどこかで脱成長せざるえないのは事実だが、今がそのときだというのは話が無茶苦茶ではないだろうか。
実際に素朴に今から脱成長をした場合、デフレになるので貧乏人からお亡くなりになり、ますます金だけを絶対化する腐った世界になると思うのだが、、、そもそも日本は成長せず脱成長してるから金だけのデジタルモンキーが増えたわけで、脱成長のヤバさは実証された気がする。
あと勝ち組になるほど、経済成長を望んでおらず、デフレで地位の固定を考えていると思う。じじつ経団連はデフレ政策を推進してる。
ともあれ近代において性の抑圧が語られたことを分析し、権力関係を分析したフーコーの態度にならって、自然は抑圧されているという語らいを分析してみよう。
※この問いは逆に、なぜ現代において人に起因する気候変動問題を僕のように軽視する人がいるのか?という形で問いを逆転させてディスクール分析をすることもできよう
まず自然環境は母なる大地であり、身体性に直結する。
環境を身体とした場合、現代社会の建築交通空間はあまりに、無意識(意識の予期せぬ身体性)を抑圧しすぎている。
近代空間には主語幻想の過剰さがあり、これはそのまま、腸活だ筋トレだと自己身体を予定通りに管理し、医療幻想のコードに従って健康商品をつかい身体をケアする時代精神に対応する。
疫学統計というビオポリティックな要求において、身体から不安=予期せぬ病気・反応を末梢する時代なのだ。
つまり現代の権力と密接不可分にある現代医療の身体幻想・健康幻想は自然環境の社会空間化、ユークリッド空間化に対応する。
さて、近代では人間主体の性が近代社会によって抑圧されていると語られたが、現代では人々は自然環境が抑圧されているという。
抑圧されるものが、人間主体から自然環境へと転移しているのが分かる。
これを、自然環境を余すことなく支配し社会空間化する現代文明にあって、その社会空間・言語空間の外部にあるむき出しの自然が抑圧ないしは排除されていると考えてみよう。つまり地球環境が汚染されていると言われて人々が連想するのは街の中の街路樹や公園の木々というより、北極や南極のシロクマやアマゾンだろうということ。
少し仮説的だがおまけ項目なのでこのまま考察する。
すると近代では社会の内側に、つまり動態構造の中に疎外されていた個人主体の抑圧が主題化されていたのに対し、現代では、動態構造・社会空間の外部に弾かれた主体・身体の解放・リセットザワールドが主題化していると解釈できる。
これは規範なき身体・主体全ての肯定・意味化をせまることにも対応しよう。
つまり社会の内部、言語空間の内部に自由意志は存在不可能となりつつあるのだろう。
倒錯の構造が主体の住まうための空隙・欠如を埋め立てた結果、自由な主体化は社会構造の外部、言語外の身体へと排除された。
そこにはオルタナティブな疎外・妄想性隠喩による陰謀論やスピ系・妄想のディスクールとしての環境終末論が生成されるのかもしれない。
人新生の資本論者が見逃すのはこの水準であろう。環境問題の危機を語るときに、自らのプラクシスな目的意識の影で語られてあることが何が欲望させてしまうのか、ここが見えなくなってしまう。
※人新生の資本論を全否定しているのでなく、ディスクールの水準が無視されているのが問題だということ
さらに自然環境を守るという標語。これは山本哲士が鋭く指摘するように人間主体が主語として自然の大地を守る、ということ。主語制言語の規制を受けた問題提起を構成する。場所にあるはずの自然環境を社会空間制に配備してしまう愚かさがある。本来、山本のいう場所資本を構成すれば、それで自ずと環境問題も解決に向かうと思われる。
ようするにセルフケアと同じ意識で、自然保護もまた医療幻想の社会身体コードに支配されているに過ぎない。この場合、原理的には環境問題は不毛な闘争を目的化する非弁証法的な外在的葛藤を惹起するだろう。
まとめよう。
身体を抑圧する権力がある!権力の主体を妥当せよ!というプラクシスな権力論が近代の性の抑圧と現代の環境破壊には通底していて、その身体のありかが社会内・言語内から社会外・言語外へと移行したということ。
いずれにせよ人間社会が自然環境を痛めつけており禁欲せよ、という認識は確実に心理学的布置・投影を生じることだけは確かだ。
ディスクールの動態構造の水準を内省水準にシフトしない限り環境問題も経済問題も解決はありえないだろう。
アドリブの思いつきで書いているだけなのでこの辺にとどめるが、環境問題のディスクール分析に連動させて現代のパストラール権力の作動やフーコーのいう権力の四つの機能の様態と動態構造を連動させた社会分析をしてみても面白いかもしれない。
ともあれ、ここでの見方に妥当な側面があるなら、環境問題を強迫的に語ることの背後にはリセット的な欲望や陰謀論的欲望が潜む可能性が強い。その本質は倒錯の動態構造・資本主義のディスクールにある。
一部の強迫的な環境保護にも加速主義にも終末論者にも陰謀論者にも、どこかリセットザワールドな欲望が底流にあると思う。
なおリセットザワールドと倒錯者の関連については、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』の2話の飽食の僕 NIGHT CRUISEを観るとよく分かる。ジジェクのいう意味での倒錯と資本主義の関連がそのまま描かれている。
某資本論の人はこういう深いところを全く考えない倒錯水準で思考するからこそ売れてる気がする。
金になる思想とは問題を引き起こす当のもの・動態構造を問題の解決策として強化し、問題をますます解決不能にして金を生み出す気がする。
大事なのは環境問題は客体対象ではないということ。そいういうプラクティスな社会理論は何も解決しない。
自然環境を客体ととらえる限りいつまでも解決できないし、バカをやりつづける。よしんばテクノロジーで自然環境問題を自然科学的水準で完全に克服したとて、同じものが自然環境と別の何かに投影されるだけで本質的には何一つ解決しないということ。
自然環境を場所・ゲニウスロキとして洞察し、そのプラチック・共通感覚・コヘレンツ・直観を捉えないと見えてこない領域がある。
ディスクールの現実性の排除
さて、どうやらフーコーという人は僕と興味の対象が近いところがあるのか、フーコーは自己関係との関連でディスクール分析を徹底した人物でもある。
※僕の理論の主題も自己関係にある、自己関係が権力関係や国家幻想とどうして関連し、時間の秩序化と言語・イメージ・身体がそれらにどう連動しているのかを理論生産し続けている
そのフーコーのディスクールの秩序によると、ディスク-ルの問題は、その現実性が排除されることにあり近代の哲学諸々はディスクールの領域を排除してしまうという。
僕のニワカな入門書理解でその主張を解釈すると、フーコーは近代の否定神学構造が問題であり、それを克服することを考えていたと思われるのだが、
ディスクールの現実性の排除とは、ディスクールの作用が見えなくなることで、つまり主語主体がまずあって、その主体が言葉を話し、語らいをコントロールして、自身の意を伝えたり、創造したりするという誤認のため、ディスクールの側に主体がつど投げ入れられ動態構造の価値付けに規定されてる次元が見えなくなること、無意識の主体の効果が隠されてしまう事態を示すように思う。
さて、この記事はそもそも排除されたディスクールの現実性を剥きだしにするもの。
よって、この記事のディスクールの立ち位置が問題となる。
この記事は現実に支配化する倒錯的ディスクールの現実性についての論述でありメタディスクール。自己言及的なディスクールといえる。倒錯時代のエピステーメを論じたものといってもよい。
※エピステーメとはディスクール分析において、時代区分ごとに想定される、ある時代の諸科学諸々の表象体系に一貫して見出されうる法則性・全体性のことで、エピステーメの根拠への言及が近代以降の人文科学によりなされるとされる。近代のエピステーメは経験科学と演繹科学との断絶と自己言及とに起因するとされ、労働ー生命ー言語のフーコー三角形に連動する。おそらくはディスクールの水準において諸科学的言説一般に見出される各時代ごとの統一的思考体系の型のことだと思う
しかし、倒錯次元のディスクールからはこの記事の言説構造(内省)は排除の対象であって排除されることになる。
これは何もYouTube水準に限って排除されるということではない。
現代の人文学に蔓延る論理実証主義というディシプリン(学問教義)もまた、この記事のディスクールを排除する。
つまり倒錯者のディスクールは学問レベルでは論理実証主義・行動主義・主流派経済学・ダーウィニズムを絶対化するディシプリンでもある。現代において過剰な論理実証主義、行動主義が蔓延することと経済審級の支配化、ネットの普及、LGBTQA、、、の増殖は密接に連動しているわけだ。
このようなディスクールの現実性を排除して自身を内省するための欠如を埋め立てるディスクールが支配化した現在、この記事の内容は真理の外側、ディスクールの外側に排除される。
ともかくこれは戦いにも近い。自由とか公平とか対等な関係として万人と接する機会が永遠に喪失されようとしている。というより既にほとんど喪失しかかっている。
まるで中世に逆戻りしようとしていると思う。
個人の知能指数だとか、個人の遺伝子傾向がどうあれ、ディスクールの動態構造に主体が疎外されている以上、個々の思考はそのディスクールの制約を受ける。ディスクールの構造に思考も動機も依存しているということは、ディスクールの動態構造を高次元なものに転移してゆけば、人々の知性は上昇するということ。
もし内省によって、ディスクールの欠如を安定化できて、ディスクールの構造を止揚できたなら、人間の思考はその偏狭な制限を超えるし、思考することの動機も解放されることになる。
SNSの言説を観れば、ほとんど、どのようなポジションの人も実は同じ資本主義のディスクールにあり、本質的には変らない。繰り返すが、独断論と相対主義すらまったく同一の知の編制・動態構造にある。
つまり敵対相手と同質であり、それゆえ、敵対相手のアンチではなく敵対相手の増殖を促すディスクールを産出し続ける不毛を演じている。
この不毛を超えようじゃないかと僕は言い続けている。
あまりに馬鹿げているが、ディスクールの内側にいる限り、この構造が見えてこない。そしてディスクールから排除されてしまい、このブログでいくらこのことを指摘しても、まったく広まらない。
内省水準の言説はまったく金にならない。思考の知的水準を落として幼稚なことを言わないと金にならないばかりか賢い言説と見なされない。
およそ狂気、デタラメ、メチャクチャとしか言いようがない。
現代の賢さを絶対化し、知能指数を崇めるよく分からない頭脳信仰=ナルシシズムはイリイチでいう逆生産性を生み出している。賢さを絶対化し賢くなるためのツールで溢れた結果、動機が一様序列化して逆に知能が低下する悪循環。
誰もが賢さを求めることでかえって、健全な知の弁証法のための動機が消滅させられる矛盾。
世界は完全に正気を失っている。それは学問書をよく読む人にとっては自明である。
余談だが、一般的な構造主義は構造を静的・空間的にとらえるが、構造とは本来、動態であり時間性を持っている。動きとして捉えないとさっぱりその本質をつかむことができない。
終わりに
この記事は、これまでの自分の考えの延長線上にあるため、その説明をしようとすると、これまでに嫌というほど記事にしてきた内容を反復せざるえなくなる。
そのため、内容が被る部分は書くのが苦痛で分かりにくく、無意味に冗長な記事となってしまった。想定読者も定まらず説明レベルの設定も曖昧なまま書ききってしまった。
書きながら書くことを考えるスタイルが災い、記述が冗長になり無駄の多すぎる構成となったのが心残り。うまくすれば本来は、同じことを半分の文字数で伝えられると思う。
というより、過去記事のリンクだけはって最小限の要約を書いて、という構成を徹底すれば70%くらい文字数を節約できた気がする。構成を完全に間違えた。
4万5000字になってしまって、こんな長い記事読む奴いないだろ、となってストレスが溜まった。
簡単にまとめとくと、語られたことの真偽や語り手の意識的な目的・意図ではなく、それを語る行為(語られてあること・無意識)の意味であり視点を内省すること、それがこの分析の開く地平。
この内省構造が主体を転移し、身体関係、権力関係、国家にすら影響を与えるのだ。
このプラチックな動態構造の着想は山本哲士の本でえたフーコーのディスクール論およびラカンの疎外や象徴界といったゲーデル的構造主義を下敷きにユング派田中康裕の論理的生命論の共時的で経時的な論理構造の考えを参考にして構築したもので、木村敏や竹田青嗣の現象学理論もヒントにしている。
動態構造のポイントの一つは脱線形・脱主客二項対立における主客分離の止揚にある。
またラカンの無意識は言語のように構造化されているという分かりにくい話も、ディスクール的プラチックの次元を洞察できれば、驚くほど簡明かつ明瞭にして納得的に理解可能となる。
ディスクールの論理構造に内在する価値付けが無意識であり他者の欲望なのだということ、ここに存在態勢までもが関連してくる。この洞察を可能とするのが、動態構造主義の威力。
たとえるならメルカトル図法で赤道から離れると、最短距離は直線ではなくなるが、二次元で見る限り曲線が最短だということは理解できない。
これと同じでこの記事が読者に組み込む主体水準は、既存社会の低次元にある言説構造からは見えてこない上位次元において観測される言説のプラチック・無意識・未来なのだ。
さて、主体を絶対化したり逆に主体の原因として環境・自然淘汰圧を想定する主客単純分離モデル・ダーウィニズム・主流派経済学などによって隠されるものは現存在分析ではよく指摘される。
たとえばテレンバッハのレマネンツ(自身に遅れをとる時間性)・インクルデンツ(職場環境などの空間秩序への固執)。
これは鬱病者の秩序愛好性や自己自身への負い目を示す用語だが、この秩序愛好は主体ー環境二元論のダーウィニズムによっては記述不可能だ。
というのも、秩序愛好とは主体が既存の秩序的環境、たとえば職場などに自己の役割同一性を見出し、職場環境という秩序を愛好し、その秩序を強化・依存・保存するよう環境に働きかけることを示すから。
つまり環境秩序が主体の性質を決定するとともに主体が環境を保存するように環境秩序を再構成して循環する関係にある。ここでは創られたものが創るものを創るという相互循環的な因果性が作動してるのだ。
というわけで、アポステリオリなダーウィニズム的線形認識を可能とするアプリオリな条件の構造をなすディスクールの論理水準の洞察を可能とするのが、動態構造分析としてのディスクール的プラチック分析になる。
※フーコーのディスクール的プラチックと動態構造論のそれはおそらく少し異なる
ともあれ制度論と制象論、一般制度表象と現実制度の違いも区別できない国会議員しか日本にはいなかったりするが、いまこの国の舵取りをしているエリート官僚、有権者、政治家、資本家の全員が社会によりよく適応し生きようとした結果において白痴化してしまう構造は凄く危ないと思う。
ところで最近、YouTubeで人気のフーコー解説動画を観て驚愕した。
その動画、終った解説をしているからこそコメント欄は大絶賛。
ようするにネットでは秒で理解できる回答を乱発して大衆の問いを埋め立て思考停止を加速すると金がもらえる。このようなふざけた言説構造に順応すれば必然、人間はバカになる。動態構造分析だなんだと持ち出すまでもなく、まともな感性で現状の情報化社会を概観してみれば、誰にもこのことは分かるだろう。
さらに倒錯の動態構造によって人文知が客体=知識と混同される。しかし人文知とは客体ではなく、客体を在らしめるところの主体が客体的なテキストに変換されたもの。世界を体系化するところの、体系化された体系、といってもよい。
学問は生きている。
ググって出てくる知識・外在的ツール・便利グッズとして解説するのは違う。しかしプラクシスのYouTube空間では哲学を便利グッズとして解説するものが多い。
とくにフーコーを役立つ知識として解説するなど舐めすぎだろう。むしろフーコーは役立つ知識として解説を語る動画言説のそのプラチックの次元を洞察することにおいて、役立つという自明視された動画の同一性の背後にある非連続性を暴露し、動画をその諸可能性に開くことで自由プラチックを実現することを旨とする。
思想・哲学は問いを埋め立てる外在的な答えではない。思想・哲学で問われるのは自己でしかなく、ゆえに思想・哲学は問い自身の運動に他ならない。問いに答えうるのは問い自身のみ。この根源的問いがデプラスマンされて学説が深まり分野横断が、問いの自発性において勝手に生じる。
付録:ヘーゲル弁証法を超えて
さて最近、古典主義系の大学人で美学者の哲学の解説動画を観た。
なんというか、ロジックが甘く、人文学の本質を取りこぼしているように見えた。
ヘーゲルがあまりに単純に批判され、ハイデガーとナチズムの関連の洞察も僕の読書1~2年目の説よりずっと低い水準。
ヘーゲルをプラクシスな進歩主義一辺倒で語り、弁証法さえ、その浅い理解で退け、よくいる古典主義者お馴染みの論法、排中律からの帰謬論コンボで近代をくさして安直に古代を称揚するいつものパターン。
まずヘーゲルの弁証法は自己関係のことをいっていて、これは‘’プラクシスな進歩主義‘’ではない。そのメタレベルの言説。
こういう点に無理解なまま、世俗的なヘーゲルの近代肯定の印象に呑まれて、その理論の根っこも読めていないと思う。
そもそもヘーゲルの理論はカントの線形思考・主客素朴分離から取り出されたアンチノミーや物自体を解体しうるメタ論理学・弁証法の水準にある。
近代が生じる誤認を理解しないものはしばしば、安直なヘーゲル批判の水準にとどまることになるのだ。
もちろんヘーゲルの全てが良いわけはないが、そもそもヘーゲル哲学は教条主義的なものではない。
そこで、最後におまけでヘーゲルの問題にけりをつけたい。ここで僕が思うヘーゲル最大の欠点を処理したい。
ヘーゲル弁証法におけるあらゆる無意味の意味への還元と意味・理性の勝利のニュアンスには問題があるのかもしれない。つまり意味外を意味化においてしかとらえない姿勢は欠点かもしれない。
ヘーゲルでは意味外の全ては言語的意味化を強要される。つまり身体の問題が消え去ってしまう。
さて、弁証法とは存在論的差異を差異自身が差異において同一することであり、その差異・主体は言語的意味の外部にある。といって主体の無意味は欠如とか不可能なものと呼ばれる不気味な不安の穴ではない。そのような欠如としての無意味はプラクシスな主語制言語の見せる幻影。象徴界相関的に観ると穴になるだけ。
そうではなくラカンがララングと呼んだもの。言葉がもつ身体性としての無意味の享楽がある。
それは意味の充溢。
この身体性の享楽、言語と身体をつなぐララング・いろは歌・古典落語の位相を通じてこそ、翻ってヘーゲル弁証法は成立すると思う。
つまり、ヘーゲル哲学における、意味外を意味の地平からしか記述し得ない弁証法の記述こそは、カントの物自体の亡霊を呼び覚ます、無意識(動態構造)の欲望を生じるのではなかろうか。
要するに、差異の同一を見抜く点でその弁証法は主語制の誤認を克服するが、他方、全てを理性的意味に還元する態度や無意味を理性・意味の側からしかとらえないパースペクティブは、意味の外部を消し去り、意味の欠如と埋め立てをなす欲望を惹起するだろう。
その弁証法の記述の内部に当の弁証法を解体する無意識の欲望があるということ。ここにヘーゲルの盲点がある。
※60年代ラカンの女の式からも自明なことだが、ながらく僕が国家の素朴肯定にあったため気づくのが遅れた
ヘーゲル弁証法を保持しつつ、意味外のララングと身体性、つまり充溢であり可能なものとしての、光の肌触りとしての無意味即意味充足の域を担保する必要があろう。
ヘーゲル弁証法を生かすところの非ヘーゲル的弁証法・非分離系の次元があるということ。
ところで、近代民主制国家をたてれば素朴なヘーゲル批判はまず不可能だろう。
しかし、ネオリベ化の問題が社会空間化との関連で近代国家編制そのものの内に見えてきたことで、それまで自分の言説構造の影に隠されてしまっていたヘーゲルの問題が明らかとなった。
※いままでの僕はヘーゲル弁証法をほぼ完全に素朴肯定するのみに留まっていた
とくに動態構造論を生産したことで、それまで暗黙知的に直観されるに留まっていた言説がもつパースペクティブが価値付けを内在すること、が明瞭となり、それによって、意味・理性の地平のみからの無意味記述が、真理主義を惹起しうる問題が可視化された。
これは自己の生産する言説がそれを語るたびに隠してしまう域が言説の自己運動にともなって明らかとなったことで可能となったといえる。
今度こそ自分のなかでヘーゲル弁証法問題に一定のけりが付いたと思いたい。
ともあれ、僕の動態構造論の地平に開かれた読者は、その言説をまったく新しい水準にデプラスマン可能となる。テキストの読み方、話の聞き方、世界の見え方、時間の流れ方が根本的に変るだろう。
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