どうも!うたまるです。
こんかいは空気を読む日本人について心理学的な視点で考察してゆきます。エアーマンが倒せない日本人の問題点をここでは明らかにしようと思います。
マニュアル社会と日本社会
最初に日本の空気を語るまえに、マニュアル社会について取り上げます。というのも空気とマニュアルは密接に関わるからです。
現代社会というのはマニュアル化されており、大手の飲食店ではとくにその傾向があります。
むかしは、接客などにはマニュアルなどなく人々が主体的に考え、そのつど自分の頭で判断して対応していましたが、時代がすすみ自動化や効率化が普及すると人間そのものも家畜のようにマニュアル化され管理されるようになりました。
このようなマニュアル化の結果、人々は何も考えなくなります。マニュアル通りに行動し自分の頭で考えなくなるわけです。
こうしていつしか意志決定の主体は人からマニュアルへと変化。
主体のマニュアル化と同じものに、権威主義があります。
権威主義とは、東大生や東大卒を天才と信仰し肩書き(権威)のみで人を判断するスタイル。
たとえば東大生のいうことだから正しいと判断するようになると、それはもう自分で判断していないわけです。そして東大生本人も自分では判断しなくなります。
つまり「僕は東大生だから正しいのだ!」となる可能性も。こうなるととうの東大生(権威者)にすら主体はありません。
主体は東大の名簿リスト=記録媒体に変貌を遂げます。ブラックリストや学歴証明書、弁護士資格など現代において主体は人間ではなく、紙切れなどの記録媒体の側にあるといえるでしょう。
現代の主体のありかと聖書の共通点
自分の代わりにマニュアルやリストなど記録媒体が代わりに考え意志決定するのが現代であるとすると、中世のキリスト教と似ていることがわかります。
中世のヨーロッパでは聖書こそが主体、すべての人間は聖書という記録媒体にひれ伏していました。
たとえばガリレオガリレイは地動説という聖書に反することを考えたために処罰、軟禁されてしまったわけです。
なにが正しいか理屈をいっても無駄で聖書に書いてあることに迎合させられる時代。
またガガーリンが地球は丸かったと言っても聖書を信じる人にとって地球は平らなままです。まったく訂正可能性がありません。
このようなあり方は戦前から現代に至る日本にそっくり。けっして自分の頭で判断せず聖書として主体とかした紙切れの記述を盲信し、その記述に逆らうことは許されません。
記録媒体の主体は空気の主体
ところでマニュアルなどの記録媒体が主体であるというとき、その主体は誰の主体かが問題になります。
じつは誰の主体でもありません。特定個人の主体ではないのです。
つまり日本人の大好きな空気や同調圧力といった全体の雰囲気を代表するのが記録媒体や権威。
そして日本人は空気にさからう人間には容赦しません。出る杭がうたれるのもそのため。
出る杭というのは空気から出る杭であることが多いです。たとえば東大でない人が東大より優秀な結果を出すことが許されないというような場合もあるようです。
Winnyのプログラマーで知られる金子勇が不当に検察に起訴されたのも彼の優秀さが空気を出てしまったからかもしれません。
空気社会の末路:マニュアル社会と無責任社会
マニュアル社会には当事者に責任がありません。なにせ主体はマニュアルの側にあるからです。しいていえばマニュアルが責任者ということになるでしょう。
みなさんは「北陸トンネル火災事故」をご存じでしょうか?
1972年に起きた事件で列車が北陸トンネルを走行中、火災が生じ規則通りに即時停車、もちろん長いトンネルの中で停車すれば消火も救助も困難であり、停車が殺人的行為なのはあきらかです。
しかしマニュアルこそが主体であるため、これに逆らうことはできません。結果乗客29人が亡くなりました。
じつは3年前の1969年にも同じトンネル内で列車の火災事故がありましたが、そのときは乗務員の独自判断でトンネルの出口まで移動して停車したため被害はでませんでした。
しかし規則違反ということでこの乗務員は処罰されたという話もあります。
誰が何人死んでも、マニュアルの問題であれば、罪悪感もありません。自分は関係ないのでいくら殺しても平気です。
梅沢富美男とハンバーガー
みなさんは梅沢富美男が某ハンバーガーチェーンで、差し入れのためハンバーガーを40個注文したら、店員に店内で食べるかお持ち帰りかを聞かれ、40個も食うわけねぇだろ!とキレた事件をご存じでしょうか?
この事件、ネットでは梅沢氏をクレーマー認定する声が圧倒的多数。
しかし、梅沢富美男は良い人だと考えられます。
世間では、彼はクレーマーだと批判されているようですが、そんなことはない。
マニュアルに操られた店員をロボット扱いせず、自分の頭で考える一人の主体として接したからこそ梅沢富美男はキレました。
であるならば、それは梅沢富美男が店員を一人の人間として欲望したということになるはず。
その意味で梅沢の怒りは、これまでロボットとして殺されてきた店員の魂の解放といえるのではないでしょうか?
このように考えると近頃のバイトテロにも合点がいきます。
つまりバイトテロリストはマニュアルに支配され、なんの主体性も認められず、ゆえに責任感をもつことが許されていないのです。
このような状態では職務に責任感はなく、ふざけた行為に及ぶのも心理学的には避けられないでしょう。
もしバイトテロをなくすなら、主体をマニュアルやリストなどの記録用紙ではなく個々の労働者に返すべきです。
主体性を発揮する隙をあたえずマニュアルで管理し、人間をロボット扱いする社会に対して行き場を喪った衝動が暴走した結果がバイトテロのように思えてなりません。
梅沢富美男と精神分析
じつは梅沢富美男の店員への怒りを精神分析では「父の否」と呼びます。
父の否とはマニュアル(母)からの命令に満足する店員(子ども)をマニュアルから引き剥がし、マニュアルを超えて成すべき職責を主体的に考えるようになるための父の説教のことを言います。
この父の否によって人は言語的規範に支配された社会の中に主体として生まれてくることができると精神分析(ラカン派)では考えます。
空気と日本の歴史
日本では明治において西洋から近代国家という観念が輸入され、その近代的な国家観が今の日本の基礎となります。
そして、近代国家とは、自らの頭で考え空気にも逆らえる個人(近代主体)の存在を前提します。
つまり、思考停止してお上(空気)に従ってきた江戸時代のような中世的あり方では、民主主義という国民自身が国民を統治する自己統治は成り立たちません。
そこで日本ではいかにして空気から自律した個人を立ち上げるかが歴史的に課題とされてきました。たとえば夏目漱石の文学は西洋的な近代主体と日本的な空気主体との葛藤が巧みに描写されています。
主体性があることが偉いわけではないですが、近代民主主義を営むうえで、マニュアルや空気に迎合する大衆の存在は非常に危険。
たとえば歴史的にはナチスは空気をうまく醸成することで独裁を実現した政党です。空気になびいて権威主義を賛美すれば民主主義はたちまちナチのような衆愚政治に陥ります。
日本人の歩みと空気
じつは日本では対人恐怖症と呼ばれる神経症が文化依存症候群(国民病)となっていた時期があるのはご存じでしょうか?
ちょうど戦後から10年かそこらしたあたりから、21世紀末頃までは対人恐怖症が日本でのみ爆発的に流行。
じつはこの対人恐怖症こそが近代主体(個)の萌芽であると心理学の世界では考えられています。
対人恐怖症というのは地域社会のしがらみを超えて個を主張しようとすることでおきる心的な葛藤によって生じるものです。
つまり地域社会の空気をぶち破ろうとすることで生じる神経症です。
そのため、対人恐怖症では、となり近所などの中間共同体の構成員に対して見られているなどの被害妄想や恐怖を感じることがあります。
ところが21世紀を過ぎると神経症水準での対人恐怖症ほぼ消滅、かわりに発達障害や非定型発達が激増。2023年現在は非定型発達が主流となり定型発達者(神経症水準)は日本からはほぼ消滅したという学説もあります。
つまり明治に黒船などの外圧により近代化を迫られた日本人は、近代的な主体の立ち上げという課題とこれまでの中世的な没主体(空気迎合)とのあり方で揺れつづけてきた歴史があるわけです。
そして敗戦を通じてアメリカに習い、さらなる近代主体の立ち上げが迫られた結果、ついに戦後には対人恐怖症という近代主体の萌芽に到達。ところが今世紀になると社会のマニュアル化もあいまって急速に近代主体は解体し中世のレベルに逆戻り、という経緯をたどっています。
空気や権威、ないしはその記録物(リスト、マニュアル)を主体化することが常態化した現代では、空気の威力は高まっています。
現代では地域のしがらみなどはなくなりましたが、権威主義は昔より強くなった印象は否めません。
高知能集団であるメンサがもてはやされ、メンサになろうとする日本人が急増しているのもそのため。空気であり権威であるメンサの名簿に自己を優れた人間として刻むことに夢中のようです。
人気のテレビドラマである「水戸黄門」では印籠のマーク(紋所)をかざすと万人がひれ伏しますが、現代日本人はまさにそのような状態でしょう。
メンサの権威化についていえるのは、もし知能テストを受けねば知能の高さをまったく示せないというなら、知能テストでハイスコアが出せることに何の価値があるのか、まったく分からないということです。
トクホマークやモンドセレクションやメンサの肩書きが商品や人の善し悪しを自分の代わりに決定してくれるのは確かに楽かもしれませんが、民主主義はそれでは機能しなくなります。
父親の不在と空気
日本は昔から母性原理だと言われ、日本神話に出てくる天皇の祖先であるアマテラスも女神になります。そんな母性原理ゆえに日本人は個を主張することができないという説もあります。
いずれにせよ日本は父なる神を唯一絶対とあがめる西洋キリスト教とは全くことなる宗教観です。
さきほど梅沢富美男について、彼は父の否だといいましたが、梅沢氏は日本人の主体を空気(母)から自律させるための父といえるかもしれません。
日本人の主体の薄さは心理学的には、母性の強さと父性の弱さにあると考えることもできます。
マニュアルやリストから主体を引き剥がし個を促す梅沢富美男のような父が現代にはいません。
空気の消滅、空気の明文化
じつは、昨今の日本人は察しが悪くなっていると臨床心理学の世界では言われています。現代人は察する能力なし。
したがってある意味では空気を察する力が弱くなっているのです。空気が読めなくなってきたといってもいいです。
そんな読みにくい空気(権威)をはっきりさせるため、メンサや東大などの肩書きやリストなどの目に見える文字によって空気を可視化せねばならなくなってきたのかもしれません。
いずれにせよ中世日本にはあった察しはなくなり、現代では空気は明文化される傾向にあるようです。SNSでのアンケートなどは空気の見える化の典型かもしれません。
世界の行く末
消費社会によってマニュアル化し人の主体性が損なわれつつあるのが現代、それに対して「マトリックス」などの映画は警鐘をならしているようです。
消費社会においては、つぎに自分がどんな映画をみて、なにを買うかまでAmazonなどのオススメ機能などによって予言を与えられます。
まるで、古代ギリシャの神託のようにネットはぼくたちにつねに神託(おすすめ)を与えてきます。
もはや次に何をするかさえ、ぼくたちの代わりにネットという記録媒体(情報端末)が考える時代。
消費社会においては人間に主体があっては困るのです。
いちいち自分の頭で考えられると、ジャンクフード漬けにできなくなるので利益至上主義の企業としては困ります。
なにも考えず、システムの奴隷として商品を自動消費してくれるロボットこそが資本主義にとっての理想の消費者像。
生産者もマニュアル化したロボットなら、消費者もロボットであり主体は記録媒体(情報端末やリスト)の側にあるべき、というのが現代の資本主義の結論。
もし民主主義を充実させるなら、ぼくたちは空気を脱却し個としての主体を立ち上げなければなりません。しかし、消費社会で経済的恩恵に与ることを考えば、自分の頭で考える主体など無用の長物なのかもしれません。
まとめ
- マニュアルは空気の主体である
- 人の代わりにマニュアルやリスト、空気が考える
- 権威者にすら主体はなく権威の記録媒体こそが主体である
- マニュアルなどの記録媒体は空気を代表する主体である
- 梅沢富美男のクレームは優しい
- 日本人は歴史的に主体がない
- マニュアルや権威のリストは聖書と同じ
- 戦後に空気をやぶる主体が生まれかけるもなくなった
- 察する力がなくなり空気が明文化している
- 民主主義には主体が必要
- ネットという記録端末が人に次に何を消費すべきか予言をあたえる
- 消費社会では消費者には主体がない
- 資本主義では主体がない方が有利
今回は以上です。
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