※この記事には一般論に基づきつつ専門知識をつかった独自の考察も含まれます
うたまるです。
日米のお笑いの差といえば、茂木健一郎が「日本のお笑い芸人たちは、上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無。後者が支配する地上波テレビはオワコン」といったのは記憶に新しいだろう。
彼は日本のお笑いを槍玉にアメリカのスタンドアップコメディがもつ権力批判や社会批評といった批評性を賛美し、日本の笑いが権力に阿諛追従する様を否定したようだ。
これについてM1審査員の立川志らくは「m1の漫才にしたって、ランジャタイやトムブラウンのようなぶっ飛んだ、イリュージョン系の笑いを若い子がウケている凄さ。彼らの笑いは落語の本質なのです。なんだかわからないけど、まるで夢のような、意味不明だが、そのフレーズだからこそ面白い、それが落語の本来の面白さ。」といい『落語(日本の笑い)はイリュージョン』だと反論した。
さて、さらに商業作家の百田尚樹は、茂木のお笑い感と真逆とも思える発言をしている。彼は中田敦彦が松本人志審査員によるお笑いショーレースの松本化に対して批判を展開するなか、中田が「自分の笑いはドストエフスキーやチャイコフスキーと同じで知性のない人には笑えない」といったことをとりあげ、これを酷評。知的な笑いは小笑いが限界で価値が低いという。
百田の弁舌を要約すれば高尚な批評性を持つ笑いやウィットに富んだ気の利いた笑いはレベルが低く、馬鹿馬鹿しい万人が笑える笑いこそが大笑いできる、笑いも文学もその価値は売り上げであり面白さのみできまる!という具合。
笑いに権力批判だとか内省を強いるような社会性・批評性は必要なく笑いのでかさだけが価値だ、というのが百田の主張だ。しかもそれを文学の価値にまで敷衍し面白さだけを追求した自分の本こそが売り上げがでかいから偉いんだ!と言わんばかり。百田曰く百田文学はドストエフスキーを超越しているとか。
というわけで、この記事では、お笑いに関するこれら言説を総括し、日米の笑いのもっとも本質的な差異を徹底的に明らかにしたい。
日本のお笑いが何かを徹底分析してゆこう。
日本のお笑いとスタンドアップコメディの基礎
分析に入る前にお笑いの基礎常識をおさらいしよう。
日本のお笑い入門
日本の笑いでは政治批評や社会批評はない。たとえば政治批評をしたウーマンラッシュアワーは大炎上、お笑い芸人のくせに生こくな!という罵声を浴びた。
もっとも腕が足りないから、政治批評の笑いが滑っただけで腕があれば日本でも政治批評の笑いはできる、という見方はできるが、そのハードルは欧米に比して極めて高い。
日本では老若男女笑える毒にも薬にもならないマイルドな内容の笑い、ナンセンスでくだらない馬鹿馬鹿しい笑いを愛でる傾向が強い。百田のお笑い論もこの日本のお笑い意識による。
また日本では総務省とテレビ局が癒着しているため、電波オークション制もなく公共の電波を大手メディアに不当に独占、5局程度しかチャンネルがない。それゆえ、みんなが同じ番組を見て育つ土壌がある。
※ネット世代はTVを見なくなっているのでこの構造は瓦解しつつあるだろう
そんな日本のTVによる情報統制は強力で、日本のお笑いジャンル、あるあるネタのあるあるは容易に日本人全員に該当する、このため国民全員を笑わせる笑いに価値がおかれる。
また権威への批判がないのは日本の政治がお上主導であることを示すだろう。制度的民主主義が日本では徹底していて、精神的には日本は封建主義ととらえるのが心理学的には妥当だ。
なお日本が精神的にも独立した民主主義だというネット右翼界隈の言説はルソーもホッブスもヘーゲルもデカルトもカントも知らない、近代市民社会の成立過程も設計思想も理解せぬ無知に起因すると考えることもできる。
日本では公共(公権力)と私(個人)は弁証法的な対立関係を構成するには至らず、それゆえ日式お笑いは批評性によって社会や政治の価値一般を転覆する職能をもたない。
この日本人の主体意識(権力批評意識)のなさを歴史から確認しよう。
古代ローマでは皇帝の悪口を言ったり落書きしても、それに対して気の利いたジョークで返すのが王の器量だった。欧米における権力批判とお笑いの関係も遡れば古代ギリシャやローマに起源がある。
しかし日本の近世では、幕府の悪口など落書きしたら即死刑。それどころか平民は大名行列を横切っただけで、発狂してその場で惨殺だ。
また大正デモクラシーを経て誕生した昭和の軍事独裁政権にあった戦中、軍の幹部は徴兵した国民を消耗品と語り場当たり的思いつきの軍事命令を乱発、百万人を超える自国兵士の死体を肴に、自分たちは大和ホテルで贅沢三昧という話もある。下層国民には人権も人格も想定されていなかったのは多くの歴史的資料により実証されている。
これをお上の暴走とか権力の暴走と観るのは間違いで下層国民そのものが大正デモクラシーを経て要請しつくりあげた権力(お上)が昭和全体主義の軍部だ。この構図はナチスの成立過程にも重なるが独裁権力は権威主義の田吾作によって下から要請されて生じる。
このようなお上に従え、権威におもねろ、政治はお上がやるもの、お上にたてつく奴は殺害!という国民意識は現代日本においても根強いと考えることもできる。日本の戦後民主制度も米国権威からの命令に迎合して模倣したものに過ぎないということ。こうした公私未分の権力関係が日本のお笑いの批評精神のなさ、ひいては中世的な先輩後輩の上下関係を絶対化するお笑い業界の田吾作体質に通じる。
この点について不満を述べたのが茂木健一郎だ。しかし皮肉にも茂木はニホンジンにありがちな欧米権威主義一辺倒の視点から日本の笑いの公私混同した権力迎合構造を批判している。ミイラ取りがミイラなのだ。
さて、志らくは日本の伝統的笑いの本分を社会批評性にでなくイリュージョンに見出したのだった。
じつは志らくの笑い論は僕が知る限りもっとも高度な日本のお笑い洞察だといえる。日本の笑いがイリュージョンにあるとは日本の笑いはオノマトペ的な非分離技術にあるということ。
これは、表意文字的といいかえてもよいだろう。
日本の笑いはナンセンスというより精神分析的な意味で無意味(S1)なのだ。ここでいう意味とは言語化であり言語化された意味(S2)を示す。
対する無意味は言語を超えた言語外の過剰な意味を示す。たとえば音楽が分かりやすい。マイナーコードの曲を聴けば悲しい気持ちとなりメジャーコードの曲を聴けば明るい気持ちとなる。
曲は音像それ自体が直接にその固有の情感を言葉を超えて人に伝える。つまり言語的な意味を超えた情感の直接的な喚起と伝達がある。このような言外の共通感覚としての情感(無意味)を言葉(意味)を介して伝えること、ここに日本の笑いの本分、イリュージョンがある。
つまり日本の笑いは俳句や短歌にも近い。
「古池や蛙飛び込む水の音」この一句を日本人で知らぬものはいまい。この句は他言語に翻訳不可能。
この句が示すのは観察者が観察する客体風景の物理的レポートではない。これを英語に訳せば、物理学的な客体のレポートとなり、蛙一体の古池における情緒というものが消し飛んでしまう。
客観的対象を日本語では物と呼ぶが、この物の表現を介してコトを表現する、これが日本語がコトの葉と呼ばれるゆえん。日本のお笑いのあり方は日本語が主語をもたぬ述語制言語にあることの帰結。言葉は対象を対象として定め、それを物として表象する名詞を含む物の表現となるが、その物の表現を介して、つまり蛙が古池の水に飛び込むという物の描写を介して、そこに共通感覚としての直接的な風情を喚起する、これが日本語であり俳句の神髄だ。
そしてこのような日本語という物表現をつかって、その背後にある意味を超えたコトを露呈し、万人が笑える笑いを構成すること。これが日本の笑いのイリュージョンの概要だ。それゆえ日本ではリズムネタなどの言語外の知覚の直接性に訴えるものも多くなる。このような言語を語るさいの言語外の直接の疎通意識、言語のもつ意味外のリズムや抑揚がつたえる疎通感覚のことを精神分析ではララング(S1)とよぶ。
※補足:アベシとかアッチョンブリケといった漫画の有名な無意味的言表(共通感覚的意味)も擬態語の一種でララング・イリュージョンに相当するだろう。擬態語はアリストテレスの共通感覚論から理論的に原理を説明できる。たとえば鋭角の図形と丸っこい図形を見せて、一方にギザ、他方にマルマと名付けさせるアンケートをどの言語圏の人にやってもギザを鋭角の図形にマルマを丸っこい図形に名付ける傾向が強いことが統計的に実証されている。これは聴覚情報と視覚情報が五感に対する感覚である共通感覚的な意味の領域で統合され、かつその統合規則に人類普遍のパターンがあることを示す。人間の意味世界と主体が五感によって炸裂しないのはメタ感覚である共通感覚のおかげ。擬態語は民族レベルの共通感覚のパターンの普遍性を利用したものでオノマトペの多い日本人はメタ感覚の民族的パターンの普遍性が高い
だから日本の笑いの本質はララングにある。
とりわけ落語などのイリュージョンでは物の伝達は目的ではなく、物の言語表現としての語りを介して、コトであり無意味の直接性をむき出しにし、それを伝えることが目指されているふしがあるだろう。
この項目は基礎紹介なのでこのくらいにとどめよう。後の本格的分析では日本の現代お笑いの代表格であるトムブラウンを引き合いにだしモダンアートのダリと照応させ、シュールレアリスムという観点からも日本の笑いを分析してゆく。
欧米の笑いスタンドアップコメディの基礎
欧米の笑いといえば、スタンドアップコメディ。
日本の漫才ではボケとツッコミに分かれ、予め練り上げた台本を覚え、型としての笑いを反復練習によって仕上げて披露するスタイルが主流だが、欧米の笑いはライブ感を重視し、観客との対話をベースとする。観客をいじるのも当たり前。
※日本の伝統は易行と型にあるとされ、漫才の型はそのあり方に通じる
そのためフリートークの形式が基本でコメディアンはアドリブありきで一人で語り続ける。
ネタは過激で下ネタもありだし、ときに政治批判や人種差別的な内容もぶっこむ。そのため社会批評性が高く、権力者批判も当たり前。
※日本で芸人が権力者を笑いものにしたら大変な集団リンチを受けることになるだろう
そもそもお笑いは欧米では権力を笑うことにある。ようするに既存の権威的な価値や為政者のあり方について、少し変った角度からそれをとらえて、その隠された意味を暴く、ということにスタンドアップコメディの命脈がある。
だから、言われてみればその通りだというような気づきや学びがお笑いのベースとなる。
このような社会的機能ゆえ、欧米では万人が笑える毒にも薬にもならないナンセンスな笑いは子ども欺しと見なされ蔑みの対象にもなる。つまり百田の騒ぐ馬鹿馬鹿しくて面白い笑いは、欧米では何の価値も見出されていない。
それよりも知的でウィットに富む笑いが評価されるし、笑いには社会批評性が求められる。
また多民族国家のアメリカでは特定の人種や文化にグッと入り込んだコアな笑いこそが価値あるものとされる。万人受け主義の日本とは対極にあるといえよう。
そこでは言語の持つ意味が重視され、コメディアンの言葉は具体的に社会のあり方や現状を意味付ける分析の言葉として大衆に響き、その社会や権力への意味付けであり解釈が、大衆の心にささったとき爆笑を生むという構造にある。
後の議論に先んじていえばこの意味付け構造を精神分析では父性隠喩と呼ぶ。日本をララングの笑いとすればスタンドアップコメディは父性隠喩のお笑いなのだ。
そんな米国の笑いでは自虐ネタも日本とは根本的に異なる。米国では黒人コメディアンが黒人の観客に向けて黒人を二○ーと呼び、二○ーをバカにするあるあるネタ系?の笑いも普通でその内容は日本では考えられないほどどぎつい。
対する日本の自虐ネタならヒロシが有名だが彼は自分個人を自虐するのみで自己が所属する組織や民族カテゴリーを自虐することはない。
ここで日本人のあり方を確認することで逆照射的にスタントアップコメディの自虐構造を確認してみよう。
日本人はウチの会社は大企業だ!とかウチの大学は東京大学だ!というような組織やカテゴリーへの所属が自己の尊厳と価値を保証する。ようするにイギリス王室にも一目置かれるあの天皇を頂点とする日本の国民なんだぞ!ウチの天皇が偉いから、そのセキシのウチも偉いんだ!というのが日本の愛国心。
また一人称のウチとは私という個人を指すと同時に私が所属する集団も指していて、私と公(集団)とがごっちゃのハチャメチャな言語だ。この公私一体のウチ的構造が負の日本文化の一つ、公私混同の源泉となる。そのため日本の笑いでは自虐ネタは、お上に相当する集団(公)には向かわない。
滅私奉公というように私は公のために滅するもので私の自虐はいくらでもできるが、ある意味で自己の本体である自己が所属する公の自虐・批評など許されない。
そのため田吾作タイプの日本人は自分でなく、身内の自慢をして関係ない自分(ウチ)の虚栄心を満たす。
対する欧米では自虐ネタといえば自らの所属する集団やカテゴリーに向かう。たとえばオタクのコメディアンがいたとしたらオタクコミュニティの中に入って、オタクってさ、~でキモいよな!とかいって笑いをとるわけだ。日本でこんなことしたら確実にリンチ。だから自己のアイデンティティの根拠であるカテゴリーや所属組織への内省(批評・リフレクション)をベースとするのが欧米の自虐ネタの基本構造となる。これは欧米人の公私が分離していることで生じる。欧米の自虐ネタは内省であり、自らが自己の所属するカテゴリーや組織権威(公)に対して距離をおいて、そのあり方を主体的に定めるあり方を示す。
また自虐ネタに限らず社会性を重視する米国のお笑いでは、特定のカテゴリーにツッコミを入れる構造がある。この場合、観客にはそのカテゴリーに属す人もいるわけで、その観客が笑うとき公からの分離として内省を迫られるといえる。自己が所属する公でありカテゴリーに対して主体的に参与できる民主では、公やカテゴリーの欠点であり欠如を見抜かねばならないということ。
※スタンドアップコメディは公に私が主体的に参与するための欠如・欠点をつくりだす、この欠如が笑いを生じてゆく、これを父性隠喩と呼ぶ
批評性における公私関係の日米の構造差もまた言語的差異に還元できる。公から分離した個人主体としての主語(I)を立ち上げる英語的主語は、内省的な自虐やカテゴリー批評を公と私の力関係のなかで実現する作用を原理的に内在するといってよい。
逆に日本の笑いが提供する公私の自己関係であり内なる自他関係は、欧米的な分離の弁証法関係をもっていない。公私は未分化で、ひたすら公に帰依し公からの私の独立と分離を否定する心性にある。
さて、欧米は下ネタに関してもハードだが、これについては、テッドとかソーセージパーティーといった映画を見ればよく分かると思う。ソーセージパーティが下ネタ全開なのに高度な社会批評をやったりするのを観ると欧米の笑いのあり方がよく分かるだろう。
※ソーセージパーティーの社会批評性についてはこちら『ソーセージパーティーの解説』を参照
日本人がソーセージパーティーを観てもただのおバカな下ネタ映画としか理解できない理由も根底にあるお笑いの文化的差異による。よくも悪くも日本人の文化に対する受容は幼稚だ。
まとめると、欧米の笑いは民主主義的な公私の分離関係を内在する。公権力について内省し、個人主体が主体的・民主的にそのあるべきを問うのが欧米のお笑い。そのお笑いは父性隠喩として公私の分離を基礎づける役割を担い市民社会の根幹的役割をおう。
本質は自己内省として社会権力を批評し自己の批判によってこそ自己を肯定的に振り返ること。このあり方が自虐ネタや社会批評をリフレクションとして生じさせる。
日米の笑いの違いまとめ
大事なポイント
日本では公私が癒着した民主制封建主義のため公・お上に対してコメディアンが批評すると処刑される。公は完全無欠であり、完璧な存在であるため私はお上に奴隷にように隷属するしかない。それゆえ自虐ネタも批判もカテゴリーでなく私としての個人に向かう。
欧米では公私が分離した民主制民主主義のため公私は分離する。そのためお笑いは権力批判やカテゴリー批評を形成する。私のアイデンティティとなる公カテゴリーのバカにして笑うスタンドアップコメディはこれによって公が不完全で欠如をもつことを露呈する。この公の不完全性であり欠如を個々人が意識することで、公の正しいあり方について私が主体的に考える心理学的民主化を実現する。
日本の笑い
言語的意味の外部の共通感覚、ララングやオノマトペとしての笑いが優位で、お笑いの言葉は言語的意味の外にある無意味(過剰な意味)を目指して語られる
型が優先され漫才などボケとツッコミという型がある
公私非分離ゆえ、お上への批判は許されない
内省がなく自虐ネタは個人の自己否定に限られる
日本人の一人称がウチであることと自虐ネタが所属組織に向かわないことが連関する
あるあるネタが国民全員に通じる
エロ、グロ、過激ネタ、社会批評はNG
万人受けナンセンスが重視される
アメリカのスタンドアップコメディ
言語による意味付けの笑い。言語的意味が問われる父性隠喩の笑い
型がなくライブ感のあるフリートークで観客をいじって客と対話する
公私分離にあるため権力批判が多く民主的
自虐ネタは内省を強いるものが多く自己のアイデンティティを支える所属組織や所属カテゴリーにむかう
一人称代名詞はIしかなく、このIの屹立のために要請される権力への弁証法的否定構造が自虐ネタのあり方を規定している
多民族国家ゆえあるあるネタは特定のカテゴリーの人にしか通じない
エロ、グロ、過激ネタ、社会批評あってこそのコメディ
万人受けする馬鹿馬鹿しいナンセンスな笑いは蔑まれ批評性や知性が求められる
トムブラウンとダリ
日本のお笑いの最先端はトムブラウンにある。
トムブラウンのお笑いの概要
僕はトムブラウンが好きなのだが、彼らのネタを知らない人もいるだろうから簡単にここに要約する。
サザエさんの中島くんがいるが中島くんを5人集めて合成し、最強の中島くんナカジマックスをつくりたいという。
困難な仕事になるがなんとしてもナカジマックスをつくるという。
ナカジマックスの素材として中島くんを5人紹介するがその内訳は中島くん×4と中島みゆき。
この5人を合成してできたのがツバメよ~と歌う中島みゆき。
このミスを修正するために中島みゆき、倖田來未、アユ、前田敦子、西野カナの五人を合成。
しかし中島みゆきのアクが強すぎてできたのは中島みゆき。
この強烈な個性を中和するため、キムタクを投入。
ちょ待てよを中島みゆきの曲のメロディで連呼する存在ができあがる。中島タクヤだという。
さらに布袋寅泰を合成。
布袋のリズムと中島みゆきのリズムでちょ待てよを連呼する存在に。ホテ島タクヤだという。さらにモーニング娘とか色んな癖の強いのを沢山合成して花沢さんが完成する。
気のつよい花沢さんが欠如していた5人目の中島くんを呼び出し、合成。
ナカジマックス完成。
完
どうだろう。概要を説明しただけだが、面白さが伝わるネタだろう。まるでナンセンスで意味に還元することを寄せ付けない。最先端のお笑いというより他ない。僕としては、お笑いはインパルスが好きだがトムブラウンも外せない。
ダリのパラノイアクリティック
トムブラウンのお笑いの構造を分析するにはダリのパラノイアクリティックの理解が欠かせない。
トムブラウンのお笑いはパラノイアクリティックだから。
さてサルバドール・ダリといえば、溶ける時計で有名な人。20世紀を代表するシュールレアリストの代表格の一人だ。彼は自らのアートの可能性をラカンのパラノイア理論に見出し、ラカンの論文を引用して、それをパラノイアクリティックと名付けた。
ダリのこの技法は、言語のもつ連鎖体系から特定の単語を切り離し、意味連関から放逐して、その単語の意味を排除することにある。
そのため時計という道具は、時計が本来ある場所を離れて、その意味を喪失した、物それ自体として描写される。このような言葉であり単語がもつ意味をたちきり言語の無意味を晒すことに彼の狙いがある。
念のため補足すると髭剃りは髭やムダ毛を処理するためにあり、髭剃りの意味であり機能は毛をそることにあるが、卓球をする人物のラケットにラケットの代わりに髭剃りを持たせた絵があったらどうだろう。
その髭剃りは髭剃りとしての適所性・意味連関から切り離され全くの無意味におかれ、意味を喪失する。この髭剃りの無意味さがその絵を観る者に無意味という仕方で過剰な意味を連想させることにもなろう。あるいはナンセンスだといって相手にされないかもしれんが。
このような言語がもつ体系構造・文法規則や習慣的な語の使用規則から、特定の単語概念を切断し言語外の無意味を露呈することがダリの技法の賭け金となる。
またパラノイアクリティックとはパラノイアであり妄想の構造をアートに移植した技法をいう。
ラカン派において妄想は空想(幻想)とは区別される。
たとえばパラノイアの人は新聞を読んでその意味を理解することができるが、その文章と一般的意味の背後にまったくその文章の意味するところとは無関係なまるで根拠のない妄想的な意味(無意味)を勝手に解釈することがある。
この妄想的な意味づけを妄想と呼び。妄想は一般的な文章の意味を理解しつつその一般的な意味の背後にその意味と並列して異常な意味を喚起する構造にある。
だからダリの解ける時計の絵は、時計という一般的な意味を理解しつつその背後に時計とまったく関係ないタオルなどの布を妄想するパラノイアにおける意味の二重性を描写しているのだ。
僕らは何らかの象徴的意味を絵画に想定するため絵を観た人はその象徴的意味を読み解こうとするが、そのような鑑賞パラダイムは神経症の水準であって、ダリの絵を観る上では完全に無効である。
ダリの妄想的な意味には意味など無いということ。
ダリはそれが無意味であるため意味を理解できず、そこに欠如した過剰な意味を予感するあり方を、無意味に対する大いなる意味への憧憬をもつパラノイア的待望として描写せしめ、そのような心性を鑑賞するものに喚起するのである。
このことに彼のアートの賭け金が置かれている。
後の議論に先んじていえば、パラノイアクリティックには父性隠喩のなさという機制が発動している。
欧米の笑いが父性隠喩にあったことを考えるとこの構造の意味は大きい。
※時計に対する妄想意味としてのタオルがオルタナティブ意味(妄想性隠喩)レベルなのか無意味レベルなのかを忘れてしまって、そのあたりの識別が曖昧な解説になってしまったが、この記事の論点からするとあまり重要でないのでご容赦願いたい
トムブラウンのお笑い
トムブラウンの笑いは意味や解釈を寄せ付けない。シュールの極北というべき境地にあろう。
ホテ島タクヤなど完全に意味不明である。
もう言うまでもないと思うが、彼らの笑いはダリの手法をそのままお笑いに移植した構造といえる。
まずサザエさんの中島くんを、そのアニメ世界の文脈であり適所性から切断して、カッコでくくって宙づりに引用・複製する。この時点で中島くんは意味の大半を喪失する。普通なら宙づりの居場所をうしなった中島くんにどのような意味付けが行われるか、が期待されるが彼らの笑いはその期待を裏切る。
中島くんである理由も意味もまったくないし、彼は最後まで意味の連鎖から外されて宙づりのままだ。
さらにその中島くんという一般的な意味表象の背後にそれと無関係でまったく必然性をもたない中島みゆきが生じる。この中島くんから中島みゆきへの自由連想を精神分析では換喩(移動)というのだがそれは置いておく。
さらに中島みゆきの背後にキムタクや布袋などが妄想され、それらは全て一般的な意味連関から切断されカッコでくくられ意味を宙づりにされてしまう。
そしてそれらの宙づりにされた表象が無秩序に合成される。
ダリの絵と言えば、場違いな場所に追放された時計が妄想的にタオルなどの布を想起させ時計に布が合成されて木の枝にタオルのようにかかる溶けた見た目の時計が描かれる。
このあり方は完全にホテ島タクヤのそれと同じなのだ。
以上から、トムブラウンのお笑いはダリのパラノイアクリティックとほぼ完全に同じ構造を持っていて近代主体水準(神経症レベル)では決して理解できない。
このような言語をつかって言語的意味の外部の無意味の次元を向きだしにするお笑いのあり方全般を、志らくはイリュージョンと呼んでいる。
※無意味を向きだしにする操作のあり方が古典お笑いとトムブラウンでは異なるがそれは後の項で考察する
さて、世界中で陰謀論(妄想・パラノイア)が流行るポストトゥルースの時代にあって、トムブラウンの笑いはその時代精神の最先端にあるという見方もできるだろう。狂気的笑いといってもいい。
といってだからどうしたと読者は思われるかもしれない。しかしその問いに答えるにはスタンドアップコメディにおける父性隠喩の構造を理解せねばならない。
この記事では、その構造を確認し、日本の笑いの現在地を解釈してゆくことになる。
トムブラウンとダリの類同性まとめ
意味連鎖からの切断
ダリは時計などの単語概念を日常の時計の連関構造から切断して、時計をまったく時計があるべきではないおかしな場所に描く。
これはトムブラウンがサザエさんの中島くんやキムタクなどをそのあるべき意味の連関構造から切断して宙づりにし、まったくおかしなコメディ空間に脈絡もなく召喚することに対応する。
意味の妄想的合成と並列化
ダリは時計という一般的な意味の背後にそれと並列して妄想的な無意味的意味である布・タオルを妄想し、時計とタオルを合成することで溶けた時計を描く。
トムブラウンは中島くんの背後にそれと並列して妄想的な無意味的意味である布袋・キムタクらを妄想し、それらを合成することでホテ島タクヤを描写する。
スタンドアップコメディと神経症
スタンドアップコメディはトムブラウンと対蹠的で意味付けであり言語による解釈が主軸となるのだった。
そのため権威的な既存の社会の価値観や権力のあり方を転覆してゆく。
たとえば、みんなが王様は最高だ!と叫び王の権威をよすがに虚栄心を満たしていたとしよう。我が国の国王は偉大なんだ!そんな国王をもつ民である自分もまた偉大なんだ!という日本人にありがちな構造があったとしよう。このとき国民はこれこそが愛国心であり国王による国家愛の成就は共同体意識を涵養する上で欠かせないと考えていたとする。
そこでコメディアンはこの自分を含む国民のあり方を俯瞰して皮肉る。
おいおいこれじゃまるでパパの権威を自慢するスネ夫じゃないか!と。みんなで国王をオカズに自慰に耽ってあがる!と笑いものにする。
このとき愛国者の多くが言われてみれば自分たちのあり方は権威を笠に着て虚栄心と自尊心を満たす幼児性にあるなと意識させられる。これによって自分たちが依存していた権威的な誇れる価値観に幼児性の自覚が生じて、社会意識が変革する。
このとき、言い得て妙!と思えば笑うのだ。
ここで起きている現象を父性隠喩という。
つまり既存の価値体系であり意味連鎖(国王による愛国は理想の大人のあり方)に対して、新たな意味(それこそがじつは子どもの幼児性)が意味付け解釈されて既存の意味が書き換わる。
このような古い意味に新しい意味が置き換わって価値体系が書き換わる現象を隠喩と呼ぶ。隠喩とは置き換えのこと。
しかもこのとき人々は言われてみれば確かにそうだ!という仕方でそれ(隠喩)を引き受ける。それは無意識にはあったが意識化できていなかった、隠されていた意味をコメディアンが解釈によって暴き国民に自覚させるという構造にある。コメディアンとは社会の無意識と意識を意味付けによって繋ぐトリックスターなのである。
言われてみればとは、その解釈が無意識に既にあったことを意味する。まったく新しい存在しない解釈を取り出したわけではないということ。自らの内に隠されていた無意識の意味を解釈が暴いたということ。
この隠された意味の露出によって既存の権力への関係や社会への意識が変革し意味の連鎖体系が書き換わること、これを父性隠喩と呼ぶ。スタンドアップコメディの価値はこの隠喩の構造にある。
最近YouTubeで京都大学の藤井聡が自分の言論は既存の価値連鎖を書き換えることを目的とするというニュアンスのことを言っていたと思うが、この意識はスタンドアップコメディ的だといえる。
ここで無意識とは大他者を意味する。大他者とは社会の本当の意味の総体であり意味をなす根拠であり世界を意味づける絶対的主体のこと。
人間は思わずの行為、無意識の行為をしてしまったとき、ふとその意味を考える。このようなことをしてしまったのは自分の隠された願望の表れで、本当の自分はそういう行為をしたいと思っているのだろうと自己解釈したりする。
このとき無意識の行為に無意識の主体が想定され、その無意識の主体性が本当の自分なのだと意識化されている。人間のこのような自己関係の構造をして、無意識には本当の自己の意味を知る主体があると想定されるわけだ。言語化された人間は言語化の作用により自己の内なる無意識の主体、つまり社会(言語)の主体としての大他者を想定するということ。
※このような真理を知ると想定される主体を精神分析では転移現象の原理として措定する
また自己の意味とはそれが言語化される限り社会的意味である。
※日本語は社会に対して場所を想定する述語制言語にあり、ここでの説明は主語制言語の構造に限定される
父性隠喩について本格的な解説は長くなるので割愛するが、重要なことだけいえば、この父性隠喩が近代民主主義の心理学的条件となる。
父性隠喩とはいわば、社会の意味であり真理が隠されてあることを保証する。
この隠されてとは意味がつねに意識のレベルでは欠如していて不明であることを示す。意味の根源的欠如を実現するものが父性隠喩。
つまり意味はその欠如が人々に受け入れられているからこそ、コメディアンによって新しい意味づけが再発見されることを可能にし、言われてみればという仕方で社会のあり方を柔軟に書き換えることを可能とする。
もし既存の意味には何の欠如もないのだ!と意識されたときにはコメディアンは処刑されることになろう。絶対化した既存社会の権威であり意味は絶対であり欠如をもたないゆえ、変更も置き換えも認められず、権力を批判したものは処刑を免れない。
だから欠如なき日本のお笑いでは権威でありお上を批評するコメディアンは処刑される傾向にある。
トムブラウンと父性隠喩の排除
※この項目、なんだか解説が長く渋くなりました。そのため凄く脳トレになります
じつはトムブラウンのパラノイアクリティックは父性隠喩のなさを前提に可能となる。
というのもパラノイアとはラカン派精神分析においては父の名の排除という父性隠喩のなさによって診断されるからだ。
この排除はいわば意味の欠如を否定して、意味の完全性を求める心理を示す。いかなる一般的な意味も言語においては欠如するが、この欠如を拒絶するのがパラノだ。
※一般的意味が欠如してるとは子どもがニンジンって何?ときくと親が野菜と答える、それに対して子が野菜って何と聞く、親が植物のうち品種改良された云々と答え、、、問答が無限に続き意味の説明が終らないということ、意味を説明しきれないとは言語は意味の欠如を埋めれないということ
またパラノイアの言語体系を否定神学的と呼ぶ。これは単一の意味の欠如が自己と世界の全てを完全に意味づける根拠として想定される一神教モデルの言語体系を示す。
さっそくその概要を確認しよう。
まず単一の欠如は自己言及における意味の無限遡行を考えれば容易に論証できる。
つまり自己が何者か?の答えは、時間的存在としての自己の一貫性と自己同一性の根拠となる。自己存在の究極的な目的としての意味、それは自らの生まれてきた理由といってもいい。つまり自己の起源(誕生の瞬間)に自己が生まれてきた理由というべき意味を人は想定する。
しかし、自らの存在の意味を自ら問い選択する場合、自らの意味を選択する自己は自らの起源である意味に先立って、無意味の選択者として存在してしまう。たとえば私は人助けするために生まれてきたのだ!という自己認識を自己が能動的に選択したとしよう。この場合、自己の選択によって、人助けマンがアイデンティティになるわけで、その選択をした私は人助けマンに先行して存在することとなる。
すると何者でもない私がアイデンティティであり根源であるはずの人助けマンな私に先行して存在し、その無意味な私が人助けマンという意味の根拠となってアイデンティティである根源が欠如してしまう。かくして自己の起源・意味は自己決定によって欠如する。
このように私が私の運命を決めるという近代的自己決定は自己の起源としての究極的な意味を消去する構造にある。
しかし根源的意味が欠如しているからこそ、人はそれを主体的に問うことができる。もし自己の意味であり運命が予め王様などによって決定されていて自明であれば、人は何一つ自分の生き方を自分で決定できないわけだ。つまり王様でありお上が全てを決定する日本の政治意識では、自由意志の主体は成立しないということ。
かくして人は自らの根拠であり意味を単一に起源・欠如に求める。それは自己が誕生する瞬間であり、自己の歴史の始点として措定される単一の欠如である。この喪失した一つきりの起源であり過去の一点が自己存在でありその相関者である世界の意味の究極的な根拠となる。このような自己と社会に空いた一つの意味欠如を根拠に世界の運命・時間の全てを基礎づける象徴界の構造を否定神学的構造と呼ぶ。
だから歴史であり時間に起源となる始点を想定し、そこに世界の全ての意味の根拠として神の創造意志を観る一神教神学のあり方は否定神学構造のベースだ。このとき、起源となる始点に想定される根源的意味の欠如を拒絶して全体主義化することを父の名の排除とよび、パラノイアは父の名の排除によって生じると精神分析では考える。
※父の名の排除は父性隠喩を不可能にする
わかりやすさ優先の補足を加えると、古典自然科学は時間のニュートン的な連続性・因果律を想定し、時間・歴史に過去⇒現在⇒未来という一方通行の因果的な流れを想定する。この歴史の因果の流れの運命を決定するのが歴史・時間の起源ということ。しかし自然科学には反証可能性の原則があって、常にいかなる法則も結論も可疑性を担保されている。
この科学的な時間構造にあって、担保される可疑性は絶対的な真理・意味を確定することができないこと、客観意味には一つの欠如があることを示す。
※この可疑性としての反証可能性が精神分析における現実原則であり現実吟味の根拠となっている、つまり主客の分離の根拠である
古典自然科学の知から反証可能性(欠如、父の名)が喪失した場合、それはエセ科学へと変質し、エセ科学の蔓延はたちまち世界を全体主義に変える。ナチスドイツはその典型。
可疑性がないとは究極の真理・意味に到達することを意味し、誰もその真理であり意味に逆らえない世界を示す。宗教と科学の相違は、この欠如の構成にかかっているといってもよい。
※しかし科学は誤認の構造にあって自らの根拠である欠如を自己消去する構造にあり、科学思考はそれゆえエセ科学を自らの構造において生産する運命にある、人文学における多くの論理実証主義者はエセ科学者・全体主義者に他ならない
以上が否定神学構造のダイジェストとなる。
ここでパラノイアの発病理論を確認しよう。
パラノイアの言語世界では言語は全体主義的に作動している。たとえばナチス政権下のドイツ語は、まさにパラノイアの言語構造であった。だからある意味では、国民の誰もがパラノイアであったといって差し支えないだろう。
ナチスはエセ科学という妄想の言語を弄して、民族主義的で宗教的な古代妄想を膨らまして暴走した、空想科学が現実との境界をうしなって現実と錯覚されたとき、それは空想から妄想へと変る。
この妄想は排他的であり、そのほかのあらゆる空想も現実も排斥してゆく。それはナチスや戦中日本の誇大妄想を想起してもらえば説明するまでもないだろう。
このような欠如なき言語秩序であり社会秩序への個々人の完全なる迎合、公私と自他の融合が全体主義でありパラノイアを惹起する。
さて、パラノイアとはこのような言語が欠如をうしなって全体主義化するとき、個人が自己主体の自由と主体性を求めて、その言語の外部に自己主体を生かす完全な意味を妄想創造することにある。
つまり自己を肯定する形で完全な意味を既存の全体主義化した社会・言語秩序の外部に創り出す営みを妄想と呼ぶ。
※妄想の言語は最終的に既存の言語と競合してそれを呑み込む
であるから妄想とは健全性を保証するものでもある。社会の言語が全体主義化し、しかもその暴力的な社会の価値規範に関してなんらかの不適応をおこす者が言語による精神崩壊や自己主体の死を避けるにあたって要請するのが妄想という言語外の意味付けなのだ。
※デバンカーがオカルト妄想を論駁して自己満に浸ることの愚かさもここからよく分かる
※パラノイア論をちゃんと説明するとシェーマIやシェーマR、鑑別診断の変遷に対応する50年代ラカンと60年代、70年代ラカンの関連、とりわけ象徴界から現実界への移行と父の名の複数化の議論やディスクール論が避けられず途方もない長さになるので割愛する、詳しくは松本卓也の人はみな妄想するを参照
ここで誤解をさけるため補足しておくと、そもそも健常者=神経症者の現実認識も広義には妄想のバリエーションの一つに過ぎない。
それは客観が構成された概念に過ぎないのにも関わらずそれを客体化してしまう神経症者のあり方を考えるとよく分かる。
ともあれパラノイアにとって言語の既知性は暴力的なもので一切の未知性であり欠如を排除されている。だから、そのつどの情景や体験を隠喩によって表現することができない。
つまりまるで豆腐のように柔らかいとかの隠喩表現が苦手なのだ。そのつどの今がもつ体験のアクチュアリティであり生命力を既存の言語、豆腐に同一させて表現する隠喩を構成できない。
体験の生きたアクチュアリティであり自己性と既知の言語の意味の双方を書き換えるための意味の欠如が既知の単語から消去されてしまう。これがパラノイアにとっての言語の全体主義化なのだ。そのため既存の秩序から完全に外れた無意味を妄想性のオルタナティブな言語によって意味化することになる。
※このオルタナティブな妄想言語による意味付けを妄想性隠喩と呼ぶ、これは父性隠喩の代理
現象学的にいえば単語は親密さをもたず常に自己主体の生きたアクチュアリティを去勢する暴力的な既知性として作動するということ。
関連する話をするとオカルトブームもここから説明できる。現代のオカルト言説は完全にパラノイアの構造にあり、日本人の言語と社会の価値体系が全体主義化してきているのを示すだろう。
これに対して統計主義とか科学主義でもって対抗するデバンカー的な言説があるが、どちらもが病理的であり、まったく不毛。統計主義(過去還元主義、既知還元主義)による言語の暴力性がオカルトを生じていることを科学真理教の狂信者は理解しない。
ともかくパラノイアにおいては、既存秩序は因果連関的連続性をもち、その連関規則は完全無欠であるから書き換えられることがない。それゆえ既存の言語体系の意味秩序を無視して、その外部にオルタナティブな妄想的意味体系を新たに構成する。
妄想言語において初めて自己主体の意味付けと言語化を回復するのがパラノイアである。パラノイアから妄想を奪えば世界は終る。これはどんな陰謀論であっても、それを罵倒するだけでは社会は決してよくならないともいえる。
なぜトムブラウンは生じたか
さて、ここまでの分析で我々は、トムブラウンが日本的なイリュージョンでありララングの笑いにあることを確認し、それがパラノイアクリティックというパラノイアの言語構造によって実現していることを発見した。
しかし、日本の落語やリズムネタにあるララングの全てがパラノイアクリティックにあるのではない。あくまでもトムブラウンに典型される現代お笑いの最先端において、パラノイアクリティックの構造が出現したに過ぎない。
ここではなぜ日本のララング優位の笑いが近年になってパラノイアクリティック化したかを確かめたい。
しかしその前にせっかくなので、これまでの概念を精神分析の用語て整理し、お笑いの構造を精神分析の式に変換してみよう。
精神分析の基礎概念
ここでララングとかイリュージョンといった言語における言語外の無意味の次元を現実界と呼ぼう。
現実界とは言語秩序である象徴界における意味の欠如としての無意味であり象徴界の外側、意味を超えた共通感覚の直接性などの次元をいう。
※一般に僕たちが現実と呼ぶのはむしろ象徴界レベルでの言語的構造化のうちにある。だから現実界の現実とは一般的な現実とは意味がまったく違う、また現実界をカントの物自体とみなす論者もあるが厳密にはこれも違う、現実界は闖入してくるもので接触可能だが物自体は不可能
そのため精神分析では、通常の語の使用における意味連鎖の構造から外れたダリの溶けた時計やトムブラウンの中島くん、ホテ島タクヤなどの無意味の単語を現実界のシニフィアンと呼ぶ。
ここでいうシニフィアンとはソシュールのそれとはやや異なり、意味を表示する言語記号のこと。
つまり意味の外部の記号である溶けた時計やホテ島タクヤなどもなんらかの意味化をせまる無意味のシニフィアン(S1)といえる。
だから精神分析では自らの意味化を迫る無意味の記号をS1と書きシニフィアン(意味するもの)と読むが、これにたいして言語的意味化がなされ、意味された記号のことをS2と書き、これもシニフィアン(意味されたもの)と読む。
S2は既存の社会的意味や妄想的意味を示し、S1は意味以前の無意味の記号を示すというわけだ。
よって人間の言語化を60年代ラカンは疎外とよびS1→S2と記述する。この記述は後の症状の一般理論にも通じる最重要概念となる。
以下にこの記事の結論を疎外のマテームを使って簡潔に示しておく。
パラノイア・陰謀論
S1→オルタナティブ・妄想的S2
スタンドアップコメディ
S1→主語制言語的S2
※S2が重視されるお笑い
トムブラウン
真理的S2 // S1
※//は切断線で→を切断し両者を切り離す、分析家のディスクールの下段に相当する
イリュージョン的な落語
述語制言語的S2→(S1ーS2)
※ラカンにこんな式はないのだが志らくのイリュージョンの笑いの原理を僕なりに無理矢理、ラカン風の式に変換した。ここでの→はコメディアンがS2を語る狙いであり欲望・語らうことを示す。言語でこれを説明すればS2を語ることで言語的意味外の情感・共通感覚にあたる残余としてのS1を伝えるという所。いわばS2は語られることによって過剰としての意味外のS1を生じる
日本の笑いと日本語
トムブラウンの誕生の秘密を明らかにするには、トムブラウン以前のイリュージョンの笑いと日本語の関係を明らかにせねばならない。
もともと日本語には主語がなかった。今もないのであるが主語が誤認されているのが現状で日本語の主語のねつ造は天皇制に起源をもち明治維新で決定的となった。
※厳密には私は~だ。の主語は私ではない。私とは提題であって主語ではない、ただし提題は文脈によって主語的な働きもする
ここで述語制の日本語象徴界が意味の欠如をもたずにしかも意味が自由に運動するチートのような時間構造を持つことを確認しよう。
日本語はこれまでに確認したような欧米のお笑いにある父性隠喩の構造とは異なる。
つまり一神教モデルの否定神学構造を持っていない。
もともと日本語に主語はない。そのために時間意識も今が強く過去が今の原因として今のあり方を規定する過去⇒現在⇒未来という流れをもつ因果律的な欧米象徴界とは根本的に異なる。
日本語象徴界では今がベースであり今のアクチュアリティによって過去が書き換わることも生じる。
いわば時間は過去⇒今と今⇒過去の二つの向きを持っている。
※英語象徴界にもこの時間性があるのだが、それは客観主義による誤認の作用で隠されてしまう
このような意味構造の時間性にあって意味は欠如を持たずに、個々人の主体と調和することが可能となる。
極論・暴論すれば、日本語は比喩性が弱いといえる。古代人の言語に比喩がないことはこれをよく示す。
比喩がないとは述語的同一性が優位な象徴界を示す。たとえば現代人の場合、彼は鹿のように足が速いという。鹿は喩えであるからようにという比喩表現が両者を仲介して隠喩を構成する。
ところが客体水準とイメージ水準とが非分離にある象徴界では、同じ事態が彼は鹿だと言表される。
ようにという比喩なしに両者が直結するのだ。
ここではそのつどの現在性を示す鹿などのイメージが優位でありイメージが物である客体の意味を自由に書き換える現象が起きる。そもそも客体とイメージや主体が非分離であるから、客体の既知性はその暴力性をもつことがない。本来の日本語象徴界では客体・単語の存在はニュートン的な時間構造にはないということ。
だから人々は客観的意味に一致して意味の欠如をもつことがない。にも関わらず、客観的意味は個々人の主体性を潰すわけでもない。全ての人間が述語的なイメージの自由な運動を自己化しつつ客観意味をそれに従わせることができるのだ。
厳密にいえば主客が非分離なので欧米言語的な意味での客観も主観も存在していないのだが、分かりやすくいえばこういうことになる。
つまり英語象徴界では髭剃りの意味は髭をそることで固定していて、これに個人が逆らうことは難しい。個人の自由な対象への意味の観取は去勢され、社会的な因果律的意味連関に個人の意味観取は強制される。
この強制が意味の欠如の喪失において絶対化した様態がパラノイアを生じるのであった。
ところが日本語的な無主語の象徴界では髭剃りの客観的意味はそのような固定を免れている。その意味は髭剃りを対象知覚する個々人の自由なイメージの喚起に委ねられ、いくらでも運動する。既存の客観的意味はその意味の自由な創出を一定程度方向付けはするが、支配的な作動ではない。いわば主体と客体とが相互に規定しあう関係だ。これを西田幾多郎は逆対応とよぶ。
そのために今は過去と因果的に繋がりつつも過去とは無関係に独立してある。だから今この瞬間の自由なアクチュアリティが賦活し過去を今において書き換える操作も当たり前に生じるのだ。
トムブラウン型の誕生の理由
このような日本語的象徴界構造にあっては、パラノイアクリティックにあるような特定の単語を既存の意味連鎖から外して、言語外の無意味を狙う操作が生じ得ないのが分かるだろう。
したがってトムブラウン型の現実界ベースのお笑いは、現代社会における日本語の全体主義化を示している可能性が強い。
古い日本のララング・イリュージョンのお笑いはパノイア的な無意味とは趣が違ったように思う。古典の笑いに詳しくないので断言はできないが、それは純粋にオノマトペ的であっただろう。おそらくはリズムや間への感覚、あるいは俳句のような言葉による物の表現を介したコト・共通感覚の力で笑わせる、という方向性であろう。
少なくとも、昔の日本に中島くんとかキムタクといった既存概念をカッコにくくって既存の意味連関から切断し、概念を宙づりにするようなパラノイア的手法はなかったのではないだろうか。この手法は全体主義化する象徴界から逃れようとして生じる。よってトムブラウンのお笑いは、今日日の日本語・日本社会の価値と意味の全体主義化を反映していると考える。
さてここで簡単に、昨今の日本語が全体主義化の傾向にあることを確認したい。
近年は正義マンが氾濫し、公金チューチューだとかの言説で、想像的に悪人を妄想して、みんなでそれを叩いて正義に享楽するスタイルが流行している。このような正義マン現象は日本語象徴界の全体主義化、欠如なき主語制化(欠如なき英語化)を示す。
ここで正義マンや公金チューチュー言論がなぜ象徴界の全体主義化のなのかを、報道におけるジャーナリズム的側面と構造主義的側面の二面性から確認する。
社会問題を公に報じて社会のあるべきを問う報道では法を逸脱する権力者や個人を指弾し、その具体的人物なり組織なりの隠された悪事を暴く必要もある。これはジャーナリズムのあり方の一つだ。
ここでは社会問題の原因は具体的な人物なり組織に措定され、原因をその個人主体に見出すことで司法的な刑罰を裁定する司法原理が作動する。
司法幻想を共同体が信仰するためには、このように悪の原因を個人主体としての主語に措定し、悪事を違法者に主体化する操作が欠かせない。
もしこの幻想操作の全てを放棄すれば、悪事をその行為者の責任に還元できず刑罰を与える正当性を喪うわけだ。
つまり司法幻想による悪事や罪の主体化を介して人間は行為・述語に対する主語としての個人(インディビジュアル)を誕生させる。この個人主体の誕生と人間の罪の誕生の同時性は創世記のアダムとイブの失楽園にもよく示される。
さて、このような個人主体の責任の引き受けは、個々人が過去⇒現在⇒未来という連続的な一貫性をもつ存在であることが前提となる。
もし昨日の自分と無関係に今日の自分が気まぐれでコロコロと変るなら、責任の主体として誕生することはできないし、約定をかわすこともできない。
つまりそのつどの印象で主語の彼が鹿になったりイノシシになったりしたら困るのだ。法と契約は過去をアイデンティティの核とする一貫性を人間に要請する。
法であり掟にしたがうアブラハム的な明文化された法の主体とは、したがって、英語象徴界的な時間の因果律的連続性を持った主語の誕生に通じる。この自己意味としての過去・起源を絶対原因とする時間的一貫性において根源的過去としての自己意味の欠如が否定されると象徴界に全体主義化が生じパラノイアの原因となるのだった。
つまり司法幻想の過剰な強まりは社会をパラノイア化することに通じる。罪のない人間はいない、罪とは欠如のことであり、自らが欠如をもたらした者となること。このとき自己の欠如を拒絶すれば司法幻想は肥大し、他人の罪を暴き、他者を叩くことに享楽する正義マンを生み出す。いわば自らの不満足・欠如の責任を引き受けず他者に責任転嫁する現代人ができあがる。
まとめると司法幻想は主語主体を実現するが、それが強まり正義マンだらけになるのは自己の罪が拒絶されて、他者に罪が責任転嫁されるため。主語制の象徴界が欠如を喪失して、全体主義化するときにこの現象は起こる。
※本格的に解説すると時間の空間化の議論がでてきて長くなるので割愛
もとより日本語には欠如がないのは既に指摘したが、もし日本人の社会構造や言語構造が明治における近代化によって一神教化し主語幻想が支配化しているとすればどうだろう。
※事実、日本学校教育では日本語をチョムスキー文法で教え、日本語には主語があると嘘をついている
この場合、もともと意味に欠如を持たない述語制象徴界を生きてきた日本人にとって、意味の欠如を構成することは困難極まりない。
※河合隼雄はこの困難をこそ問題視し、日本社会に警鐘を鳴らしていたと考えられる
すると日本語の主語制化、近代法治社会化は欠如を構成できぬまま危険な全体主義的象徴界に驀進する危険性があると分かる。
昨今の責任の主体を他者に想定して、ぶったたく司法幻想の支配化、主語化の過剰な高まりは日本語の変質をもっともよく示すように思う。
※司法社会の維持と国民主体化という観点でジャーナリスティックな責任追及と主語還元は必要であるが、この審級だけが報道において支配化する社会こそが全体主義であり逆接的な主語の死となる
対する報道の構造主義的側面はそうではない。
アリに喩えれば、働きアリのうち一定の比率の個体が仕事をさぼるのは有名だろう。このサボりアリを悪モノとして裁いてパージするのが司法幻想でありジャーナリズムの効果だった。しかし悪モノのアリを潰すと別のアリがまた怠ける、いくら処刑を繰り返しても悪モノのアリは消えない。
そこで放置してみる。ところが放置したからといって悪モノのアリは増えたりしない。つまり働きアリの社会構造が一定の割合で悪アリを生産するようにできていて、悪アリの処刑こそが、逆説的にも新たな悪アリの生産となっている。かくして悪というイメージを個体に実体化するのでなく関係構造として洞察して社会構造を改善する言説をとること、個人に主体化された責任幻想を個人から関係構造へと視点移動する報道のパースペクティブを構造主義的報道と呼びたい。
これは個人主体の意味の客体化を解消する視点である。この視点をもつことが過剰な個人主体叩きを抑制することはいうまでもない。
ともあれ現代ではジャーナリズム的報道一辺倒で過剰な正義マンに溢れ、悪という関係性でありイメージが客体化することで全体主義を構成している。ジャーナリズム的な正義感は偉大である、しかし、社会はジャーナリズム的審級と構造主義的審級の二つの尺度でバランスをとらないと脱線してしまう。
さて言語の意味が全体主義化する今日日の日本で、共通感覚を重視した日本人がいきついた笑いがトムブラウン型のパラノイアクリティックになる。つまりもはや俳句のような物の表現による自由で共通のコトの伝達が困難となってきていて、欠如なき全体主義的な価値構造からの逃避としてパラノイア的な象徴界からの撤退が思考されている。
いわばトムブラウンの笑いは、観客に対して陰謀論妄想やオカルト妄想といったものに陥らずに日本人が生きるための意味の暴力に対するヘイブン(避難所)を提供し、これにより多くの日本人を救済しているのだと思う。
Z世代にトムブラウンがうけてるのも頷ける。
トムブラウンの笑いの精神分析
ここでは牽強付会になるのを承知でトムブラウンのお笑いの魅力をさらに考察する。
トムブラウンのネタはパラノイアクリティックといいつつ、具体的な意味化は避けられている。
妄想的に意味化をなす陰謀論が社会に危ない崩壊をもたらすことを思うとこの点は重要である。
しかしそれだけではない。トムブラウンのネタでは花沢さんが登場して、ナカジマックスという自我理想を完成させて終る。
最強の存在ナカジマックスとは中島という無個性で何者でもない個人主体が言語化をなして意味の主体として生まれるさいに、その誕生(自己の言語化)の欲望を基礎づける自己の理想像を示す。
最後に女性の花沢さんが現れて、女性の呼び声(対象a)によってナカジマックスとして、言語化された社会的主体として中島が誕生する。
しかも、ナカジマックスが具体的になんなのかは不明でありナカジマックスは一つの意味の欠如として提示される。それでいてナカジマックスは欠如を埋めることで完成する。完成するが意味不明の存在で意味をもたないS1に留まる。
ここに欠如なき象徴界にあえぐ全体主義的な日本社会において、その象徴界に主体的個人が誕生する。
補足しよう。
まず主語制象徴界が言語の全体主義化を免れるには意味の欠如が必要であった。
この欠如を実現するのが父の名であり父性隠喩であった。
このとき、この欠如に想定される欠如した意味であり理想のことを対象aと呼ぶ。
※対象aを解説すると種類も沢山あるし大変なのでここでは簡易的解説にとどめる
この対象a・究極意味を彼岸に想定して、それを欲望し自己を言語によって主体的に意味づけることこそが個人主体として象徴界に生き、言語的な意味の主体として誕生することなのだ。
ようするに人は欠如を欠如のまま欲望することはできない。人は欠如の場所に対象であるaを幻想することで、自分の本当の意味であり社会の本当の意味を主体的に欲望し問うことができる。
対象a(究極の意味、理想)とは、もし手にして実現すれば、現実は理想と一致し何も現実を変える意志を持てなくなり、満足な豚として主体が死ぬ事態となる。だから対象aはナカジマックスと呼ばれて彼岸に想定される究極の理想の自己像だが、けっしてその意味が確定することはなく意味のレベルでは手に入れることができない欠如した対象。
つまり、人間は自己の理想像(究極意味)を象徴界であり社会における意味の欠如としての穴に見出し、それを対象aとして欲望することで言語的主体として誕生する。このときこの対象aを社会であり象徴界に設置する存在、これが母親であり母の呼び声。
※意味の根源的な欠如の場所に何か具体的な究極の意味・対象aがあると幻想することで人はその答えを主体的に追い求める
母の呼ぶ声であり母の子どもへ向ける言語社会的な欲望の対象を子どもは目指すということ。
そのため対象aの基本類型の一つは母の呼び声とされる。これは中島を呼ぶ花沢さんの呼び声のこと。この呼び声が最強の理想像であるナカジマックスという欲望の対象を象徴界に対象aとして設置する。
困難だが究極の存在とされるナカジマックスの完成を目指すことにはこのような布置がある。
※対象aの基本類型には、呼び声の他に、眼差し、糞便、乳房が知られる。これら対象aの基本類型は全てアニメ映画『パプリカ』にて、これみよがしに登場している
また、この呼び声は恋人の欲望に対応させることもできる。花沢さんは恋人の欲望のメタファーとしてもみれる。
いずれにせよ最後までナカジマックスが具体的な意味を持たないことが重要。それは陰謀論的な意味付けを回避しつつ主体化を実現しうるからだ。
つまりS2として想定されたナカジマックスは最後はS1として獲得されるが、このことでS1とS2との位相の差異が確定し、S1は決して意味S2に完全に置き換えることはできず両者には埋めることのできない差異があって、この差異のために意味S2はつねに欠如するしかない、ということを示す。これによって意味の欠如が基礎づけられて日本人の主体化が生じうるということ。
※これは表意文字から表音文字へと考えてもいい、S1のS2からの切断をサントームと呼び、後期ラカンの到達点をなす
よって理想としての自己の意味をめぐる主体化のプロセスがこのお笑いのなかで成就している。
これは全体主義的な日本社会の言語体系にあってその克服としての、さらなる分離(象徴界に意味の欠如を基礎づけるS1の脱S2化)のプロセスを描写するものとも解釈できるだろう。このようなお笑いを経ることなく、いきないり、スタンドアップコメディなどと言ってもまったく無意味。
イリュージョンとしての現実界優位の日本の笑いがパラノイアクリティックの技法をかり、さらに独自の発展をなして欧米的な批評精神のある笑いに連絡する力をもつ、これがトムブラウンの笑いの実力だと思う。
いずれにせよ、映画シンゴジラ的なサントームの構造として観ることができる。
ただ、この漫才の解釈は何通りかあって僕のなかで収束しない。
パラノイア構造と現代日本の関連で言うと、新海誠の君の名は。とすずめの戸締まりの二つの作品は、どっちもパラノイア構造がくっきり確認できる。だからトムブラウンと新海誠の作品に共通性を感じなくもない。
※現代社会では普通精神病論、スキゾイド論や非定型発達論などがあり、すべてを解説すると大変なことになるので、この記事ではパラノイアと神経症に的を絞っている、なおパラノイア水準の現代人が発病せずにオカルトレベルや陰謀論水準で維持安定されるのは、ポストトゥルース化やエコーチェンバー化によってそれらが否定されきらないためと考えられる
おわりに
じつはこのお笑い分析記事、全体主義の文法を完全に分析する記事の一部として構想したもの。そのため日本社会の全体主義化という文脈における分析となった。
かなり説明や論点を省略してるのにこの長さ。書きながら書く内容を考察してるのでまとまりや構成にムラと無駄が出てしまった。
ちなみに前回のブルーロックの記事も全体主義の記事の一部として書かれている。
全体主義の文法の記事は一つの記事にするには長すぎるから、かく要素を個別の記事にして投稿してから本編を書くことにした。
さて、もし日本が民主化をなしたいのならお笑いのたどるべき運命はある程度決まっていると思う。
このままララング的な笑いを独自に発展させつつトムブラウン型の価値ある笑いを創出して、お笑いの構造を適切に評価し、お笑い文化の涵養につとめること。そこから徐々にお笑いの一つのバリエーションとして権力批判や自己の所属するカテゴリー・組織への自虐ネタが芽吹くような意識を醸成すること。
いずれにせよ、内省を促し公に欠如をもたらす自虐や批評もできないうちは日本に民主主義など存在しない。たまには日本人あるあるでドギツイ自虐的笑いをやってもいいはずだ。
※これをするとネット右翼系の人たちを中心に日本人が総発狂してしまいできなそうではあるが
自己否定であり内省をもたない永遠の少年にとどまる日本人が民主主義を実現するにはこれが絶対的な条件の一つになるだろう。たんに反日や自己アイデンティティの批判をしろというのではない、それを笑いでしろということ。父性隠喩を構成すべきである。欠如は笑いとして肯定的に受容されてこそ機能する。
※かつてGHQのマッカーサーが日本人の精神年齢は12歳だと言った理もここにある
百田尚樹はお笑いの価値は面白さだけ、というが本当にいい加減にして欲しい。もし文学やお笑いの価値が本当におもろさだけなら、そんなものこの世にあってもなくてもいい。文学やお笑い文化を貶める発言だ。
また、日本のお笑いに批評がないのはお笑い芸人が悪いとか、そういう次元の問題ではない。そうした自己批評性を一切ひきうけようとしない日本社会であり日本国そのものの問題。
近代化の意義と問題点について有識者のあいだで一定のコンセンサスを構築する段階にきているが日本の人文学者は、みんなで違うことを言うので社会のあるべき指針を示すことができていない。自己主張しかなく相手の話を聞くことがないのが日本の言論人と思う。
ある人は近代は悪だ!人権は悪だ!プラトンに帰れ!と絶叫し、またある者は昭和日本に帰れ!夫や先生を崇めろ!大学を称えろ!と時代錯誤を絶叫。欧米を盲目的にマンセーしたり逆に全否定してロシアを崇めたり、この国のプロ言論人の妄言はまるで白痴の博覧会だろう。
お上を超えたスーパーお上の国連様やBBC様に言われて善悪の基準をクルっとひっくり返してジャニーズを叩いたり、この国のどこが民主主義なのか僕には理解できない。トムブラウンのような笑いがこの体たらくを改善してゆくことを願うばかりだ。
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