うたまるです。
最近は小難しい記事も書いたので、今回はその逆に、小学生でも分かる哲学解説をしようと思います。
といっても、もっぱら読むのは深層心理学(ユングかラカン)と木村の現存在分析の本ばかりで哲学は専門外なので、そこまで専門的な解説はできませんが、この記事では西洋哲学が体系的に繋がって分かりやすくなる見方を子どもにも、きっちり分かるように寓話にして解説します。
この記事では最初に哲学の基礎を理屈で解説し、次に寓話でその理屈が直観的にヴィジュアルで頭に入って記憶できるようにしてみました。
というわけで子どもでもその本質を理解できるように、哲学史とそのロジックを紹介!
※この記事のロジックは竹田青嗣著『言語的思考へ 脱構築と現象学』を参考にしています
哲学の基礎知識
寓話の前に:神様と西洋哲学
昔々の西洋では言葉や事物の究極の根拠に神様がおりました。
この神様は世界で唯一無二の存在。これがキリスト教の神様です。
その神様が残した人類の真理が書かれた聖書が信仰され、人々はその真理の光をよすがに世界を照らして暮らしておりました。
ところが人間は、神のつくりし世界から神の理を取り出して科学・テクノロジーを発展させ、また交通網も整備され、貿易も発展し、西洋の人たちは異文化コミュニケーションするようになります。
すると自分たちと異なる文化圏の異質な神の物語に触れたり、同じキリシタン同士で内ゲバ(カトリックとプロテスタントの宗教戦争)をするようになりました。
そのことで、デカルトの時代(17世紀)には、キリスト教が説く隣人愛、博愛主義を基礎とする聖書の道徳原理の限界が露呈してゆきました。
同じ宗教の共同体(仲間)がその道徳の限界だったのです。だから隣人愛を唱えても共同体の外にいる異なる宗教や宗派の共同体とは戦争を繰り返し、たくさんの人が死んだのです。
そのため、後の世代の哲学者であるカント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーらは隣人愛を超える普遍的道徳原理の創出を余儀なくされ、最高善とか良心とか良心の呼び声、といった隣人愛とは異なる哲学的な道徳原理をおのおの創出しました。
寓話の前に:カント
18世紀の偉大な哲学者にカントという人がおりました。
カントは物自体という哲学的アイディアを提出した人で、物自体とは人間の理性では語り得ない理性の限界域を示す概念。
たとえば、絶対的な客観的世界なんかは物自体の典型。というのも人間は自らの身体に属する認識装置を通して世界を認識するわけなので、認識装置に相関した主観的な世界しか認識のしようがなく、人間の認識装置を超えた客観的世界は認識するすべがないということ。
人間にとってリンゴは赤くても牛にとってリンゴは白黒だし、一部の猛禽類にとってリンゴは人間よりカラフルに見えていることからもこのことはよく分かるでしょう。
このように認識する対象を認識装置に対して相関する主観的な対象に過ぎず、認識装置(主観)を超えた対象の客観的世界(世界それ自体、物それ自体)は知ることができない、と考えるのがカント式の相関主義と呼ばれるもの。
そんでもって、カントがいう物自体=客観的な世界のあり様とは、人間を超越した唯一無二の神様だけが知っていると考えられました。
だから物自体とは神様の目線から見える神様だけが認識する世界・対象のことなのです。
カント哲学で大事なのは、物自体は人間の理性では語り得ない不可知領域なので、語り得ない物自体については語るな!というスタンスを打ち出したことにあります。
このような哲学的態度からカントは、形而上学批判(スコラ神学批判)の哲学者として知られています。
ちなみにここで、形而上学というのは神の名のもとに語り得ない物自体(究極根拠、世界の絶対的真理)について独断的に語り出す、無論理の決めつけ哲学のこと。たとえば聖書に地球が平たいと書いてあるから平たいのだ!という態度は形而上学的態度の一つです。
寓話の前に:カントと現象学
現象学とは数学者であり20世紀の偉大な哲学者でもあったフッサールがうちたてた方法論のこと。
そんな現象学は、物自体を語らないためにこそ、つまりカントの物自体を語るな!という教えを徹底するためにこそ、カントが示した物自体という認識の不可知領域を解体することを、その使命としました。
だからカントの哲学に脈打つカントの意志(物自体は語っちゃダメ!)を時代を超えフッサールが受け継ぎ、カント哲学の意志を実現するためにこそ、フッサールは、カント哲学の中心概念となる物自体を否定したのです。
※このようなカントを否定することでカントを肯定するあり方をヘーゲルの弁証法と呼ぶ
では具体的にどうやって物自体を解体したかを確認しましょう。
現象学にはエポケーと呼ばれる特殊な視線変更をなす思考的手続きが存在します。
この現象学的視線変更(エポケー)とは、僕たちの日常の認識のあり方の向きをひっくり返すことをいいます。
具体的に示すと僕たちは普段、目の前のリンゴを認識するとき、目の前に客観的な対象としてリンゴが実在しているからこそ、いま目の前に赤くてツヤツヤのまん丸な像が視覚像として意識に現象している、と考えています。
これが日常の視線の向きで、このような普通の認識のあり方(パースペクティブ)を簡略化すると、客体⇒認識になっています。客体とは客観的に存在する対象のこと。認識とは客体が認識装置によって認識・知覚されて主観意識の内に生じる対象認識(知覚像)のこと。
現象学におけるエポケーとは、このような素朴な認識のあり方に対する考え・視線の向きをひっくり返して、認識⇒客体にすることです。
つまり僕たちは普段、客観的なリンゴが目の前にあるから、そのリンゴが原因で意識のうちに赤くて丸い像をリンゴとして知覚、認識するのだ、と考えていますが、エポケーでは、この因果関係をひっくり返して、意識のうちに赤くてまん丸の認識像(ノエシス)が生じているから、その意識内認識が原因で目の前に客観的なリンゴが実在すると確信するのだ!と考えることをいいます。
この考え方(エポケー)は目の前のリンゴについて考えるときには、どうでもいいことなのですが、価値とか意味、つまり正義とか正しさ、道徳といった主観的で心理的な対象について考えるときにとっても大事になります。
すでに見てきたように、形而上学的独断論に頼った道徳では信念対立はおさまりがつかず価値観の相違などから戦争になってしまうのです。
では、たとえば、なんで正義では信念対立が起きるのでしょうか。
この理由は簡単で正義という対象について、これを個々人の価値観や立場に対して相関する主観的なものではなく、あらゆる個人の価値観や立場を超越し、それら主観と無関係に独立して客観的に存在する正義本体なる客体がある、と考えるから和解不可能な独断論的で形而上学的信念対立が生じてしまうのです。
つまり、みんながみんな僕の信じる正義こそが絶対的で客観的な正義本体なんだ!と考えたら異なる正義感の人とは戦争するしかなくなっちゃいます。
※客観的正義があるという考えを本体論といい、形而上学は本体論がベースとなる
このときエポケーによって視線変更すると、真に正しい客観的な正義とか道徳は解体し、ある主観的な現象によって、それが客観普遍的な正義だと確信されているに過ぎない、ということが前提されるわけですから、どのような条件が、~な正義を私にとって絶対的・客観的・普遍的と確信させるのか、その条件を取り出すことが可能となります。これによって普遍性の条件を取り出すことで、異なる信念の人とも合意を形成してゆけるわけです。
つまり客観的な対象は、意識主観内で形成される確信である、と考えるのが現象学。
客観認識の対象は主観的現象から推論される確信によって構成されていて相関的なのであり、主観から独立してそれ自体として客観的に存在しているのではない、と考えるのがポイント。
だから、みんなが客観を現象学的に考えれば、客観的な正義は話し合いによってつど人々の合意のもとに構成してゆく行為を持続することができるのです。
また事実として、この世界は相関的な認識像を超えた客観的な像をもっていません。もし神様がいたとしても、神様の認識する世界像は神様の認識装置に相関しているだけだから、それが絶対にして唯一の客観的世界像だと決めつける根拠はどこにもないということ。
したがって現象学的視線変更は便宜的な考えではなく、事実そうなっているということを示してもいます。
だからフッサール現象学は、カントの認識装置相関主義を継承し、森羅万象の一切を相関主義に還元する考え方なのです。
※カントの認識装置は感性ー悟性ー理性の三つからなる
繰り返しますが、一切を主観・意識に還元し客観的対象を主観内の対象の確信とみなすエポケーにおいては物自体(主観から独立してそれ自体としてある客体)は消去されています。
これが現象学におけるカントの物自体の消滅によるカントの意志の継承なのです。
物自体が消去されているということは、たとえば正義なら絶対的に正しい正義本体は消去されるということです。これによって独断論は解体し合意形成としての普遍的正義をみんなで、そのつど時代に合わせながら動的に構築することが可能になるわけです。
ちなみに現象学を現象学と呼ぶのは、一切を意識という場の現象に還元する態度だからだと思います。
寓話の前に:デリダと物自体
ところでカントは物自体を避けてどうやって哲学のミッションである普遍認識を獲得しようとしたのでしょうか。
これは簡単で、まず認識装置(感性ー悟性ー理性)は自分の意識に属するから、どうなっているかは自分の意識を内省することで記述できます。物自体は不可知(超越)でも自分の意識は内在なので分かります。
自分の感じていることは感じている以上は確定できるわけです。
たとえばリンゴを見て美味しそうと思ったとき、美味しそうと思ったことは疑いえないということ。
そこでカントは人間の認識装置は共通しているから、認識装置である感性ー悟性ー理性について分析すれば、普遍的な認識(考え)を取り出せると考えたわけです。
ところがこのような普遍認識への志向そのものを忌み嫌う闇の思想家が現れます。
時は20世紀末、このような普遍認識を唾棄し、すべてを相対的に過ぎないとあざ笑うことを善しとする思潮が誕生したのです。
それがフランス現代思想、そしてその中心的人物がジャンク・デリダでした。
黒魔術的ポエム思想の誕生です!
当時はデカルト→カント→ヘーゲルやルソー、ホッブスによって誕生した近代市民社会(資本主義)の限界が露呈しており、あらゆる社会矛盾が顕在化、そのため先行する世代の哲学(西洋社会論)への批判的な内省が時代精神として要請せれました。
そんなわけでデリダは既存の西洋哲学の総反省をなし行き詰まった近現代を克服する必要に迫られて相対主義のフランス現代思想をたちあげたといえるでしょう。
そんなデリダはカントの物自体に目をつけました。これは使えるぞ!と思ったのかもしれません。
フッサールやニーチェが解体したはずの物自体モデルを、今度はカントの意に背くためにこそ復活させたのです。
すでに確認したように物自体モデルではカントの意に反して、相関主義(エポケー)は否定されてしまいます。
つまりデリダは主観とは無関係に独立して存在する不可知領域の物自体を蘇生し、これによって、あらゆる意見・哲学に対して、それってあなたの感想ですよね!とイキリ散らすことをひらめいたのです。
こうして、世界のあらゆる価値観も理念も基礎付けをうしない解体してゆきます。
つまりデリダは、全ての基礎付けであり普遍性の根拠を物自体という不可能の一点に集約した上で、物自体(究極根拠)は不可能であるということを帰謬論によって論証し、人々が合意形成による普遍認識の獲得を目指す試みを壊したのです。
このような物自体を悪用して客観を主観から独立させエポケー(相関主義)を無効化するスタイルを、相対主義と呼びます。相関主義と相対主義はまったく意味が違うのです。
大事だから、あらためて相関主義についてまとめておくと、相関主義とは、人間の意識のうちで認識装置(カント)とか欲望(竹田青嗣)とか気遣い(ハイデガー)とか力への意志(ニーチェ)に相関して対象が確信のもとに客体として対象化、構成されると見なし、客体の確信条件を意識のうちから内省によって取り出すスタイルのこと。
とてつもなく大雑把にまとめるとこれが近代哲学から現代思想までのあらすじです。
今回は割愛したけど、デリダは声と現象というテキストでフッサール現象学を標的にストローマン論法で現象学を否定し、言語学を形式論理化したりそれと関連して時間の今を消去したり、めちゃくちゃやってくれました。
いまの社会の混乱もデリダ派に起因するものが多いのでは?というのが僕の個人的な考えだったりします。
子どもには少しだけ難しくなったかもしれません。
でも安心してください、次はいよいよ寓話です。この寓話なら直観的に小学生にも分かるはず。
哲学の寓話
これは人類とお星様を巡る一つの物語。
第一の時代:神様
むかしむかし、世界には一人の全知全能の神様がおりました。
神様は全てを基礎付け、その存在の色や形を照らしだして人々に世界を見せるお空の太陽でした。
ひとびとは太陽を信仰していたため、太陽を崇め、目線を空に向け、太陽の照らす客観世界を見つめておりましたとさ。
ひとびとの目線の中心にはいつでもお空の太陽が、だからこれを神中心主義と呼びました。
第二の時代:カント
あるときカントがやってきました。カントは太陽は不可能な物自体だといって、モクモクの雲さんで隠してしまったのです。
すると人々はさあ大変、暗い世界をどんより彷徨う。
そこでカントは言います。
「大丈夫、神様がぼくたちに分けてくれた星のかけらで照らせばよい。世界は光を取り戻す。」
こうして人々は個々人が分有する個性豊かな星のかけらを自らの手に持って、人間の手で世界を照らしてゆきました。かくして人間の認識装置(星のかけら)から世界の普遍的真理を照らし出す相関主義が誕生したのです。
お空の太陽にすがることなく、人々は太陽の神様から頂いた、心の内にある星のかけらで世界をともし目線を空から大地の人々に視線変更(エポケー)して、あかるい世界を歩み出したのです。
こうして空の太陽ではなく大地の人間をその視線の中心すえるようになりました。
これが人類史における近代化であり人中心主義(エポケー)の始まり。
カント型の相関主義の場合、各人が持つ星のかけらは機能に共通性があるから、星のかけらを分析することで普遍性がとりだせると考えたのです。
第三の時代:フッサール
カントのあと、明るくなった人類の世界にフッサールがやってきました。
フッサールは将来、魔術師デリダがやってくることを予期し、カントが雲で隠した太陽(物自体)を消し去りました。
これで個々人がその手にもつ星のかけらの輝きを永遠のものにしようとしたのです。
せっかく星のかけらをその手に人々が人間を中心に生きるようになったのに、悪い魔術師がやってきて雲を払い、太陽の光で個々人の星の輝きを破壊されては一大事なのです。
だからフッサールはカントが雲で隠した太陽(物自体)を、今度は完全に破壊しました。
これにより神中心から人中心への移行を基礎づけたのです。フッサールはこうして本格的な近代市民社会のための新しい世界をしつらえたのでした。
第四の時代:デリダ
ときが流れ、今度は魔術師のデリダがやってきました。
彼は黒魔術をつかい太陽をゾンビとして復活させたのです。
さらにカントが張った雲の結界も黒魔術で破壊されてしまいました。
ゾンビ化した太陽は以前の明るく世界を照らす太陽ではありません。今度の太陽は皆既日食の姿で固定されているのです。
太陽は、なにも照らさない、お空にぽっかり空いた一つ穴になってしまいました。
ブラックホールがお空に一つ。
これこそが魔術師デリダの悪巧み。
何も照らさない欠如した太陽(物自体)が全てを呑み込むブラックホールと化し、人々の視線を空に釘付けにしてしまったのです。
これによってお空の穴から目線を水平におろし、自分の心に目を向けられなくなってしまいました。
もう現象学的な視線変更(エポケー)はできません。
デリダは言います、太陽だけが僕らの唯一の価値であり世界認識の根拠であり普遍性の核なのだと。
そして太陽はもう何も照らさないと。
世界は虚妄であり無であり、なにも確実なことなどない闇なのだと。
手に持った星のかけらはインチキな個人の妄想でなんの普遍性もないあなたの感想でしかないと。
こうしてデリダは消え去った神の痕跡、太陽の死体をつかって神の世界である客観それ自体=物自体を欠如した穴として復活させたのでした。
デリダ以後、人類の哲学は相関主義を否定されたことで合意形成を不可能にされ、思弁的な空中芸を披露してはお空の大穴に吸い込まれるばかり。
もう哲学が人間世界の現実について語ることはなくなったのです。
デリダの主張は、神(客観)などいない、しかし神(客観)だけが絶対であり至高でそのほか(意識主観)には何の価値もない、したがって人々は個人的な妄想にふけっていろ、ということでした。
終わりに
この寓話は僕が現象学の視線変更の概念を理解したときのイメージ映像をベースに物語化したもの。
現代の言語は非常に論理学的な論理に支配されているので、現象学や深層心理学などのメタ論理を理解するときは言葉よりもイメージで理解した方が簡単で早いことが多い。
こうしたイメージの理解は言葉よりも手っ取り早い。もし深層心理学や哲学が好きな人は状況に応じてイメージで理解してみるとよいかもしれない。
今回の内容が理解できると、哲学や深層心理学、人類史を理解するのがかなり楽になるはず。この寓話で簡単な一枚の絵というか短い動画映像に、ざっくりとした哲学史の流れを圧縮して記憶することが可能に。
最近YouTubeなどを見ていると、やたらと過剰な近代批判とその逆にラジカルなテクノロジー楽観主義を主張する言論人とで二分されているように思う。
これは本当によくないので、そもそも近代とは何かということがある程度、感覚的に分かるような記事にしてみた。僕なりにYouTubeの言論人をチェックして、その人たちの話のレベルに合わせて記事のレベルを調整。
短絡的な技術楽観論(合理主義)と反動形成的な過剰な近代批判はどちらも限界がある。
最近は神秘主義も流行ってきているようであるが、神秘とは語りえないものであろう。
語りえないものは確かにあるのだが、それについて語るのはどうなのだろうか。近代批判主義者が毛嫌いするポストモダン思想(ポストモダン思想自体近代批判ではあるが)は、語り得ないところの物自体を語りえない存在しないものとして神秘化して騙ることで成立している。
物自体などの超越項絶対主義を解体しない限り、どのような思想も合意形成にはいたらず相対主義を晒すか、反動的独断論を招くだけに終わり、そのことでポストモダン思想はより強固になると思う。
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