※この記事は龍が如く8と7のネタバレを含みます。また脚本の意味を読解するという性質のためこの記事の内容は一つの解釈に過ぎません
うたまるです。
遅ればせながらPS5で『龍が如く8』をプレーし、あまりに面白かったので他の人たちの感想記事を読んでみました。そこで分かったのは総じて評価が高くシリーズ最高傑作という人も多いなか、そのストーリーについては賛否両論あり、シナリオへ辛口の疑問を投じるブロガーもちらほら。
そこで辛口派の人たちのシナリオに関する疑問を整理しそれに答える、という企画をこの記事でやることに!
しかしただ本作の脚本を擁護するだけでも不足と思うので後半では逆に本作の脚本の弱点についても考えます。
ちなみに僕は龍が如くシリーズは、5、6、7、ジャッジシリーズ、8、の計6作品をプレー済み、今は8の二周目をプレー中。
本記事前半のキーワードは、9章のタイトル『うそ』と本作の主題『ありあまる富』。この嘘と富をシナリオ読解の結節点とすることでプレイヤーの疑問に答えつつ本作シナリオの核心に迫ります!
龍が如く8とは
題名 | 龍が如く8 |
発売元 | セガ |
ジャンル | RPG、箱庭 |
発売日 | 2024/01/26 |
発売一週間で世界売り上げ100万本を達成した日本を代表するゲームの1つ。
シナリオ考察とみんなの疑問
基礎的特徴
本作のシナリオは序盤で春日が全裸で逮捕されたり、春日の生き別れの産みの親である茜さんがなぜかハワイの反社に追われたりといった謎を提示し、その謎を興味のクリフハンガーに物語にのめり込ませる作りをしている。
そのため一つの謎が解けると新たに興味をひく謎が出てくる構成だ。8は、このような謎=欲望の設定が巧みで、それはシナリオを飛び越えてゲームデザイン全体にも当てはまる。ミニゲーム間の報償の連動など欲望の導線が巧みに練られており現象学的に人がゲームに夢中になる本質条件をよくとらえている。
みんなの疑問
僕がnoteや、はてブ、個人ブログ記事など色んな人の8の感想を読んだところ、シナリオ批判派の人たちには三つの共通する疑問があることが分かったのでそれを示す。
疑問1:なぜ裏切り者で鬼畜な英二に春日が甘いか疑問。
疑問2:なぜ海老名と春日の兄弟対決を避けて桐生と海老名が戦うのか疑問。
疑問3:春日がペラい博愛主義者になってしまったという疑問。
この三つの疑問を世の中の一部のプレイヤーは抱きがちだと分かった。この三つはシナリオ否定派の人のブログ記事などで異口同音に訴えられる傾向がある。
なので、この記事の前半では、この三つの疑問に答える形で、龍が如く8の脚本の核心とその魅力を掘り起こしたいと思う。
英二、ブライス、海老名、荒川、桐生、廃棄物
さて、最初に8の脚本読解の核心をなす布置を示そう。
英二=荒川真人(青木遼)
この対応については8のシナリオに辛口の疑問を投げかける人でも言及している人が多かった。
英二には車椅子、ブリーチジャパン、春日とのラストシーンと露骨な真人モチーフが記号的に詰め込まれている。
周知の通りラストシーンで足を怪我した英二を負ぶって刑務所に向かうのは前作のやり直しととれる。
前作で春日は真人をおぶって病院に行こうとするが間に合わず真人を死なせてしまう。この過去のやり直しが本作ラストで英二を助ける理由の1つなのだろう。またこれは荒川真澄が赤ん坊の真人を負ぶってコインロッカーをかけるシーンとも重なるかもしれない。
疑問1にとりあえず答えるなら、春日は英二に真人(荒川の欲望する息子=自己の理想像)を重ね、そのことで同性愛的な感情(愛他的譲渡)を抱き、英二に甘くなってしまった。
またこれは前作で真人を救えなかったことのリベンジ、過去の清算としての意味を持つ。
また、ラストシーンの描写を素朴に見た場合、英二との最初の出会いで春日が感じた友情や交歓、その感覚には嘘がなかった、だから助ける、というニュアンスが強い。
もっともこれだけでは疑問1への回答としては成り立たない。というのも、疑問1を提出するブロガーの何人かが異口同音に、『英二の内面描写が希薄すぎて、ラストシーンでは英二に真人を重ねて感情移入なんかできない』と書いているからだ。つまり英二=真人の脚本意図は理解しているが、その上で描写不足もあり、甘すぎる春日の行動に納得ができない、ということだろう。
なので、この記事では、そのことを踏まえて、さらにそれでもこの甘い描写の正当性をそのシナリオから読みとり、当疑問への再反論として提出したい。
ブライス=荒川真澄=桐生一馬
本作を読解するうえでこの対応は見逃せない。ブライスと真澄の対応は海老名の台詞からあきらかだ。
海老名は春日の真澄への憧憬についてブライスを盲信するパレカナ教徒とほぼ同じ、というシーンがある。
また桐生も大吾に「死んだことで桐生が元ヤクザにとって神格化(教祖化)した」と言われるため、このセリフから桐生=ブライスの対応が分かる。後述するが、ここに疑問2を解く鍵がある。
元暴力団=核廃棄物(ゴミ)
この対応もいうまでもなく自明であろう。原発が停止して行き場を喪った核廃棄物は、極道が解散して行き場をうしなった元暴と重なる。
この対応が示すもっとも重要な点は、本作で核廃棄物の問題も元暴の問題も解決しない点にある。これにいても後述する。
ラニ=遙
これについて一ついえるのは、この対応が形式的で記号的なため、つまりラニ自体についての描写がほとんど皆無のためラニは桐生の追憶を喚起する装置でしかなくなっている。これは後半で本作の脚本の弱点を考察するさいに重要となる。
理想=ネレ島=核廃棄物なき世界=元暴なき世界
この対応は実は本作の脚本を読むうえで重要と思う。じつのところ後述するがこの対応から本作はとても哲学的主題を扱っていると解釈する余地が大きい。
疑問2への回答①:春日と海老名
基本対応を示したので、さっそく疑問2について考えよう。
本来、脚本論的には海老名と戦うのは桐生ではなく春日、逆にブライスと戦うのは桐生がふさわしい。そのことは前項の対応からもうかがえる。
だからこそこの点について疑問を投げるプレイヤーが多いわけだ。かくいう僕もプレイしていてなんで海老名と春日のペアリングにしなかったのだろう?と不思議に感じた。
しかし、本作におけるラストバトルのペアリングのミスマッチは、それがミスマッチであるということに脚本的価値と主眼が置かれていると読解する余地がある。
そのことは9章のタイトル『うそ』に象徴的とも思う。
もとより龍が如く7から一貫する主題を思い出したい。それは、うそ、であった。
7では沢城の嘘が発端となり、本来は荒川の姓を継ぐはずの一番は春日の姓に、沢城の姓であるはずの真人は荒川となった。ここには赤ちゃんの取り違いというズレ、子と親とのミスマッチ、沢城のうそ、がある。
つまりラストバトルのミスマッチは前作から続く春日一番の物語における主題、うそ、ずれ、ミスマッチを象徴していると読解する余地もあろう。
といってもこの説明では誰も納得しないと思うので、このミスマッチであり、うそ、が8の脚本のなかでどのような役割を演じているのかを洞察し、この考察の妥当性を確かめたい。
結論を最初に言えば、表現と本音のズレとしての嘘、この根源的差異にこそ脚本家の意図があると思う。だからこそ本作の主題の核心を明らかとするうえで、この嘘は見逃せないのだ。
うそ、ズレ、ミスマッチ
本作の脚本で僕がもっとも評価したいのは、カタルシスを与えない構成だ。
つまり核廃棄物の問題は結局解決しない、それゆえ核廃棄物と等価関係にある元暴の問題も解決しない。
このことこそ本作の脚本的達成だろう。
というのも、もしもここで8の脚本家がとにかくゲームが売れさえすればいい、プレイヤーの満足度を高くしさえすればいい、という魂胆だったとしよう。
その場合、このような脚本はありえない。
海老名と春日のカタルシスある対決とブライスと桐生のスカッとしたバトル、気持ちよくズレのないシナリオとなり、場合によってはラストで元暴問題の解決の見通しが示され、春日は英二に対してワンパンいれるか英二がさらにゲスいことをしたあげく、墓穴をほって爆死というマッチョな感じになる可能性すらある。
じじつ否定派の記事では英二をラストで殴って欲しいという内容のものもあった。
つまり、カントの最高善における理想と現実の不一致を引用するまでもなく、本作には根源的なリアリズムがある。
この点、ジャッジアイズにおける現実の理想化というべき現実逃避のラストよりも本作はリアルといえよう。
※ロストジャッジメントではジャッジアイズのこの問題を克服している
ここにはゲームを現実逃避のための快楽装置とせず、プレイヤーが現実の矛盾と立ち向かい現実を生き抜くための物語として実現すること、そのための試みとして、うそ、ズレ、ミスマッチ、とそれによるカタルシスのなさが意図されているのではないか。
理想と現実、海老名と春日のペアリング、これらが一致すればカタルシスと享楽がえられる。しかし現実には理想と現実が一致することはない。
だからこそ本作では意図的にスカッとさせず、わだかまりを与えるようなペアリングや描写がなされているのだと思う。
このミスマッチによる不満や葛藤にたえることこそ現実を生きることの根拠ではなかろうか。それは桐生が理想的=英雄的な死より、現実的で平凡な病院での延命を選択したことの意味でもあるのだろう。
ラストバトルのシーンで桐生が生きることの意味を海老名に語ったセリフ「(人は)生きなきゃなんねぇ!白でも黒でもない灰色の道を!」もこのことをよく示すと思う。
そもそも僕たちは理想(白)と現実(黒)とのズレによって不満を抱き、その不満から、現実にはない理想を目指して生きる人間(灰色)となる。この現実世界が楽園(白)なら人は自ら考えたり葛藤したりする動機を持たず、死んでいるに等しい。
人は現実には理想がないからこそ、理想を胸に自ら考え生きるのだ。
だから理想と現実のズレが創り出す不満足こそが、僕たちの生の源泉。とすれば海老名と春日が出会い損ねるラストバトルのペアリングのズレ、それによるプレイヤーの不満足にこそ、本作の脚本の命脈があるとはいえないだろうか。
ぎゃくに言えば、現実にたえうる物語を紡ごうという意欲的な本作にあって、もしラストバトルのペアリングでカタルシスがあったなら、それこそあってしまっているゆえ本作の旨とは合わず、おかしなことに。
ミスマッチがマッチしマッチがミスマッチする、ここにこそ脚本の妙がある。
かつて高畑勲らクリエイターが問答したクリエイターの業と葛藤(アニメやゲームは都合のよい理想だけを見せ、大衆に現実逃避を与え世の中を悪くしているのではという自己否定)を正しく引き継ぎ、それに対するアンサーをいまの世代のクリエイターが出しているようにも思える。
だから本作は現実にたえうるだけの幻想(物語)の創出という作家の意に支えられてあるのだと思う。
僕は疑問2にあるラストバトルのミスマッチをこそ、このことの傍証としたい。
少なくとも、このように本作を読解することでプレイヤーが本作から得るものは少なくないだろう。
疑問3:春日の性格批判への回答
疑問3には海老名との対比で回答してみよう。
春日は全ての元暴の社会復帰という理想の実現に向け、現実と格闘する。(現実と理想のズレを生きる)
対する海老名はそれと対蹠的で、ヤクザ根絶という理想を抱きつつ、それが非現実的で不可能だと諦める人物として描かれる。
この光と影の対比もまた、前項で提示した、うそ、ずれ、ミスマッチ、を中心に読み解くことでよく了解できる。
春日は現実の矛盾に眼をそらすことなく、理想の実現にむけて邁進する存在として描かれるが、海老名は現実には理想が欠如おり、理想が不可能であることに絶望し、やけになる。
ここで両者の運命を分かつのは現実と理想とのズレ(うそ)に対する態度。
春日は妄想的に理想を現実化しネレ島を楽園と崇める狂信的態度でもなく、また海老名のようにこのズレに絶望して自暴自棄となるのでもない。
春日を支えるのは、この世界の根源的なズレであり嘘に対する寛容なのだ!
とすれば、本作の春日が裏切り=嘘に関して寛容な理由も了解できよう。つまり春日の寛容は、現実の理不尽や矛盾にも関わらず、理想をめざすことができることの根拠の描写となる。
であるとすれば本作の春日に対する思考停止の博愛主義という批判は的をはずしているのではなかろうか。
むしろ、宗教的隣人愛=博愛主義というのは現実と理想の混同でありネレ島への熱狂に表象されるモチーフであって、春日のズレをこそ基調とするリアリズムな寛容とは異質と考えられるからだ。
余談だが、紗栄子と春日との気持ちの行き違いもまた本作のズレであり嘘の主題をうまく表象しているかもしれない。
ズレているからこそ一致を求めるし、そうして気持ちが一致したからこそズレてしまう。
※プロポーズの意味は、本作の主題、ありあまる富と密接に関わるので後の項でまた触れます
ところで本作は春日のプロポーズ失敗からストーリーが始まり、その結婚観が内省され、エンディングでは新たなプロポーズ(結婚観、恋愛観)が提示される。
そんな春日の最初のプロポーズはたんにジェンダーポリコレネタの仕込みではなく、現代日本人の結婚観への痛烈な批評をなす。
紗栄子の絆ドラマをクリアするとこのことはよく分かるが、本作が批評するのは女性が経済的な打算から男性を選び結婚することを前提とする両性の結婚観だ。
春日はプロポーズで、自分と結婚すれば働かなくても経済的に安定した暮らしを約束し、家事や育児への参画など多彩な経済合理的メリットを提示するが、このプラグマティズムにこそ紗栄子は怒った。
ちなみに日本では統計上、年収の高い男性と年収の低い女性しか結婚できない傾向が極めて強い。
このような歪みはお金のみを富として依存する結婚観の蔓延をよく示す。日本において女性とは金で買う商品に過ぎない。
本作における冒頭の春日のプロポーズも紗栄子の絆ドラマでの金持ちからのプロポーズもともにこの結婚観を前提とし、本作はそれをこそ批評する意図がある。
本作は結婚観の他にも告発系YouTuber問題やヘイト問題、元暴5年条項など今日の日本社会のゆがみと徹底的に向き合うことで、脚本が創出されている。ここにもまた現実と向き合う物語としての強靱さをくみ取ることができよう。
疑問1:なぜ春日は英二を助けたか
鬼畜の英二をラストで救済する春日の態度は以上から嘘やズレへの寛容として読解できる。
つまり本作では現実の現代社会の問題の根源をおそらくはある種の不寛容さに見出している。
とすると春日の甘過ぎる性格やラストの英二に対する態度の理由もわかりやすい。
昨今は告発系などネット上で正義にもえて他者を粛正する正義マンの問題があるが、こうした不寛容や純粋な正義=純粋理想への拘泥(海老名的態度)から生み出されるネットリンチについて、これが理想と現実とのズレに対する不寛容にあると見抜き、そのことで英二のラストシーンが着想されたのかもしれない。
春日が英二や千歳に甘くなったのは、かくしてズレ、嘘への寛容を主題化つつ、そのズレの効果であるフラストレーションをプレイヤーに与えることで作品を完成させようという狙いがあったと考える。
疑問2への回答②:春日とブライス
さて、じつは春日と海老名が戦わない理由は他にもある。それはブライスと春日が戦う理由=必然性を紐解くことで明らかとなる。
その前に英二が死なず、ブライスも死なず、桐生も死ななかったことの意味を読解したい。
この意図の一つは前作の反転であり前作における春日の後悔をはらす取り返しにあるのかもしれない。
しかしそれ以上に重要な意図は、理想的で英雄的な死より、現実的生を称えようということだと思う。
以上で疑問こたえるための必要な話はしたので、疑問②への最終回答を示す。
春日は死を選ぶブライスを生かし、そのことでカリスマ教祖の座から引きずり下ろす。ブライスなしの世界で核廃棄物や元暴の問題を引き受ける春日の態度は、桐生一馬という死に急ぐ英雄を生かすことで、桐生を主人公から引退させ、桐生に頼らずに龍が如くシリーズを続けてゆくことにリンクしているのだろう。
春日への敗北から核廃棄物の奈落へ飛び込み自決を試みるブライスをつかみ、無理矢理引っ張り上げて死なせるわけにはいかねぇんだよ!と言う春日の姿は、末期癌の治療や療養を拒絶する桐生に病院での治療を促す春日と重なっている。
※ブライス=桐生=荒川のオヤッサン
そのため春日は海老名ではなくブライスと対峙する必要があったのだ。作中の大吾のセリフにあるように死ねば神格となる。元暴にとって桐生の死がブライスのような神格化(教祖化)を意味していたのを思い出そう。教祖ブライスとは彼岸の存在であり究極の理想、その意味で桐生と同じ生ける死者であった。
※元暴にとっての死んだ桐生=神、パレカナ教徒とっての彼岸のブライス=神、春日にとっての死んだ荒川=神
だから本作が描く生とは理想的な神ではなく現実的でうそを孕む人間として生きるということなのだ。
というわけでブライスVS春日のペアリングは、本作が現実の矛盾に耐えうる生の物語をなすことに加え、そのことにオーバーラップさせる形で、龍が如く8のクリエイターがこれから桐生なしでナンバリングを重ねることの、その覚悟の表明となっているに違いない。
ちなみに古典派ユング心理学的なモデルを適応すれば、海老名と春日、ブライスと桐生は互いに互いの影をなし、その統合のため、両者は自身の影と対決しどちらかの影が死ぬ、というシナリオが要請される。
にも関わらず、本作ではブライスと春日のミスマッチなペアリングにこそ意味を生じさせており、しかもイニシエーション的な死を否定することで生のイニシエーションをなす、この脚本はあきらかに攻めている。
※河合俊雄でいうイニシエーションの否定による弁証法的イニシエーション、近代型の物語といえる
ありあまる富
さて最後に本作の明示的主題であり最終章のタイトルで主題歌でもある『ありあまる富』の本作における意味を確認したい。
やはり8を語るうえでこれは欠かせない作業だろう。
曲の歌詞を確認したいのだが、歌詞の著作権がどうなっているのか知らないので歌詞を僕が勝手に意訳、要約した内容をまず示す。歌詞について知りたい人は椎名林檎 ありあまる富 歌詞と検索すると歌詞を確認できるぞ。
僕によるいい加減な歌詞の要約
本質的富はお金ではなく人間の生にある。なのに大衆はお金という富にとりつかれそれを奪いあう。しかし本質的富である生の富は物ではないから奪うことも壊すこともできない。
なぜなら生の富は唯一無二で単独的であるから比較したり、お金や物のように数えたりはできないからだ。
なのに世界は富に飢え不幸だという。
そもそも全ての価値も個々の生に相関してついているというのに。
また言葉とは必ず嘘(ズレ)を孕む。人は何かを語るたびズレてしまう。
生に宿る富は奪えず数えられず、それでいてつねに実感されるものであるから、原理的になくなることがなく、その意味では無限、ありあまる富である。
歌詞の6割くらいは要約できたと思う。すこし強引な解釈もあるかもだが、椎名林檎のコト表現としての歌詞を十全に要約するのは不可能なのでこれで容赦して欲しい。
まず、本作における春日と紗栄子のプロポーズに示される、結婚という生の富の共有を経済的富と混同するあり方への痛烈な批評は、ありあまる富の歌詞にぴったり嵌まると分かるだろう。
だから、プロポーズのくだりは、たんなるコメディリリーフではなく、本作の主題、ありあまる富に密接に関連している。
次に、この歌詞でとりわけ重要なのはなのに世界は富に飢え不幸だというメッセージにある。
これは、お金的な富と生の富とのズレとして生じる現実の不満足、不幸を示すと読解する余地がある。
またこの根源的差異のために言葉は嘘を孕むことになる。言葉とは必ず嘘(ズレ)を孕むというニュアンスの一節が歌詞にあるのもこのためだろう。
これを理想と現実との差異、生の富とお金の富との差異として、価値論的差異と呼ぶこともできるだろう。
少々強引な読解に感じるだろうか。
しかし、もしかりに本作と無関係に椎名林檎の歌詞を深層心理学的、ないしはハイデガー存在論的に読解した場合も、誰が読解しても、ぼくの読解と似たり寄ったりにならざるえない、と考える。
だから、本作は椎名林檎の歌のメッセージの核心を8のシナリオライターが豊かに受け取っているようにも思える。
たとえば歌詞にある、価値は生命に従って付いている、という一節は、これだけで実存主義的な存在論、時間論の肝をストレートに表現するように思う。これについては現象学とかハイデガーを知っている読者にはよく分かるだろう。
ちなみに僕は思想的には実存主義者にあたるだろう。だから僕の立場から言えば、ありあまる富、を主題化し価値論的差異に生を見出す8の物語は絶賛せずにはいられない。
脚本の問題点について
さて、こんどは疑問を擁護してみたい。
疑問1では多くのプレイヤーは英二=真人の対応に難色を示し、それを英二の描写不足に起因すると主張する。
するとこの問題はラニ=遙のあまりに記号的過ぎる対応の問題と同根だと分かる。じつはこれと同じ型の批判で炎上したゲームがある。
ゲーマーならご存知だろうラスアス2だ。ラスアス2でも形式的に前作の人間関係(布置)をトレースしたために、感情移入できず炎上が起きた。
つまり英二もラニも主人公の追憶のためだけの装置であり、一人の独立した人格を持った人物としては描かれない。このことが問題なのだと思う。
ラニと英二は最初から主人公らの過去の清算のための道具として箱庭に設置された記号に過ぎず、生きた人間(コンプレックス)として独立した魂をもっていない、いわば書き割りのような記号的人物となっている、といえなくもない。
もっとも英二の描写が足りないからこそ、いい意味でカタルシスを欠くことができている面もあるだろうが。
ただラニに関してはマクガフィンでしかない。遙を指示するだけのシニフィアン(表象)だ。僕もプレーしていて桐生がラニに遙を重ねる演出シーンの記号的露骨さと唐突さに、戸惑わなくもなかった。
このような傾向は本作の脚本を全体的に特徴付けると思う。全般に形式的に対応を示したり、具体的なセリフで直接に布置を説明するシーンが過剰過ぎると感じた。
僕はこういうタイプの脚本を形式優位の脚本と呼ぶ。形式的な構造は緻密ながら、形式構造にかまけて肝心の現実的描写を欠き、そのことで人物が奥行きを喪い記号化する、この現象はゲームシナリオに限らず映画やアニメなど多くの作品に見られる。
たとえばゴジラ-1.0などはこのタイプのもっとも最悪の見本だと思う。
さて、本作の疑問のもう一つもこの点に集約できるだろう。
疑問3:春日の博愛主義は、春日というキャラクターが表面的に見えてしまうことに起因するのだろう。
本作を思い返すと春日は確かに少し超越的(元型的)で、人物の厚みにやや欠けるきらいがあったのかもしれない。
嘘がテーマでありながら、春日自身には嘘がないのだ。ズレないブレない嘘のない春日自身がギリギリの選択を迫られ葛藤し、本来の自分からズレていってしまう、本作ではそうしたシーンがあってもよかったのかもしれない。
万人を納得させられる脚本など存在しないのでこれはなかなか難しい問題だろう。
最後に疑問2、ラストバトルのミスマッチについては僕が上記した読解においては擁護するのは難しい。この主題でカタルシスを与えることには疑問が残るので、やはり春日と海老名はすれ違うだけでよかったのではと思う。
なにより春日と海老名が戦うシナリオだと、まったく教科書通りの紋切り型の脚本となってしまい、安パイ置きました感が強くやはり評価できない。
おまけ:ゲーム史とターン制RPG
龍が如くは7で、桐生から春日へと主人公がチェンジし心機一転するさいにアクションゲームからターン制RPGへとゲームジャンルがシフトした。
これには激しい賛否両論がある。僕はコアなゲーマーなのでアクション派なのだが、しかし、当時から僕はRPG化には賛成だった。
いつまでも同じ事してるとクリエイターが育たないしゲーム文化が腐って死ぬからだ。
ここではゲーム史からこの問題に触れたい。
一般には、近年のゲームの潮流として、野球からサッカーへの移行が起きているとされる。もちろん野球はターン制RPGに相当する。
対するサッカーの特徴は二つある。一つはリアルタイムなアクションバトル性、もう一つは観客と選手双方が遙か上空からの鳥瞰図的な視点をもっている点。
サッカーは選手が広大なフィールドで敵味方の位置とその流れをリアルタイムに把握せねばならないので自分を含めてフィールドを鳥瞰する意識が要請される。
ここで野球⇒サッカーへの移行がもつターン性⇒リアルタイムは、昔のコミュニケーションが手紙や電子メールなどのターン性であったことに関連するだろう。
現代はラインなどのリアルタイムチャットが基本で、チャットは文字でありながらリアルタイムな会話に近く、ターンはきまっていないし、リアルタイムだからこそ既読スルーが問題となる。
メールのようなターン制ツールでは既読スルーなど生じない。
つぎにサッカーの鳥瞰的な自己俯瞰意識だが、これはGoogleマップなどの普及が分かりやすい。
また現代人はつねに自己の写真や考えをアップし、リアルタイムでフォロワーからの評価をもらい交友する。自分はつねにネット上のアカウント=アバターとして自己により俯瞰されているわけだ。
つまりネット社会が電子メールからラインやX、インスタなどのリアルタイムで自己鳥瞰的なコンテンツにシフトしたことが、野球からサッカーへと人気が移行する理由とリンクしているのだと思う。
するとスクエニなどのRPGゲームのメッカが、ゲーム性にリアルタイムなアクション性を導入する理由も、野球⇒サッカー、メール⇒ラインへの移行と関連していると分かる。
よってターン制RPGはプレイヤースキルをあまり問わないので敷居が低く、新規ゲーマーの開拓には有効だろうが、しかし時代的な要請とは反する面がある。
だから龍が如くでは、今後、ターン制RPGのゲーム性にどのような改良を加えるか、ここも見逃せないポイントとなるだろう。
またペルソナシリーズなどターン制RPGでも世界的ヒットを飛ばすゲームもあるから、まだまだターン制も捨てたものではない。
終わりに
本作のタイトルにはサブタイトルがない。
欧米版ではInfinite Wealthというサブタイがついているらしい。
直訳すると、無限の富、ありあまる富。
さておき、本作はネタの作り込みが秀逸でライムスター宇多丸のラジオネタはとくに趣向が凝らされている。
うみねこ座の映画ポスターにある、シャークバカンスなどの架空の作品について映画評論するネタなどが入っていて宇多丸のリスナーにとって最高のネタとなっている。シャークバカンスのモデルは温泉シャークかも。ともかく宇多丸ネタはメタフィクション的で面白い。
まさか宇多丸がダンジョンのボスにまでなっているとは。
ちなみに当ブログのうたまるは宇多丸が元ネタ。そして宇多丸の元ネタは歌丸である。宇多丸自体が歌丸のパクりのようなので、ならパクってもよかろうとパクったのが、うたまるブログだったりする。
この記事、いつもの考察に比してやや凡庸となってしまったのが心残りである。
最後にこの考察解説記事の解説を示して終わりにしたい。
今回は作品への批評に反論するだけでなく擁護もしてみた。絶賛しつつ批評にもよりそったのは、本作で桐生がいう「灰色」な感想を実現するため。
またこの考察記事では脚本家の意図に焦点した。じつはこのこと自体が、本作におけるような理想と現実とのズレと相同性をなす。つまり表現された作品(8)とその作品の意味(作品表現の源泉となる作家の意や情感、感性)とのズレを開き、その一致を動的に目指す欲望の産出を促す構造をしている。
つまりこの記事が作品の背後に隠れる作家の意をめがけるという構造それ自体が、本作の『うそ』の主題であり脚本の主題とリンクする。
さて現代人を特徴づける価値観に作家の死という概念がある。
作家の死はデリダの音声中心主義批判による形而上学批判の要であり、エクリチュール論に出てくるのだが、それは言語や作品から作家の魂(発話者の意)を抜き取ってしまう。
つまり作品とプレイヤーだけがいて、作家の意(意味作用)は作品とは関係が無く、それゆえにその評論、レビュー、感想といった作品の意味の読解は全て個々のプレイヤーの自分勝手な解釈だ!というのがデリダであり現代人の発想の基調をなす。
このことを言語論的に換言すれば、言語とは客体化した言語記号と読み手だけがあり、フッサールがいう意味作用のような発話主体の主体性は言語表現には欠けている、というのが現代社会の基礎的価値観を構成している。
するとこの記事のように作家の意をめがけることができない。
そのために現代社会は差異が形成されず、海老名と同じ諦観主義やブライスのような誇大妄想に支配されてしまっているのだ。
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