うたまるです。
最近、久しぶりに『時間と自己』を読み返し、改めて時間について理解が深まったので、時間と自己の時間論について、とりわけ面白いところを解説します。
といっても既に時間の基礎については当ブログの未来予測記事で既に解説しているので、既に解説済みの内容は省略します。
というわけで今回の記事はこういうの好きな人向けで、まったく時間について知らない人にとっては難解です。
どちらかというと時間と自己をすでに読んでる人や、ハイデガーとかをかじっていてある程度内容を理解している人向けの記事です。
時間の基礎:ことともの
さて、流れるところの時間は客観的にあるのではない。時間すなわち物体の運動・変化の流れを客観的に捉えるとゼノンの飛ぶ矢のパラドックスに陥ることはすでに当ブログの他記事で示した通り。
しかし時間とはアリストテレスが指摘するように物体の運動について言われることが多く、時計もまた針の運動として時間を記述する。
このことから時間は客体化であり空間化を蒙っていると分かる。このような空間としての時間や空間的な対象一般をものと呼ぶ。
ベルクソンが時間とは空間的に表象されるものでなく、純粋持続にあるといったのは有名だが、しかし空間性から完全に解離した純粋持続とは、いわば永遠の今であって過去や未来を形成しない忘我状態に他ならない。純粋持続としての今を木村敏は純粋なことという。
今の無限の広がり、たとえば景色に魅了されて恍惚となり景色と未分化の世界一体の状態、西田でいう純粋経験の最中、こうした意識自身が意識されぬ状態は永遠の今であり、原時間である。
しかしこのような状態は今までも今からもなく、永遠の今の相であり今は今として意識されず、一般に過去、現在、未来と流れる時間性を構成しない。
したがって原時間としての純粋持続は厳密には時間とは言えず、そこから時間が析出する時の源泉に過ぎない。
日常の覚めた意識で、いま何時か、を確認するとき、ここでは何のために、とか、後どれだけの猶予があるか、ということが意識されている。
つまり、いまとは~のために、~までに、という自己の目的意識などの実存と不可分であり、その意味で今とはつどの自己である。
たとえば、今はまだそのときではない、という場合、これは文脈によって長さが変る。カップ麺を待つときであれば今とは3分間の広がりにあり、まだ受験のときではないといえば今は一年間くらいだったりするわけだ。この例からも自己主体であり自己ということが今と呼ばれているのが分かる。
また今とは今までと今からの極性を持ち、つどの自己の自己への欲望によって伸縮する広がりである。むしろ、永遠の今より流出するつどの欲望が永遠の今を自己性のもとに限定することで、今までと今からをつど析出している。
純粋なこと(自己意識)が、決して意識されえないように、覚めた意識がことをこととして対象化=もの化するには、ことはものによって表現されねばならない。
たとえば、古池や蛙飛びこむ水の音、という句も、ものの表現によって、ものが醸すことを伝えている。
このことは対象がこと(差異化)としての欲望によって対象化されることを考えると分かりやすい。
ものはことによって対象化し、故にものはことを宿すわけだ。
このような対象であるものとこととの存在論的差異の関係から、時間とはものを蒙ったことであると分かる。永遠の今のような純粋なことは時間とはいえず、ものの変化・運動として、ものに宿る力として時間の流れが構成される。したがって時間とはこととものとの存在論的差異の同一によって構造化されている。
※存在論的差異とは存在者の存在と存在それ自体との差異を示すが、簡単にいうともの=空間とこと=流れとしての時間との差異の同一の構造を示す。そのため存在論的差異とは対象化するところの欲望=存在のこと
また欲望=存在論的差異(もの化へと向かう不純なこと)とは、言語では述語に対応し、ものは主語に対応する。
たとえば、目の前のステーキは美味しそう、という場合、目の前のステーキは空間的にある対象=ものだが、これは美味しそうという欲望でありことによって対象化されていると分かる。ここで美味しそうという食欲は述語面をなす。
ようするに食欲とかそういうこと性が目の前のそれを食料としてのステーキとして対象化・もの化しているわけだ。もし満腹であればステーキはこのようには対象化されず、写真のモデルとして美しいステーキとして対象化されたかもしれない。
かくしてものとはこと=欲望のつどの志向性によって、具現しそのあり方を決定する。
※ことともの、ノエシス的とノエマ的とは相互規定関係をなす
デリダとハイデガーの時間
時間の過去、現在、未来の不可逆の向きの成立、今が過去と未来により寸断されること、これらは永遠の今からの個我の分離において可能となる。
このような分離は私が私の意識を意識することにおいて生じる。
そしてこのような自己が自己の意識(今)を自己に限定する営みは言語によって可能となる。このような意識を意識自身が自己として意識することにおいて存在論的差異は構成される。
たとえば、美味しいそうなステーキ、であれば、美味しそうということが私の自己意識として意識されることになる。
ここでは美味しそうということが、私はそれを美味しそうと思う、というもの(私)としての自己に同一されている。
あるいは美味しそうということを示す言葉そのものがもの(シニフィアン)である。
こうして自己ということは自己というものとの存在論的差異を構成しつつ同一されることとなる。
この差異の同一における裂け目を構造主義的に論じたのがラカンの精神分析だったりするがそれについては割愛する。
このような個我の分離による存在論的差異の成立にともなって自己性としての時間は、ものを蒙ったこととしての、つまり不可逆的な向きをもつ過去、現在、未来へと流れるところの時間を構成する。
このとき時間は自己触発としての現在によって構造化されることとなる。
自己触発とは自己が自己に関係すること、つまり私が私を意識すること、意識する自己とされる自己との差異の同一としての存在論的差異の構造をなす契機をいう。
ようするに、美味しそうなステーキを感じる現在=今の生起であれば、美味しそうと思う私、としての私に私が関わることを示すわけだ。ことが言葉によって表されるとは、ことが私(主体)というものに同一することを示す。
時間と同じく本来は主体としての主語=私もまたことに属していおりものではないが、私という主語=ものによってしか私ということは対象化=意識されえない。
これはこと=自己が私という主語化=もの化を経て、自己が自己に関係することを示す。流れとしての時間が自己であり、時間とはもの性を蒙ったことであるわけだから、必然、時間とは自己ということと自己というものとの自己関係としての自意識であり、自己触発をその構成とするわけだ。
わかりやすくまとめると、不可逆的な時間の成立とは、自他未分の永遠の今の自己限定であり、この限定を自己触発という。永遠の今が今までと今からに引き裂かれることが個我の分離であり存在論的差異の成立なのだ。
そんなわけでハイデガーも時間を自己が自己自身に関わることだという。
※木村の時間論はラカンの理解にも役立つ、たとえば父の名とはポストフェストゥム的な公共時間に対応し、この場合、レマネンツをベースとする鬱病は神経症水準=分離以後の病態として理解できる可能性もあれば、公共時間からの欠如の不在=父の名の不在に従属する主体と解釈することもできると思う
※余談だが僕の最新の考察では鬱も父の名の不在と考える方向で理論化してる、以前は発達障害との違いの説明のために神経症水準で考えていたが考えが変った。ちなみに発達障害は統合失調症とは関係なくポスト鬱病かつポスト神経症というのが僕の理論である。対する統合失調症はオルタナティブな神経症。このような理解は木村理論とラカン理論を統合することで可能となる
そしてこのような自己触発=個我の分離以後における時間の地平を論じたのがハイデガーとデリダである。
まずハイデガーは今を現存在の投企による将来からの自己の到来としてとらえる。つまり自己触発としての時間を将来の自己の到来にみるわけだ。これは客体=存在者が現存在の歴史性=被投性に基づきつつ、目的性としての将来性をもつことを考えると分かりやすい。ハイデガーでは存在者の被投性よりも投企に焦点があるのだろう。
対するデリダは今を構成する自己触発の一般的モデルとして、独り言を考え、ここから差延を自己触発の本質契機として取り出し、自己性=今を過去の痕跡として記述する。つまりハイデガーでは将来の到来に求められた自己同一がデリダでは、そのつどの過去の痕跡の把持に求められる。
簡単にデリダの考えを示す。
※デリダについては僕はまったく詳しくなく木村の本にある断片的な説明のみに頼り、自己流で解釈しているため説明が不適切な可能性がけっこうあります
デリダは独り言という自己の声を自己が聴くという契機に自己の現前であり現在性を取り出す。
しかしこのような自己の現前としての現在の瞬間には、すでに非現在が闖入している。つまり過去把持と未来予示があるわけだ。
たとえば綺麗だなと思ったとき、それ以前の綺麗でない状態からの差異として綺麗という今が現前するわけだから、綺麗という現在には過去の記憶痕跡が闖入しているわけだ。
さらに、綺麗だな、と思ったとき、ここでは綺麗だなという想念はそれが現前したときには綺麗だなと思った、ということが主体のアクチュアルとなる。
つまり言葉とは意識が意識を意識することなわけだから、つねに遅延があって、意識を振り返っているので、意識内容は意識されたときには過去となる。
このような意識のアクチュアリティが内省によってずれ込み過去の痕跡となることを差延と呼ぶのだろうと思う。
かくして今=自己とはデリダにおいてはつねに過去の痕跡となる。この痕跡を自己として保持することで自己同一が可能となるわけだ。
※竹田青嗣は、デリダにおける現在=今の今性の否定はフッサール現象学の否定を目的としたレトリックであると指摘をする
※そのためデリダが過去の痕跡を自己触発の本質契機する理由は、時間の今を空間化しているためだと思われる
デリダとハイデガーの双方は個我以降の時間を時間として捉え個我以前の父母未生以前や不立文字における今=純粋持続を問わないという弱点がある。
たとえば、癲癇におけるグランマル=大発作が開く永遠の今としての時間の体験を考えるとこのことはわかりやすい。
癲癇の発作はそれを目撃した人の時間意識すら葬ることが知られている。
グランマルの時は日常的な時間性から断絶された無時間の今、死としての根源的今が露出する。そのため時間感覚が機能せず、あとからその瞬間をふりかえっても発作が何秒だったのか何分だったのかすら分からないことが多いという。
このような裂け目としての、ものへの志向性を喪失した今においては差延など存在しえないだろう。
それ以前の日常性の闖入だとか記憶痕跡とかは考えられない。というのも日常の時間とは何の連続性もないからだ。つながっていないものは闖入することができない。
つかのまに永遠が現生するのであってそこに差延はない。
※余談だが木村とラカンの関連を示すと、象徴界の時間=シニフィアン連鎖は時計の時間であり公共の時間である。対するアンテフェストゥム的な一回性の時間とは断絶であり死、去勢、疎外の瞬間であり隠喩の瞬間である、またこれはイマジネールな時間=妄想性隠喩に相当する側面もあるだろう
死と時間とアリストテレス
空間性を蒙る自己関係としての時間、過去と未来との極性を持つ不可逆性を持った今=時間の成立が死によって生じることをここでは解説する。
物理学において理論上は時間は対称的であり不可逆の向きを持っていないという。にも関わらず物理学の世界でも通常は時間は不可逆的に流れると想定される。
たとえばエントロピー増大の法則などはとりわけ時間の不可逆性として論じられる。
しかし、厳密には客観的時間は流れを構成していないわけだから、不可逆の過去から未来へという向きを持っていない。
このような向きが物理学において想定されるのは人間主体の観測行為において以前と以後が措定されるからに過ぎない。
つまり人は観測するとき対象の状態の変化を分析する目的で、観測対象の初期状態を観測開始し、つぎに観測終了時点までを観測記録する。
この人間の目的意識によって非連続の観測記録は一連の不可逆の連続性をもつ流れとして時間を構成するわけだ。観測によるコマ送りの像に向きを与えるのは人間の主体性でしかない。
ゼノンの矢のパラドックスを考えればこのことは簡単に分かるだろう。
いかにエントロピーの法則があろうとも、時間の連続性の成立は人間主体の主体性であり、この場合なら観測対象の道具的な機能の発現プロセスを捉えようという人間の気遣いなしにはありえない。
また、以前と以後とによって永遠の今が有限の今へと限局されること、これによって不可逆の流れが可能となっているのが分かる。始点や終点のない時間には向きを措定することができないわけだ。
さてアリストテレスの自然学における時間の定義に、より前とより後という観点から観られた運動の数が時間である、というのがある。
※運動の数とは各時点の静止空間としての今の数のこと、つまり経過を今のコマ送りと捉えている
アリストテレスは時間を空間的な運動として捉えようとしており、徹底的にゼノン的に時間をもの化する立場をとる。そのためアリストテレスは時間は存在するのかしないのか、という問いについて考え、これを解決不能のアポリアとしてしまう。
つまり未来はまだ来てないし、過去はすでに過ぎ去って存在しないから時間は存在しないように思えるが、今は現にある。
しかし今は変化していて、その変化のためには今は消え去って次の今に変わらねばならない。
ところが今は過ぎ去ったときには異なる今となるから今は今のうちにおいては消え去ることがない。これはアポリアだ。
というニュアンスのことをアリストテレスはいう。
このようなアポリアは時間を自然科学=自然哲学の対象と見なす誤謬から来ているのは言うまでもない。時間の本質はことなのだからものとして捉えてもアポリアに陥る。
ハイデガーはアリストテレスの時間の定義について、より前とか後という規定自体がすでに時間性を持っているのだから、アリストテレスは時間の地平において時間に出会うといっているに等しい、というニュアンスの指摘をする。
そして時間において時間にあうというとき、この二つの時間は次元が違うと見破るのである。
つまり観測における以前と以後ということ的、実存的、主体的というべき時間において非連続の空間としての今に流れが生成される、という具合に理解できるわけだ。これは実存時間と客観時間との関係を指摘している。存在や気遣いにおいて存在者があるということにも相当するだろう。
時間を自然哲学の対象と見なしたアリストテレスに対して、時間の本質を純粋な哲学(人文領域)へと還元してアポリアを解いたハイデガーの功績は大きい。
さて、そんなわけで時間における今を限局する前と後、始点と終点、こうした今の分節は自己の有限性に起因する。
つまりこと的な主体が自己身体という有限性に限定され、身体が生理学的な死という有限の時をもつこと、このことによってことが自己ということとして限定され、存在論的差異のもとに終わりが規定されることで、時間に不可逆の流れが構成されるのだ。
もし人間が死なないなら、時間には終わりがなく、向きもなく生成流転するだけの時と化すだろう。
不可逆の時の成立は、ものとしての身体の死が、こととしての主体の死との差異を同一し、時間が空間性を蒙る(時間が空間に代理表象される)ことで、つまり個体の死の獲得において生じるのだろう。
余談だが当ブログの未来予測記事では人類から心理学的な次元の死が消失しつつあることを示した。それゆえ人類が不老不死となるのは時間の問題だろう。
理論上は脳の培養と脳間での意識の完全な並列化さえできれば不老不死は可能である。
未来の人類は循環する時間において主体の解体した遍在する無限の存在へと至るのではなかろうか。もちろん不老不死となれば、子供を産む必要がないから、その世代で完結する。
すると不老不死の人類の完成は、それ以前の人類のすべての命が、その世代を完成させるための演習過程で生じた人身御供ではないだろうか。
ちなみに僕は中学生のころ、人類は未来に不老不死(永遠の世代)になって完成するから、それ以前に生まれた人は不老不死に至るためのゴミでこの時代に生まれた人間は全員貧乏くじなのに、この現実を認めず、不老不死の到来を認めないのは哀れな現実逃避だ、と考えていた。
ともあれ、言語による個体の死の獲得、あの世の彼岸化における幻想構造の分離など、死は時間の構造化や国家の成立においても決定的な役割を演じており考察に値する概念と思う。
時間のモデル、疎外との対応表
最後に、僕が思う簡単な対応表を示したい。以下の表はラカンの疎外のマテームをベースにかく哲学の用語をそれに対応させたもの。ただし簡易的な対応を示したものに過ぎず厳密性はない。たとえば木村の概念とも合ってない。
木村では無人称の表象以前のことからS2やS1へとノエシス的→が向かう図になるので、以下のラカンのマテームにはうまく対応させることができない。
また欲動を示すだろう想定的な〈物〉→ S1がラカンの疎外にはあると思うのだが面倒だからそれは割愛した。
といってもラカンのマテームに対応させると理解するのに便利であるのは間違いない。何か関連する新しい概念を知ったらこの対応表の枠組みに落とし込むと分かりやすくなると思う。
S1 | → | S2 |
ノエマ (木村) | ノエシス的 (木村) | ノエマ |
感性 | 構想力 統覚 | 悟性 |
死 | 欠如 | 時計時間 |
今 | 欲望 | 同一律 |
存在論的差異 | ||
今 |
※ノエマはフッサールのと木村の両方
終わりに
時間と自己は僕が読書を始めた最初期に読んだ本。
そんなわけで最近読み返して、あらためてその内容の深さに感動した。本書はわかりやすく簡潔に時間の総合的な論理を解説しており不朽の名作である。この本は世界的名著。
またサルトルやキルケゴールの難解な自己関係論を引用してその意味をこれでもかというくらい理路明瞭に分かりやすく示す本書は文系門外漢にとってありがたい限りの内容だと思う。
さらに鬱病時間を知られる共時性として生きられる共時性=永遠の今の補填として捉える論考も面白い。
そんな木村の時間論の特徴はイントラフェストゥム的時間への着眼と重視にある。
しかしなによりも素朴に特質すべきは、基礎的な話かもしれないが、この記事でもフォーカスした、時間がことでありながらもの=空間性を蒙っていることでしか時間たりえないという洞察であり、ベルクソンの時間論への鋭い批評である。
ここが分かると自己限定としての今や存在論的差異とラカンの欲望の議論も分かりやすく、色んなことが見えてくる。
やはり木村敏の魅力は非常に現象学的に優れていて、しかもかなり理路明瞭な点にある。根源的な理論を提示しているので汎用性が高く、ラカンをはじめ色んなことの理解のベースとなる。本当の教養書とはこういう本のことをいうのだと思う。
人文知の本というと歴史的な暗記知識を要求されることもあり、そうした本を読むのは僕はいまだに苦手。
木村の本は理論が中心で歴史だとかの話はほとんど出てこないので読みやすく面白い。
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