※この記事はスパイダーマンアクロスザスパイダーバースとスパイダーマンスパイダーバースのネタバレを含みます。また本記事は作品の意味を分析するものであり、それゆえに一つの解釈です
うたまるです。
今回はアクロス・ザ・スパイダーバースを映画マニア向けに深掘り考察、解説してゆきます。
この記事の特徴はマニアックに分析する点です。他では絶対に聞けないここだけの考察と解説を展開します。スパイダーバースシリーズが何をしようとしているか、監督の野心についても考察してゆきます。
デリダやドゥルーズといったポストモダニストの論考が本作の分析では避けられないというが僕の考えなのでそのことを一般の読者にもなんとか分かるように解説できたらと思います。
基礎情報
ここでは本作のストーリーの隠された意味を分析するにあたって抑えておきたい情報を簡単に示す。
ピーターパーカーと誤配
本作はスパイダーバースの続編であり、物語は中途半端なところで終っている。
さて前作スパイダーバースでは、キングピンの量子加速器の実験のため異世界から多様なスパイダーマンがやってくる。ペニーパーカー、ピーターポーカーといったピーターパーカーをもじったバッタモンのようなスパイダーマンらの登場は新鮮である。
こうした演出にはスパイダーマンシリーズがフランチャイズ化し様々なメディアで展開してきた背景がある。スパイダーマンはこれまでにアニメ、映画、漫画、ゲームといった形で多様にリブート、リメイクされてきた。
そのことでスパイダーマンは複数のスパイダーマン作品の集合(スパイダーバース)を意味するようになる。そんなスパイダーマンをめぐる社会的背景がスパイダーバースシリーズではメタ的に織り込まれているわけだ。
さて、前作ではピーターパーカーをもじったスパイダーマンが登場したのだった。このようなピーターパーカーという名前が伝達過程で誤字脱字を含んで違う名前に変ってしまう伝言ゲーム的現象、および誤った人に伝達される現象をデリダは誤配と呼ぶ。
またデリダの誤配はフロイト的な父子関係における世代間伝達の正統性(正しい配達)を否定する目的をもった概念であり反ファルス主義、反プラトン主義とも呼ばれる。
ここでなんでジャック・デリダの話が、と思われる方もいるだろう。
じつは本作は監督をデリダ信者と捉えることで作品のストーリーや設定が体系的に理解できるので今回はデリダの誤配論をベースにアクスパを読み解く予定だ。
とりあえずここでは誤配の意味とピーターパーカーの名前が前作では誤配されていたということを頭の片隅に置いてもらいたい。
アクロス・ザ・スパイダーバースの主題
さてスパイダーマンシリーズは多くのバージョンで高校生の主人公が蜘蛛に噛まれて身体的な変化に戸惑い、そのことで摩擦を抱える家族関係や恋人との関係を主題としつつ、主人公がヒーローに成長してゆく様が描かれる。
いうまでもないが思春期に蜘蛛に噛まれていきなり体が変化すること、これは思春期における一般的な体の変化を象徴する。そのためスパイダーマンシリーズでは恋愛などのセクシャリティがセットで描かれるのだ。
手から蜘蛛の糸が出るのもそういうこと。
そんなわけでスパイダーバースシリーズでも思春期に蜘蛛に噛まれて体が変化し、その突然の変化に戸惑いながら新しい体になれてゆく主人公の様が描かれた。
本作ではとりわけ主人公マイルズと父との関係が見所の一つだ。息子の変化に戸惑う父の葛藤や父から人生哲学を押しつけられて困惑する主人公の様が丁寧に描かれる。
とりわけ本作における序盤の学校での進路相談の場面はこうした普遍的な問題を象徴する。
※後述するが、このシーンは裏テーマと直結していて凄く大事
じつはこの思春期における父との関係、および自己の主体化(進路決定)という表のテーマが本作の裏テーマと密接に関わってくるので、このことも頭の片隅に置いてもらいたい。
物語の定型の破壊とスパイダーバース
さっそく本題に入ろう。
まず結論からしめすと本作の裏テーマはデリダ的誤配によるスパイダーマンという物語の定型の破壊にある。僕の仮説では監督はデリダをベースにシリーズの構想をねっており、誤配概念をつかってスパイダーマンという作品を脱構築しようとしている。
※脱構築とはデリダの概念で物語の定型を否定し刷新すること
さっそくこのことをアクスパの描写から確認してゆこう。
まず本作ではあらゆるスパイダーマン作品のスパイダーマンが登場するマルチバースが基本となる。
そこではこれまでの全てのスパイダーマンが大いなる力には大いなる責任があるという罪を知るため、恋人やベン叔父さんの死(カノンイベント)を体験することが運命づけられていることが徹底的に強調される。
つまり初代スパイダーマンの物語の雛形は1962年に始まり、今日にいたるまで様々な媒体でリブートされスパイダーバースを形成するまでになる。
そして今までは、世代や国を超えてあらゆるスパイダーマン作品に伝達されてきたスパイダーマンを定義づけるところの物語の定型(カノンイベント)は例外なく正確に伝達されてきた。だから、かならず大いなる力に対する罪として、スパイダーマンの身近な人物が死ぬシナリオを踏襲している。
既存のスパイダーマン作品はすべてその定型的な運命(カノンイベント)に従うことでスパイダーマン作品として承認されてきたわけだ。
さて本作では、スパイダーソサイエティのボスをつとめるミゲルが、過去に自らの物語の定型(カノンイベント)を破って家族との生活を選択することで世界が崩壊し、みんな死んでしまうという恐ろしい体験をする。
このことでミゲルは世界を守るため、物語の運命(定型、カノンイベント)を死守し、あらゆるフランチャイズされたスパイダーマン作品に対し、その初代より受け継がれし定型(罪、カノンイベント)の正しい伝達を守ることに奔命するようになる。
ミゲルが異世界から誤配達されてきた異物を正しい世界に再配送する作業をしているのも誤配の否定ととれる。マイルズのことを異分子と呼び正統なスパイダーマンでないと断罪し排除しようとするのもそのため。
※ミゲルのスパイダーソサイエティは物語の配送所になっている
さて本作でマイルズは、身近な大切な人である父を選ぶか、世界を選ぶかの二択を迫られる。
※マイルズは叔父の死というカノンイベントを体験しているが、さらに父の死という新たなカノンイベントが予定されている
ところがマイルズは世界を選び父が死ぬという定型(カノンイベント)に抵抗し、父も守るし世界も救うという選択のもと父の救出に向かう。これによりミゲルと争うことになったわけだ。
また、別世界のインドのスパイダーマンのカノンイベント(定型)をマイルズが否定してしまったために世界が不安定化してもいる。
さて、ここで誤配と本作の関係を改めて確認しよう。
まず本作で明かされるマイルズがスパイダーマンになった秘密を観てゆこう。すると彼は本来スパイダーマンになる予定ではなかったことが分かる。
というのもマイルズを噛んだ蜘蛛は別のスパイダーバースの蜘蛛が科学者時代のスポットの実験で誤ってマイルズの世界に誤配され、そのことでマイルズが噛まれてスパイダーマンになったことが明かされるからだ。
つまりこの蜘蛛は本当は別のバースのピーターパーカーを噛む予定だったのだが、マイルズの世界に誤配達されマイルズを噛んでしまった。
※デリダの誤配が間違った人物に配達されることだったのを思い出そう
つまり物語の定型(正しい配達)をぶっ壊そうとする本作のマイルズモラレスそのものが誤配の産物であり、だからこそ彼はミゲルが死守する物語の定型(カノンイベント)の正統な伝達を妨害し、物語の定型を書き換えようとしているわけだ。
※デリダの誤配は正嫡的なものを否定するものでデリダはマイルスのような誤配存在を非嫡出的と呼ぶ
まだ誤配説に納得しない人もいるかもしれないのでマイルズが誤配の象徴である根拠をさらに観てゆこう。
たとえば本作でマイルズが誕生日パーティにケーキを二つ配達するシーンを思い出して欲しい。
彼は両親に向けてケーキにびっちりと文字を書き込み、手紙のようにメッセージの書き込まれたケーキを両親へと配達するのだった。
紆余曲折を経てなんとか両親のもとへケーキは配達されるが、蓋をあけると輸送時の振動でケーキの文字が脱落し、そこには「私はここにいない」という本来とまったく異なるメッセージが書かれていた。
既に指摘した通りデリダの誤配とは本来と異なる相手に誤配達されたり、メッセージが誤字脱字や伝言ゲーム現象で書き換わってしまう現象だった。
このケーキの文字の組み替えは世代間伝達におけるデリダ的な誤配の象徴といえる。
つまりマイルズと親との間での伝達には誤配があることを示す重要なシーンとなる。ケーキのシーンは歴代スパイダーマンシリーズからのカノンイベントの世代間伝達が誤配されることを予示していもいる。
さらにマイルズが物語りの終盤で異世界の母親に自分がスパイダーマンだと伝えたシーンを想起して欲しい。このシーンではマイルズは親にスパイダーマンであることを打ち明けるが母親はそれをコスプレと勘違いし、マイルズのメッセージは正しく伝達されない。
そしてグウェンが父に自分がスパイダーウーマンであると伝達した時にも、正しくその思いが伝わらず、関係がこじれてしまう。いずれも親子の世代間伝達においてメッセージが誤配されていることを示す重要なシーンだ。
また序盤の進路相談での教師のセリフを思い出して欲しい。教師は、生徒は一人一人が宇宙であり、物語としてその宇宙をまとめる必要がある!と語る。
そしてマイルズの宇宙について、その物語は白紙で分からない、と言うシーンがある。
この序盤の教師のセリフは完全なるメタセリフで、本作の裏テーマを言い当てている。つまりこのシーンは、マイルズが思春期にあり、これから自己を社会的な主体として主体化し、自らの存在を自らの言葉によって物語る必要が迫られていること、そしてこのような思春期の青年に普遍的な人生の課題が裏テーマであるスパイダーマンという物語の誤配による定型の書き換えにリンクしていることを示す。
宇宙だとか物語だとかいう教師の不自然な語彙がマルチバースや物語のカノンイベントに対応していることは明だろう。誤配された彼のスパイダーマンとしての物語は白紙である、白紙だからこそ定型(カノンイベント)を否定できるという含みがある。
つまり物語の序盤の進路相談のシーンでこの映画は映画自らの使命について自己言及している。
※こうした自己言及構造のせいで非常に難解な映画になっている
さて、じつはこのようなスパイダーマンシリーズにおける大いなる力には大いなる責任あり、という言葉とともに罪としてもたらされる父の死(カノンイベント)が世代を超えて伝達される現象を精神分析では父の罪の伝達とかファルスの伝達と呼ぶ。
※フロイトおよび初期ラカンは父の罪の世代間伝達には誤配などなくエディプスコンプレックス構造に規定され常に正しく配達されると考えた
つまりこうした罪の伝達としての物語の定型は父から伝達される精神分析では考えられている。
なぜ人生の生き方の型や物語の定型の世代間伝達が母でなく父によるのかというと、たとえば日本神話は母性原理であり最高神がアマテラスという女性であることが知られるが、日本書紀を見るとおどろくことに、神話の伝達における正統はまったく重視されず数多のバリエーション(誤配)が並記され相対化されている。つまり母なるアマテラスによって現代の天皇にまで伝達されるその神話は正しい一つの伝達などなく誤配を内在していることがあらかじめ暴露されている。
このような現象は言うまでも無く父なる神を崇める一神教文化圏ではありえない。
だからキリスト教は一神教の神だけが唯一で他の神は正統ではないといいローマ神話などの神などを悪魔認定してゆくのである。
つまり正統な系譜による誤配を認めない正しい伝達、正嫡的な伝達の法をかすのは母でなく父となる。
※より論理的な解説は尺の都合で割愛する
そんなわけで一神教的なスパイダーマンにおける物語の罪の伝達はしばしば叔父や父の死として父から引き継がれるともいえる。父の死によって父の言葉は真に伝達されるのだ。
たとえばサムライミのスパイダーマンでもそうだが、叔父がその死によって、ピーターパーカーやマイルズに言葉(罪)を伝えていることを思い出して欲しい。
というわけでミゲルは正統な配達を守る威厳ある父のように描かれている。
※この観点でみるとマイルズが実父を守ることに拘泥する設定は興味深い。父を守ることで逆説的に父の言葉、大いなる力に大いなる責任、という定型の伝達を破壊しようという戦略をとっているのかもしれない
ちなみにピーターBパーカーがマイルズのおかげで子どもを手に入れて幸福となったのは、マイルズが誤配存在としてもつ定型的運命への抵抗の力の余波と考えられる。Bパーカーの子ども(象徴的な非嫡出子)は誤配の産物であり物語の新しい可能性の象徴になっている。
ここで本作の表の主題が思春期における父との葛藤だったことを思い出して欲しい。父デイヴィスが自分の世代の生き方(定型)を伝達しようとするがマイルズの特異性と単独性を認め、父はマイルズを自由にさせる選択に傾いてゆく。
これも父による正嫡的な伝達がくずれ誤配があらわになってゆく様を描いている。
つまり父と子の世代間伝達をめぐる葛藤と誤配の物語が、歴代スパイダーマンシリーズの定型が正しく伝達されることを強いるミゲル(父)とマイルズとの葛藤にオーバーラップしているのだ。
かくして表のテーマである思春期の父子関係と裏テーマであるスパイダーシリーズにおけるミゲルとの葛藤による定型の誤配とが重なるのだ。
以上が基礎的な本作の読解となる。
したがって、誤配を賛美する監督がいかいにマイルズがスパイダーマンという話を脱構築するかが次回作の肝。
ここで誤配理論について補足すると、デリダはそもそも正統な世代間伝達など不可能でつねに父の罪は誤配の可能性に晒されていると考える。つまり誤配は可能性としてはつねに生じており、それを抑圧して運命でもないものを運命(正しい配達)と思い込むのは間違いだ、とデリダは考えているようだ。
ちなみに僕は反デリダ派ではあるが、一概に誤配の考えを全て否定するつもりはなかったりする。
脱構築としてのスパイダーバース
さて本作の基本を分析したので、ここでは誤配による脱構築として本作を見ることで、作品の多くの設定を体系的に説明づけることが可能であると示す。
とともに、本作の奥深さを明らかとしたい。
スポットとスキゾ
まずは本作のキーマン、スポットについて。
このキャラクターはラカン派精神分析の理論ではスキゾフレニーと定義できる。というのも彼は顔を持たず、スパイダーバース(象徴界)の穴に留まりつづける存在だからだ。
このような意味と世界の裂け目である穴に留まり、世界の虚構をイロニーな態度で指摘し続ける存在をラカンはスキゾフレニアと呼ぶ。
※ラカンは穴という表現を使いスキゾフレニーを穴に留まる者と呼ぶ、スポットはラカン理論がモデルと思う
マイルズに蜘蛛が誤配されたのも人間時代のスポットの仕業であった。
スキゾは社会の定型、物語の定型、生き方の定型には穴が空いており、実は虚構に過ぎないことを暴く。
つまり彼はそのイロニーな態度で全ての正しい伝達には穴(誤字脱字)があり誤配可能性に晒されていると示すのだ。
※パンクロッカーのホービーも定型を常に否定するスキゾ的なイロニーな態度に近い
といってもよく分からないだろうからダイジェストでスポット(スキゾ)のロジックを簡単に示す。
まず僕らの日常社会は言語によって概念化され言語的意味に規定されている。たとえば目の前のペットボトルの水も水とかペットボトルという言語概念によって安定化し社会的意味を付与される。
現実に目の前にある物理的対象は厳密には全て絶対的に固有であり未知性をもつが僕たちは言語によってその未知性を捨象し顔なじみの言語概念に同一することで日常生活を可能とする。
ところがこのような言語的意味(原因)によって構成される僕たちの定型的世界は根源的根拠を欠いている。
このことは言葉の意味(原因)の意味(原因)を問うことを考えるとわかりやすい。僕たちは言語概念の意味を無限に遡行して問うことができるが、いくら問うても言語の限界によって根源的意味、究極の根拠には到達できない。
他にも人を殴ったらダメなのはなぜか?という問いにしても掘り下げてゆくとその根拠の説明不可能な限界につきあたり、言語秩序や法にはそもそも根源的な根拠が存在しないことが露呈する。
このように僕たちが絶対的と信じる日常社会という法や定型がじつはなんの根拠もないこと、穴が空いていることを晒すのがスキゾでありスポットなのだ。
だからスポットは自らをいかなる定型(言語)にも明け渡さない。それゆえ彼には顔(言語的意味)も社会的地位もない。
スポットは何者でもない言表不能の穴の中に留まり、自らが穴と化すことで、この世界の定型が全て根拠のない偶発的な誤配の産物に過ぎないと告発するスキゾなのである。
だから彼のイロニーな態度といいスキゾを表象するキャラとしてデザインされいると解釈することができる。
つまり定型を脱構築するミッションをもつスパイダーバースシリーズにとってスポットが定型を破壊する誤配をなす定型に空いた穴を露出することでマイルズという婚外子的なスパイダーマンが誕生したのである。
したがって象徴界(日常世界)の穴をつかって、定型(カノンイベントの正しい伝達)がないということを露呈したのがスポット。
このように本作を誤配と脱構築の物語として読解することで無理なくスポットというキャラクターの設定、およびマイルズの誕生にスポットが関わった理由を説明できる。
またスポットは世界の定型の必然性(運命性)を否定し、その偶発性(誤配性)を晒す。だからこそあらゆる可能性世界(偶然の世界)が穴を介して露出し、自分の世界が相対的(偶発的)でしかないことをスパイダーマンたちに思い知らせ、スパイダーバースを混乱に落としめる存在でもある。
他の可能性を穴に見ることで今ある定型世界が定型(運命)ではなく偶然の産物であり、根源的な根拠を欠くことがあらわとなる。このことで正しい運命的伝達のなさが露出し誤配が意識され人々が好き勝手に定型的秩序をぶっこわすようになるといってもいい。
※本来、定型のデリダ的否定は危険も伴う、またスキゾは欠如を露呈するというより欠如を否定するゆえに欠如した言語世界に参入(疎外)しないというのが僕の考え、定型を素朴に否定したところで文明は崩壊する、このことをラカンは(定型に)騙されないものは彷徨うという
スポットとマイルス
スポットが誤配の主でありマイルスをスパイダーマンにしたとすると誤配をもたらすマイルスとの関係が重要になる。
スポットは、自分がスパイダーマンとしてのマイルスを蜘蛛の誤配達により生み出し、マイルスがキングピンの量子加速器を破壊したことでスポットとしての自分を生み出した、というニュアンスのセリフをいう。
つまりスポットとマイルスは双子のようなもので本質的に二人は同じ人物といっていい。
マイルスがスポットをつくりスポットがマイルスをつくるという相互親子関係となっている。
ここで重要になのが前述したケーキのメッセージ。ケーキには私はここにいないという誤配が起きていたが、これはスパイダーマンとしてのマイルスが、この世界に居場所を持たないことを示す。
マイルスは誤配の産物であるからスパイダーマンとしての彼は、彼の宇宙のなかでは居場所を用意されていないということだろう。
このようなマイルスの不在性は、スポットが顔なしでいかなる世界からも排除され、穴にしか居場所がない存在であることと結びつく。
するとマイルスに固有のスキルである透明化の意味もわかりやすい。透明化の能力は世界から欠如すること、つまりスポットの穴と等価なのである。
グウェンが透明化したマイルスに目線を向けるシーンでマイルスと壁の穴が重なるシーンがあるが、これもスポットとマイルスの同一性の演出と観れなくもないと思う。
※このシーンではスパイダーから仲間外れにされたマイルスがぶら下がりグウェンは立っているので二人の視点は180度ずれている。他のシーンでグウェンとマイルスがスパイダーマンとしての孤独を共有して天井に座るシーンでは二人の視点がともに世間と180度ズレる、したがってぶら下がりによる視点の反転は孤独の演出となっていて本作の注目ポイント
壁の穴=スポット=透明のマイルス、ということ。
ここで大事なのが、マイルスは自分の進路について大学で物理学の研究をすることを決めてはいるが、彼は自分がこの社会で何者なのかをまだ確定していない点。
つまり思春期の青年は誰もがマイルスモラレスであり、白紙の可能性であるからこそ、何者でもない透明(白紙)な存在でもあるのだ。だからマイルスの能力やスキゾ的な穴との親和性は思春期の青年の普遍的心理とも重なっている。
このあたりにこの監督の能力の高さが出ていると思う。映像面のみならず、脚本レベルでよく練られた作品といえる。
スパイダーバースシリーズの裏の目的
次に注目したいのが本作の作風。本作では多様なバースの異世界性を強調するために実写レベル、3Dアニメーションレベル、セルアニメレベルなどなどロジカルタイプのことなるものが混淆して描画される。
近景と遠景とでも作画のレベルが異なったりする。
ロジカルタイプとはラッセルの概念でメタレベルとオブジェクトレベルの違いを示す。
メタレベルとはオブジェクトレベルに対して上位のカテゴリーにあるものをさす。
つまり本という集合に動物図鑑という要素があった場合、本は動物図鑑にたいしてメタレベルとなる。集合の本と要素の動物図鑑ではレベルが違うので同列のレベルで扱うことはできない。たとえば本より動物図鑑のが面白い、とかいっても字義的には意味が通らないということ。
このようなロジカルタイプの識別がある世界は定型発達と呼ばれる世界の秩序に属す。
さて、じつは近代型の物語の定型は原則として、この定型発達を生成するための構造的条件(分離)を内在している。もちろんスパイダーマンの大いなる力に大いなる責任があるという話や父の罪として父が欠如するといった構造は全て定型発達的な主体の生成にかなった分離の物語ともいえる。
※分離の解説は情報量が多く読者がキツくなるかもなので割愛する
つまりスパイダーバースの野心はたんにスパイダーマンという物語の新しいスタイルを獲得するとかいう甘っちょろいものではない。本作の野心はそうではなく人間主体そのものの定型構造を書き換えることにある。
物語が人間の実存形式を象徴するわけだから人類の物語の定型を改変するとは必然的にそうしたことに直結する。人は自らを物語る存在であり自らを語る物語の形式が変るとは主体の構造が変ることに等しい。
そもそも物語冒頭の進路相談の台詞からも分かるように、監督は本作を若者の普遍的な人生(物語)の雛形と考えている可能性が高い。
つまり本作でメタレベルにあるはずの実写とオブジェクトレベルのセルアニメなどがロジカルタイプを無視して描写されるのは、定型的なロジカルタイプの識別の破壊による非定型的世界を示すと解釈できる。
※現代人の言説を観察していると、本より動物図鑑のが面白い、というようなロジカルタイプの混淆した意味不明の言説をよく見かける
またこのようなロジカルタイプの区別がない世界では、全てが平板化し現実的な質感を消失し意味だけの世界に終着する可能性が多くの臨床理論によって指摘されている。
さてスポットは意味根拠の欠如を示す穴であると示したが、本作ではそんな穴もまたオブジェクトと同等のレベルで描かれる。
穴は言語意味レベルとはロジカルタイプが異なるものだから、本来は描写されるにしても、スポットのような普通のキャラクターとして描かれることはない。なにか超越的な描写だとかなんとなくロジカルタイプの差異を意識した特別な描き方がなされるのが定番である。
※映画パプリカのラストの夢世界の穴など
ところが本作では意味の欠落(ネガ)としての穴さえもが、意味の次元でポジに作画されてしまう。
つまり、ある意味でスパイダーバース世界には本来的な意味での穴なんてものもないのである。
※このような世界では人間の内面(内心)と外面のロジカルタイプも融解する
また異世界の異物が誤配によって侵入してくる本作ではその異物性の強調として作画レベルの混淆が演出的に使われてもいる。これはSNSなどで他世界の人の言葉が文脈を無視して誤配され秩序を攪乱してゆく現代社会を表象しているともとれる。
いずれにせよ、このような現代におけるメッセージの無文脈化が招くディスコミュニケーションの表現としてロジカルタイプの区別のない混乱した作画はマッチしている。
※文脈はメタレベルであり具体的な文字や単語(本作の作画の乱れた異物)はオブジェクトレベルに相当する、非定型化した現代にはオブジェクトレベルしか存在しない、そのためカオスとなる
ちなみにユング派の臨床論文には昨今の筋トレブームについて内面(メタレベル)が消失して外面(オブジェクトレベル)しかなくなったために自己の形成が外的身体のみによってしか達成されなくなったからだろうという記述もある。
※ルッキズム問題の本質もここにある
そんな現代では全てはデータであり意味に回付され、内面と外面の差異がなくなり原始時代のように外面だけしかなくなっている。このような指摘は深層心理学の論文ではお馴染み。
こうした外面だけ、意味だけのロジカルタイプが壊れた世界をドゥルーズは表層と呼ぶ。
新しい芸術は表層の芸術だというのがドゥルーズの論調で、スパイダーバースシリーズはその意味で表層のアートに属する一面を持つかもしれない。むしろそのような世界の非定型性をこそ主題としているのだからメタ表層のアートと呼ぶべきかもしれないが、表層の世界ではメタとオブジェクトとの差異がないのだから、どう呼べばいいのやら。
※ゴジラー1.0は典型的な表層の映画
補足するとドゥルーズはルイスキャロルの不思議の国のアリスについて、トランプの兵隊の描写などからこれを表層のアートに位置づけるが、その理由は言語概念の外部に位置する物質対象の現実的な厚みや質感が捨象されて対象がトランプという平板で厚みのない数字言語的概念に還元され尽くしているためだという。
※ルイスキャロルは最新の病碩学研究によると非定型発達と診断されている
このような描写は、本作にも見られる。終盤でマイルスが追いかけられるシーンで、平板な枠にうつる過去作品のキャラクターたちが映るカットがあるがこれは不思議の国のアリスのトランプに近い。
いずれにせよ、こうした描写は三次元と二次元のロジカルタイプの融解を示す。
というわけで本作の至るところに物語の定型の終焉ないしは新しい定型の獲得という主題が潜んでいるのである。
つまりミゲルが定型(カノンイベント)を守ろうとしているのは、現代社会では非定型化が進み、すでに誤配だらけとなっており、そのことでロジカルタイプが融解し社会が混乱しているからだ、ともとれる。
本作のロジカルタイプの混乱したカオスな作画や誤配によるマルチバースの混乱は全て、現代社会の非定型化における混乱に対応していると考えることができる。
スパイダーバースシリーズとマトリックス
ここではマトリックスとアクロスザスパイダーバースの比較をなすことでさらにアクロスザスパイダーバースを分析する。
マトリックスといえばネオがトリニティと世界の二者択一に迫られ、世代を超えた数多の歴代救世主たちが正確に伝達してきた世界の救済という定型(カノンイベント)を選ばずにトリニティを選択し、そのうえで世界を救おうとしたため、結局トリニティが死んでしまう。
つまりマトリックスの物語はかけがえのない交換不可能な唯一の恋人と世界の両方を選択するが、世界を守ることでトリニティも自分も死ぬ物語だと考えられる。
マトリックスにおけるこの選択が本作においても全く同じ仕方で登場していることを思い出して欲しい。
本作では歴代スパイダーマン(救世主)が選択し伝達してきた、かけがえのない人を見捨てて世界を救うという定型的な選択がミゲルという父によって強制され、それに子であるマイルズが抵抗することで定型を脱構築する物語であった。
もともとスパイダーマンシリーズにおける、かけがえのない人物が死ぬカノンイベントは選択によって生じるわけではなかったが、本作ではこれを選択の問題にシフトすることで誤配による物語の書き換えを試みる戦略をとっている。
この戦略の構想はマトリックスが元ネタである可能性があるだろう。
さて、そもそも交換不可能な唯一の存在の死による世界の救済という定型的ストーリー(カノンイベント)は何を意味するだろうか。
じつはこのような主体の選択をラカンは疎外と呼ぶ。
疎外とは主体が言語世界へと疎外されて、自己を言語によって語れるようになることを示す。
つまり人間は言語以前の世界においては単独的で絶対的な個別性、すなわち、唯一のかげがえない交換不可能な一者といえる。すでに説明したように言語によって目の前の物理的対象や自己対象の一回性が捨象され交換可能な言語概念に同定されるのだった。
だから言語以前の自己存在というのは、ソレとかコレとかソレ自体とかしか言いようのない特殊で交換不可能な状態にある。
このような交換不可能な無意味の主体が、言語空間に疎外されることでその主体は言語に上書きされて、私はテニス選手です、という具合に交換可能な言語的意味概念(テニス選手)として表現可能になる。
言語概念(意味)とはもちろんむき出しの世界を社会化するにあたって必要となる言語による世界の分節化の体系において成り立つわけだから、言語へと疎外されることは世界(社会)の救済(秩序化、体系化)に対応する。
つまり、主人公にとって言語に還元できない交換不可能な恋人や叔父といった単独的存在は、言語以前の単独的な主体の象徴である。また、この自己主体の単独性を断念して社会を救済することは主体が自己の単独的性を諦めて言語によって自己を言表できるようになること(疎外)を示す。
したがってマトリックスや本作における交換不能なものを断念して交換可能な社会を守るという主題は人間存在における言語習得(社会化)の普遍的な様態としての疎外を示していると解釈できる。
カノンイベント=疎外。
さて、かくして人は絶対的な固有性を断念することで言語を獲得するのだが、断念されたものは消え去ることはない。
言語において意味の根源的根拠が欠如していることから分かるように、この断念された特殊性が意味の欠如(亡霊)して言語世界に残存しつづけることとなる。
そしてこの欠如こそが自己を語り続けるという人間の欲望を構成するのである。
※意味の欠如による人間の語る欲望を欲望の弁証法と呼ぶ
というわけで、ここまでが分かるとなぜマトリックスではネオやトリニティが死に至ったかがよく分かる。
説明しよう。
もし言語によって自己の単独性であり言語以前の特殊性が完全に言表されたら何が起きるかを考えるとこのことは分かりやすい。
この場合、人は自己を完全に言表しうるその究極の言葉に満足し、それ以上を語る動機を失う。ようするに欲求不満がなくなり完全な満足によって満たされることで主体性を失う。
ここで人が主体的に行為するときのことを考えよう。もし全てに完全に満足してしまったら何も新しいことに挑戦しなくなると分かるだろう。完全に満足しているならひたすら現状維持だけが問題となり主体的な行為など消滅する。
とすれば自己存在の言語における自己言及に完全に満足してしまった人はもはやそれ以上語る理由を持たず、そこでは言葉を話す主体の主体性は完全に消失することになる。
だから意味の欠如として残存しつづける主体の言語以前の特殊単独性が言語によって満たされ、あるべき意味の欠如が塞がってしまえば人間主体は死ぬよりほかないのだ。
またそもそも本来は言語と言語外の単独性とではカテゴリーが異なるため決して言語が完全に言語外の欠如を満たすことはない。
だから物語の定型(既存の文字コードの配列、マトリクス)にあらがったネオは確かにマトリックス(世界)という言語的なコード(定型)を刷新することには成功したのだが、それでも疎外というプロセスそれ自体の効果からは原理的に逃れられないのでトリニティ(言語以前の単独性)は根源的なレベルにおいて欠如し、死に至ったのである。
ここでトリニティの死は新しい世界秩序を構成する言語体系への疎外の効果に他ならないと解釈できる。
旧マトリックスシリーズの偉大さは安直に両者を獲得させず定型にあらがって獲得した世界もまた疎外の運命からは免れないことを示している点にある。
※父なるアーキテクチャではなく母なるオラクルによってネオは伝達の誤配を引き起こした
ネオの達成はいわば新しい定型(普遍)の獲得といってよい。じつはこのような意味での定型への抵抗と刷新はそれ自体、定型的な形式といえる。それは世界を守り定型の核となる欠如(トリニティという亡霊)を意味の世界に残すからだ。
このようにいうとなぜ主体であるネオまでもが死ぬのかと思われるかもしれない。疎外によりトリニティという欠如が残存したなら主体は生きるという論理だったではないか、という鋭い読者の反論があるかもしれない。
その理由は、NEOがONEのアナグラムであることを考えるとよく分かる。そもそもネオとは交換不能の一者(one)であり、だからこそ救世主(鏡像)なのである。
言語世界へと疎外されることで単独的一者が断念されるわけだからネオという単独的な一者は当然に死ぬことになる。
というわけでキリスト教における自己犠牲にはこのような社会化における一者の死という人間存在の普遍的様態が比喩的に表現されているのかもしれない。
救世主というのは言語世界における究極の自己の理想像であり、このような存在が言語概念のレベルで残存してしまうのは欠如が埋まることを惹起しうる。だから僕らの憧れる理想像(救世主、英雄)とはどこか欠如があり、この理想自我における欠如として究極の救世主であるネオは疎外とともに不在となったと解釈する余地がある。
※むしろ精神分析的にはネオの世界からの欠如(死)によってこそ世界(象徴界、マトリックス)は安定したとみるべきなのだ
以上から、スポットが疎外を拒絶して言語化以前の単独性に留まる者だと分かる。そしてマイルスは思春期を迎え、これから社会へと自己を疎外する地点にいる。だからこそ単独的父か意味的世界かの疎外の二択(カノンイベント)を迫られている。
本作の顛末がいかに人間主体の定型(疎外形式)を捉えるにあたって重要となるか分かるだろう。
つまり次回作のビヨンドザスパイダーバースでは、マイルズモラレスが父を救えるのか世界を救えるのか、なんの犠牲もなしに全てを実現し欠如なき完全な定型の脱構築を実現してしまうのかがポイントとなる。
※補足:疎外の選択をトロッコ問題に置き換えると功利主義が正しいという誤解を与えるかもしれないがそれは間違い。そうではなく仮に功利主義的な選択をしたとしてもそれこそが罪を形成するというべきで、つまり疎外の運命が僕たちに教えているのは、トロッコ問題に正しい答えなど存在しないということ
グウェンと父とカノンイベント
本作のヒロインのグウェンについて疎外という観点から分析しよう。
グウェンもまた思春期に父との関係を悩む存在であった。
父にスパイダーウーマンであることを隠すグウェンは、思春期に子どもが成長して親に対して秘密をもつようになること、を象徴しているのは言うまでもない。
そうした思春期の親子関係にありがちな普遍的心理を描写している。
さてグウェンは警察の父に秘密をうちあけたことで、父にカノンイベント的な選択を強いることになる。
つまり社会の法秩序のためにグウェンを逮捕して交換不可能な娘を見捨てるか、社会の法を犯して娘をとるかの二択である。
この選択はもちろんカノンイベントの選択のパラフレーズ。
父はグウェンを選択したことで警察官という職を辞めている。つまり社会から排除されてしまったのだ。
つまり、グウェンの父が娘を選ぶことで失職したことは、カノンイベントで単独的なかけがえない人物を選ぶことで世界が滅びるというミゲルのトラウマのリフレインになっている。
警察を治安を守るスパイダーマンと対応させれば、警察を辞めるとはスパイダーマンとしての主体の死を示すだろう。つまり父がグウェンを選んだのは、単独的な者を選べばカノンイベントが失敗しスパイダーマンはスパイダーマンでなくなるということに通じているのだと思う。
ただし父が警察官であるよりグウェンの父であること、単独的な存在であることを選んだことに満足している様が描かれる。ミゲルの倫理と逆に単独的なものを選ぶ主体の倫理も描かれているわけだ。
そして本作ではミゲルでもなくグウェンの父でもない選択がマイルスには求められている。
いずれにせよ本作ではカノンイベントによる疎外の拒絶として提示された定型の誤配が非常に困難な選択にあることを強調しているようなのだ。
むろん、疎外の論理を知った僕たちにとって、このような困難の描写がいかに適切か、十分に理解できるだろう。
これからマイルスがやろうとしているのは、グウェンの父が娘を逮捕せずに、しかも警察官も辞めないという不可能な選択、自滅的選択である。このような疎外を全否定するような不可能な疎外を目指すマイルスの物語がどうなるのか、次回作が非常に気になる。
スパイダーバースと人類
最後に本作でマイルスが試みる定型の破壊(誤配、脱構築)がどうして重要な問題となるのかを簡単に論じたい。
ここでは自由について考えよう。
これまでの議論から、疎外を経て白紙の人間が自らの意志で自らを言語により物語る存在へ至ると分かった。
このとき、かけがえない単独的な一者が断念され、亡霊として一者(欠如、死んだ父)が言語の世界に残存することで語る主体(自由)が可能になるのだった。
自己存在が持つ意味の欠損、この主体性の核となる意味欠如(穴)が父(ミゲル)による禁止(一者の断念)によって生じており、禁止する父(ミゲル)を打倒することで、欠如なき自己存在の言語的意味を獲得できるという認識がマイルスにはある。
本作の終盤でミゲルに体を押しつけられたマイルスが「自分の物語は自分で決める、おしつけるな」というニュアンスの台詞を吐くシーンがあったと思うが、こうした台詞も疎外の運命(定型)がミゲルの禁止によるという認識に基づくだろう。
ところが、このような認識は誤認であり疎外を経た主体は誰もがこの誤認に陥る。
つまり欠如のない完全な意味を表す言葉など存在しないのに、その言葉をミゲルがもっていて禁止しておりミゲルを打倒すれば完全な言葉が手に入るという錯覚が近現代人に存在する。
※この誤認をラカンは想像的誤認と呼ぶ、ユング派の田中康裕は同じことを後の認識の誤りと呼ぶ
さて、これは僕たちが自らの自由(主体性)が何らの抑圧もなしに存在しうると考えることに通じている。
しかし自由は現実には抑圧の効果によって生み出されている。たとえば選択の自由を考えよう。もし2つの選択肢があって、一方の選択肢を選ぶと死に、他方の選択肢を選ぶとお金がもらえるとした場合、このような選択肢には選択の余地がない。
したがって、この場合、お金をもらえる選択を選んでも人はその選択に選択の自由があったとは感じない。
以上から自由(意志決定)とは迷いうること、選択のプロセスにおける葛藤の存在によってこそ基礎づけられると分かる。
ここで迷うとは他方の選択肢を断念すること諦めること、喪うことに相当する。カノンイベントの選択でいえば単独的な一者を喪うことが自由を生み出す葛藤の条件となる。
ゆえに、なにも断念(喪失)がない自由(父も世界も救う)などないといってもいい。
このことは葛藤によって一方の衝動を抑圧して選択することで選択(意志決定)の自由が生じていることを示す。
にも関わらず人はなんらの禁止も断念もない場所に完全な自由(意志決定)があるという誤認に陥ってしまう。つまり父を救って、世界も救えるような葛藤(断念、喪失)のない選択が可能であり自由をもたらすという誤認である。
このことは現代社会を捉えるうえで決定的に重要となる。たとえばLGBTQ…は増殖するが、これは言語による意味の欠如を消去する運動であり定型を否定しつづける誤配の運動と解釈する余地もある。
※アメリカでは宗教的事情でセクマイへの不当な差別があるのも事実で、この記事はLGBTQを否定する意図はない
つまり一者の断念なき究極の意味をもった言語が妄想され、そのありもしない言葉をめがけて自己を示す言葉が増殖してるのである。このような意味の欠如を埋め立てる強迫的増殖と定型の破壊は主体の自滅行為といえる。
さて、以上から、たとえばフランス革命においては革命闘争それ自体(葛藤)こそが自由を生じていると分かる。しかし一般にフランス革命とは、完全なる人民の自由が彼岸あって、王権力がその自由を奪っていたと思われがち。
だから革命闘争は自由を簒奪していた王を殺すことで独占されていた自由を人民が手にした、という認識をする人が多いのではないだろうか。
これこそが想像的な誤認なのである。だれもが闘争(葛藤、喪失)と無関係に、禁止の彼岸に抑圧のない完全な自由があるという妄想に取り憑かれている。
現代社会が際限なく既存の社会規範(定型)を破壊する衝動に溢れるのはこの自由の誤認の作用に他ならない。
実際には定型がもたらす葛藤が自由の根拠であるから、定型がなくなればなくなるほど自由は消去されてゆく。
このような誤認は自由を求め、残存するあらゆる定型規範を破壊せずにはおれない、終わりなき否定の強迫観念を生じる。自由を求めるかぎり否定が要請されつづけることになり全ての規範を破壊してもなおその否定は終ることがない。
※昨今の自由を求める社会運動はこの否定の煉獄にとらわれているものもあるだろう
つまり本作における人生(スパイダーマン)の物語の誤配(定型の否定)が、自由の誤認に陥った主体の暴走を描くのか、そうではなく何らかの断念、喪失を伴う仕方で新しい疎外(定型)を実現するのか、このことが決定的に重要となる。
ビヨンドザスパイダーバースの結末は、この意味で人類の主体のあり方(疎外の運命)を決定づけるものとなるのかもしれない。この作品はそれだけのことをしようとしている。
スパイダーバースシリーズは現代の政治問題や社会問題の行く末を左右する物語としての条件を整えているといってもいいだろう。
だから映画やアニメ、ゲーム、文学といった物語は虚構であるがゆえ、それが幻想であるがゆえにこそ最も現実的なものなのである。
今の政治評論家や経済学者といった連中はこのことをまるで理解していないように思う。
まとめ
議論を簡単にまとめよう。
まず本作の表のテーマは思春期の親子の葛藤にあり、このテーマが裏のテーマにおけるスパイダーマンシリーズの物語の定型の誤配による否定を象徴するミゲルとモラレスの対立に対応する。モラレスは誤配によるスパイダーマンという概念の脱構築を象徴する。
スポットは定型などなく物語が誤配可能性を免れないことを示すスキゾであり定型世界の根拠の欠如である穴を晒す者。それゆえ蜘蛛をモラレスに誤配した。そしてモラレスはスポットの分身でもあり、スキゾ的なあり方は思春期の青年の普遍的な真理と一致する。
本作の作画におけるロジカルタイプの混淆もまた定型発達におけるロジカルタイプの識別の崩壊を示すもので誤配による非定型化という主題にリンクする。
監督の野心はたんにスパイダーマンという物語の脱構築にあるのでなく人類の物語そのものの、したがって人類の主体構造(疎外の運命)そのものの定型の否定による非定型化にある。ないしは新しい定型の制定にある。
交換不可能な一者か世界かという二択はマトリックスシリーズの主題の反復で、ここでもやはり定型の否定が問われている。
そしてこの二択は人間主体の言語化をなす疎外に相当する。そのため交換不能の一者は本来は絶対に死なねばならない。ここに本作の定型刷新の困難さがありこの点について本作は自覚的である。
グウェンの父が社会の法よりグウェンという単独的な者を選択して職を失ったのは家族をとって世界が滅びる経験をしたミゲルの反復。カノンイベントにおける選択の困難をよく示す。
次回作でマイルスの選択が何らかの喪失を生じるか否かが人類の新しい疎外の運命を反映するものとなる可能性がある。
終わりに
デリダだとかドゥルーズだとかのポストモダンで今回は分析してみた。
一般にフレンチセオリーは難解?とされているのか知らないが、そういうわけでかなりとっつきにくい記事になったかもしれない。
デリダもドゥルーズもほとんど興味が無いのでまさか記事でデリダやドゥルーズをつかうことになるとは思わなかった。
どんどん人類の創作する物語が複雑で奇妙な構造になりつつあるようだ。
00年代のスパイダーマンの解説がなんとシンプルで済むことか、そのうち気が向いたら僕の好きなサムライミ版のスパイダーマン3の解説を記事にすると思うからその時はこの記事と読み比べて欲しい。
僕の見たことある古い大衆ヒーロー映画にはこんな難解な構造は見られない。昔の作品なら、警察官の厳格な父とルーズな叔父さんは影(シャドウ)で云々とかこのレベルで物語りが展開して小綺麗にまとまって終わりだろう。
おけげで要所要所を複数回視聴したり、仮説を検討するはめになった。
疎外だとか定型の否定だとかこじつけと思われる方もいるかもしれないが、本作がスパイダーマンという物語における父の罪の伝達(定型)を標的にそれを誤配によって脱構築しようとしていることについては誰も異論はないと思う。
とすればこの時点で主体の疎外が問題になることは避けられず、巧むにせよ巧まざるにせよ、このような物語では疎外の運命が主題化されるのには心理学的必然性がある。
だから本作の解説で疎外のロジックの説明は欠かすことができず、結果、解説そのものが異様に複雑なものとならざるえないのだ。
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