うたまるです。
今回はプラトンやソクラテスが重視したダイモーンの論理によってアニマの謎を解き明かし、それによりユング心理学のミッションを解明します。ユング心理学というテキストの主体(魂)を洞察する点がこの記事の特徴です。
したがって一般のユング心理学のテキスト解説とはまったく異なる次元の記事です。
またアニマ、セルフの二つの概念をプラトンのダイモーンの考えをベースにして哲学論理的に特定することでユング心理学の特徴を提示し、ユングを学ぶ人にとってのユング心理学の見取り図を提供できれば、と思います。
プラトンのダイモーンとは
ユングのアニマやセルフを理解するにあたり、ダイモーンの理解は非常に重要となるので最初にダイモーンについてから解説する。
ダイモーンとは古代ギリシャにおける無意識の主体性のことでフロイトの用語でいうエスのこと。
※エスとはたとえば言い間違において言い間違えるところの無意識の主体などを指す
つまりそのつど頭に浮かぶ想念や衝動、情動、感情や条件反射的行為性などの自己意識の意図によらない行為性、主体性のことをダイモーンと呼ぶ。
ただし近代に属するフロイトのエスでは、あくまで個人の心のうち、当人の意識が知ることのできない不可知領域に属するものとしてエスは個人の内側に規定される。
※ただしエスとはソレの意であり、日本語でいう気に相当しているため、一概に個人の内面ともいえない
それに対してダイモーンとは、天界の神々(主体)と通じ連続しており、ダイモーン(主体性、述語性)の主体(主語)は神々だとされた。
つまり天にいる神々と地上の人間とを媒介し結ぶ第三項として天と地の間の空気に潜むのがダイモーン。
※多神教の神々は物神的側面があるため主語と目的語の未分がある
より分かりやすくしよう。ダイモーンはいわばイメージに属する。たとえば甘いとか美しいといった意を代表するイメージ(行為的意味)のうち他者性、外部性を伴うものがダイモーンといえる。
甘いとか辛いとか怖い、美しいとか、こうした表象に代表される意味イメージとは、なんらかの情動や行為性を喚起し、そのような喚起される行為性それ自体としての行為的な意味を代表するものといえるだろう。
プラトンは花を見て美しいと思うのは天界で生前の魂が美のイデア(イメージ像、形)を見た記憶があるからだという。つまり現実の美しい花の美しい形はイデアの劣化版だということ。
※フロイトは喪失した原初の知覚を求めて人は反復するといったがこれはイデアそのものを明確には想起できないことに相当しプラトン的といえるかもしれない
また神は天界に属するが山の神や泉の神がいるように多神教ではしばしば神は山や川、鹿といった対象の側に属する。
たとえばギリシャ神話ではゼウスは雷の神であり木星であったり、ウラノスは空の表象だったり。
つまり知覚対象のイメージ(印象、行為的意味)として神が感じられていたわけだ。この限りで対象の内にそのイメージとしての主体(神)が内在している側面があると考える余地もあろう。
少なくとも、このように考えると話がグッと分かりやすくなる。
対象に神が表象され、対象の印象イメージとしての行為的意味(主体性)が対象の側に属する、ここに太古的なコスモロジーの特徴がある。
※このような特徴を示す言語の様態を中動態と呼ぶ
プラトンは人間の優れた創作や創造は、このダイモーンを身体で感じ表現し、またダイモーンの声をきくことで可能となるという。
またダイモーンは人が予期せぬ神々の主体性の闖入であるために、ある種の狂気と関連付けられた。
そしてプラトンは人間の狂気を垂直軸の神々と結びつくダイモーンによる創造的狂気と神々とは無関係の水平的な次元のショボい狂気とに分類する。たとえばメランコリー(鬱病)やアル中をプラトンはショボい狂気に分類する。
このような正統な狂気とそうでないものを峻別するスタイルをプラトン主義という。
ちなみにフロイトはしばしばプラトン主義だと批判されることがある。
※後に少し触れるが垂直軸の狂気は現代の統合失調症に、水平軸の狂気は鬱病に対応する
ダイモーンの狂気性については、たとえば日本でいう狐憑きなんかを考えると分かりやすい。突然、本人の意志と無関係にキツネの神に主体を乗っ取られる現象、これは狂気的である。いわばキツネ神のダイモーンが入ったということになろう。
このような神々と繋がる狂気こそが芸術をなすと考えたわけだ。
次に一神教におけるダイモーンのデーモン化の流れを確認しユングのアニマとセルフ概念の正体を暴く足がかりとする。
ダイモーンとキリスト教
さてローマ時代に突入し3世紀に入ると、ローマ文明はインフラの老朽化や移民の影響もあって、ガタガタとなり、日本でいう平成不況のような大混迷に陥った。
このことで当時は弱小カルトに過ぎなかったキリスト教が爆発的に普及し、ローマで支配権を得るにいたる。
するとアウグスティヌスはキリスト教の教えにしたがいダイモーンの意味を再解釈し、デーモンへと格下げする。
キリスト教では神、悪霊、人間の三項があり、悪霊は戒律を破る誘惑によって人間をたぶらかし怠惰や鬱にするという。
修道士が苦しい修業のなか、かつての欲望三昧の生活が失われたことをなげきその乱れた生活を欲望すること。このような堕落をけしかけるのが悪霊だ。人は悪霊にとりつかれて怠惰になるとされる。
このモデルがそのまま古代ギリシャにおける神々、ダイモーン、人間の三項に適応され、ダイモーン(悪霊)は神と繋がってなどおらず、神によって排除された悪とされた。
こうして有名なデーモンという言葉ができたのだ。
つまりかつて神々の声を人々へと仲介する存在だったダイモーンは神から切断され、人間を怠惰におとしいれメランコリーに変えるデーモンにされた。
この切断は当然、神と人との切断に通じる。かくしてキリスト教では神の声を聴くのは、イエスキリストの一人に限定され、人々は神の声から遠ざかったのだった。
※神の啓示をイエスに限定する派としない派があるらしい
また一神教とは世界と神を切り離し、神を世界の外部へと疎外。そのうえで万物、世界を唯一の神が創造する。またかつて神の世界に近いエデンにおいて自意識を持たず永遠を生きたアダムとイブは、神の怒りをかって、その世界から追放(分離)された。
このことからも分かるように一神教は神と人の分離をその特徴とする。
かくしてそのつどの行為性や衝動、物のイメージ(主体性)であるダイモーンは神から分離し悪として無意識に抑圧されたのだった。
※神の分離は主体と客体との分離、時間と空間との分離、受動態の構成に関わる
こうして抑圧された主体性(ダイモーン)が、外界に悪霊として投影されたものがデーモンとなる。
さらにこの投影が投影だと見破られることでダイモーンはフロイトのエスとなり、個人の内側に完全に封じられる(さらに分離される)こととなった。
じじつ投影とはフロイトの用語であり、フロイトは投影を投影と見破る者であった。フロイトの投影の概念化は人間の内界と外界とをさらに強く分離するものである。
補足すると一神教は世界を目的的につくり歴史の始点をも創造した神であるため、一神教世界では全ては決定論的な運命的時間性をもつ。
そのため戒律によって人生を規則的に統制し最後の審判という目的に向かい決定論的に生きる生き方が強くなる。
これはそのつどの今の衝動を抑圧し、過去(原因)によって規定される一貫性のある自己同一性を確立して、時間的に統一された人生を歩むことに通じる。このような自己を自己の思ったように企投するにあたり要請されるデーモン的怠惰との葛藤において怠惰(鬱)を克服する営みに自由意志の起源がある。
ちなみにキリスト教における怠惰とは修行する修道士を誘惑するデーモンによりもたらされる鬱状態をいう。七つの大罪の一つ。
ここで重要なのは、一神教によってダイモーンと神との連続性が途絶え、人と神が分離したこと。
またこれにともなってキリスト教では物や対象の主体(魂、イメージ)は禁止されていく。
つまり物神崇拝の禁止がある。
これは主語と目的語との分離やシニフィアンとシニフィエとの差異化に対応する。
物の魂は物から切り離され、あくまでも物を見る個人の印象であり主観に過ぎないとされたのだ。
こうして見る主体と見られる客体との分離が生じることとなる。
さて、いよいよ次項ではユングのアニマとセルフの概念を明らかとする。
ユングのアニマとセルフ
ユングのセルフ(自己)とは元型の一つで、世界の中心であり心の中心とされる。
セルフは心の全体性を支える中心点で、セルフによって心は相補性をなしバランスする。
※心の中心が世界の中心といえるのはユングが唯心論に近いため
そしてアニマは男性にとっての魂とされ女性のイメージで表象される。
アニマはセルフと自我を媒介するものでセルフからのメッセージを自我に伝えるとユングはいう。
以上から古代ギリシャの神々⇔ダイモーン⇔人間がユングのセルフ⇔アニマ⇔自我に完全に対応するのが分かる。
つまりユングは自らの心理学によって、一神教が切断してしまった神々とダイモーン(イメージ)との連続性を止揚されたレベルで再結合しようとしたのである。
ここにフロイトとユングの決別の理由もある。
既に見てきたようにフロイトのエス(ダイモーン)の論考は一神教が切断したダイモーンの神と人の分離の作業をさらにアグレッシブに追求したものといえる。
悪霊というイメージの実体化を否定しそれを内心の投影であると見破ることでエスを個人の心に閉じ込めるフロイトの理論はキリスト教があらゆる対象のイメージを禁止し個人の主観(妄想、幻覚)に過ぎないとしたことの延長線にあるのはいうまでもない。
フロイトの精神分析が苛烈なまでに一神教的な因果関係を重視し、外傷理論(過去)によって因果的に症状を説明づける点もキリスト教の時間意識に依拠すると考えられるだろう。
またイメージより言語を優越する精神分析の言語主義も一神教と同型だとわかるだろう。
多神教的なイメージの否定によって言語を立てること、ここに一神教とフロイトの特徴がある。
したがって精神分析は啓蒙主義に対するロマン主義のカウンターという一面をもちつつも啓蒙主義的な世界に即する性質もあるのだ。
対するユングは多神教への止揚された回帰が主題となる。
失われた神と人との連続性を回復するためにダイモーンをアニマとして、神をセルフとして概念化し心理学的な水準においてこれを回復したのだった。
それゆえユング心理学ではフロイトの過去(起源、歴史の始点、原因)を重視する一神教的時間論とは全く異質の古代ギリシャ的な時間意識がもっとも重視される。
そのような時間意識を実現する概念がシンクロニシティでありコンステレーションなのだ!
シンクロニシティとは共時性のことで、心的事象(内界)と外的事象(外界)との意味ある偶然の一致をいう。
一番分かりやすい例を出すと予知夢の類いがある。
つまり夢という個人の内面の出来事が、外的現実の出来事と偶然に一致するような現象をいう。
※意味レベルでの一致か直接的一致かという区別がある
このような内界と外界との連続性は古代ギリシャのダイモーンにこそ顕著である。というのもダイモーンとは天界に外的に実在する神々と繋がる主体性(内界)のことだからだ。
またシンクロニシティは今において過去や未来を基礎づける時間意識にも通じる。そのためユングの症状論においては症状とは現在においてつど創られる。
フロイトが過去の原因に症状を還元したのと全く異なりユングでは過去も未来も、今においてそのつど構成されると考えるのだ。
そのつどの過去と切り離された断絶としての今現在にこそ神聖な神の意志ダイモーンを読み解く古代ギリシャの時間意識はユングの時間意識とピタリと嵌まることが分かるだろう。
※ただしプラトン主義における正常と異常の二分法はユングとは相容れず、むしろユングはヘーゲルと近い
このように考えるとユングが言語よりイメージを優先させフロイトが固執した換喩(移動)の機制を認めなかった理由もよく分かるのだ。
まとめるとユングはダイモーンをアニマとして蘇らせ、心理学的なレベルにおいて古代ギリシャにおける神々と人との連続性を止揚された仕方で回復した。
この点にフロイトの精神分析との相違のほとんどを収束させて解釈することができる。
さてテキストの背後にあってテキストの運動を規定するところの主体を洞察することが全ての深層心理学のミッションである。ここに僕が記述する洞察はその意味でユング心理学の主体の洞察でありユング心理学の実践のつもりだったりする。
ユングのアニマと普遍の女性
ここまで簡単にユングにおける多神教への回帰を概観してきた。
ここではユングにおける一神教との繋がりを紐解いてゆこう。でなければアニマとセルフの概念を十分に理解することはできない。
まず神々とセルフでは決定的に違う点がある。それはセルフが単一の中心点であるのに対し多神教では空や雷、山や泉といった認識対象の数だけ中心点(神)がいるということだ。
したがってセルフ概念は非常にキリスト教的である。
※ユングはプロテスタントの牧師の子どもだった
つぎにアニマを考えよう。ダイモーンではそのイメージは一人の女性像になど限定されなかった。
ところがアニマでは女性イメージだけがセルフと繋がる魂とされ、しかもその女性はたった一人の普遍的女性だという。
女性にとっての魂であるアニムスが複数形の多様な男性像をとるのに対し、アニマはつねに例外なく一人の絶対的女性像なのだ。
これは何を意味するだろうか。
じつはこれも極めて一神教的なイメージだと分かる。
ラカン派ではアニマのような彼岸に位置づけられる禁止された一人の理想の女性像を定冠詞つきの女性とか普遍の女性、全ての女性、と呼ぶ。
※ユング派にとってアニマは恋愛のときに相手の女性に投影されるが実際に交際しだすと投影が引き戻されてしまい結局のところ現実には男性はアニマと結合できずある意味で禁止されている。しかしアニマが彼岸へと帰ることをユング派は結合だと見抜きこれを分離と結合の結合と見るわけだ、シニフィアンに視点をおくラカン派にはこの弁証法的な観点が欠落する
一神教的なエディプスコンプレックスにおいて女性とは普遍的な女性、THE 女、アニマしかいない。
尺の都合で少々圧縮した解説になるがこのことをさっそく解明してゆこう。
まず一神教では女性は極めて蔑視される。たとえば神を素朴には信じなかったカントでさえ狂気を論じるにつけ、女性のお喋りを構想力の異常と見なす論を書いている。現代人の意識では考えられない女性蔑視といえよう。
そんな一神教では一人の絶対者=神が近親相姦の禁止を命ずる。この禁止の法の根拠となる法の主体は全てこの父なる一者(神)に帰属する。
このような絶対的な父をフロイトは原父と呼ぶ。
ここで父は唯一、法の例外として全ての女性を独占できる。
つまり一神教の世界観では世界の根拠は全て一人の神、原父に帰属されるが、当の原父は世界の外部にあり例外者となるということ。
これは究極的な根拠を措定するときその根拠は、根拠づける対象系の外部の例外に位置せねばならないということでもある。
つまり内部に究極の原因を措定するとその原因の原因が要請されてしまい無限後退がおきて絶対的な原因を措定できないのだ。
だから究極の原因は外部の言及不能の例外領域に措定されねばならない。それが世界の外部(例外)へと位置づけられる一神教の神ということ。
※多神教では神は世界の内部にいるが一神教では世界の外部に位置づけられる
さてこのとき全ての女性を独占する父は世界と法の例外に位置する。
このような近親相姦の禁止の世界を生きるのが一神教圏の男性になる。
男性はかくして禁足地たる彼岸の父に独占された普遍の女性をこそ欲望し、その欲望がアニマのイメージを形成するわけだ。
人間のエロスやあらゆる欲望は禁止がつくりだす効果である。禁止されるとやりたくなることを思うとよく分かるだろう。
またジョジョでポルナレフが亡くしてからその人が大切だったと気づく!という名言があるが、この言葉は厳密には喪失(禁止)によってその人が大切になる、というほうが正しい。
喪失は死の彼岸へと対象が追放され接近不可能となることに等しい。いわば禁足地へといってしまうわけだ。
したがって欠如(喪失)は禁止と密接に関わり人間の欲望を根源的に基礎づける。
ここで一人の例外者が全ての女性を独占することを再び確認しよう。するとこのような禁止構造をかせられた欲望構造にある主体にとって、理想の女性とは全ての女性、すなわち定冠詞つきの女性となることが分かる。
このような女性には多様性が全くなく普遍的な単一の絶対的女性像となる、神の女だけが問題となるわけだ。
また一神教においては今その瞬間の未知性であり断絶であるところのエスは完全に禁止され全てが言語化されることが強制される。
つまり一神教における普遍の女の禁止は言語によってなされる。そしてここでの禁止(原父の法)とは性的関係に象徴されるような直接性(近親相姦)の禁止であり、言語を迂回して世界や体験の全てを間接的な意味において理解せよとの法である。
※これを無意識とは言語のように構造化されるという、原父の法をファルス関数と呼ぶ
すると言語とは普遍性であり三人称性をベースとするため、対象の固有性はすべて捨象されることとなる。あらゆる行為的意味や直接性は完全に言語的で社会普遍的な意味へと還元されてしまう。
※一神教では全てが言語化され、多神教では幾分かは言語化を免れる。それゆえ多神教では言語外の特殊単独性が生じ、女性も複数化する
するとそこでの女性とは普遍的な意味をもつ言語的な定冠詞つきの女性となる。
つまり時間における断絶的今を去勢する一神教の時間構造において、男性に欲望される女性は必ず一人の普遍的女性像となる。
※断絶的今とは言語連鎖が要請する因果律を外れた偶発的な今、ダイモーンの闖入としての現在のこと
少々分かりにくくなったが、以上がラカン派の一般的な女性イメージの理論を簡易化圧縮した解説となる。
一言でまとめると原父の女だけが男性の欲望の対象となるので、欲望の相手としての女性は全て原父の女である一人の普遍的女性となるということ。
というわけでユングにおいてアニマは一人の普遍的女性像に限局されているのだ。
つぎに多神教への止揚された回帰を目指すユングがなぜアニマにおいて一神教化を免れなかったのかを確認しよう。
まずユングにとってアニマ概念とは思弁的概念ではなく一万を超える夢分析の臨床事実によって確認され鍛えられた概念であり、
実際に一神教圏である20世紀初頭のスイス人の夢や理想として生じる女性像は、そのことごとくが一人の普遍的な絶対的女性像を成していた。
そのため臨床事実をベースに理論を構成するユングにとってアニマは普遍的女性、定冠詞つきの女性イメージとして記述されることになったのだ。
つまり一神教圏の臨床家であったために、ユング心理学がもつ失われた多神教への弁証法的な回帰というミッションにおいても、素朴な形で一神教の痕跡が残存したのである。
それがアニマでありセルフの一神教性の要因だと考える。
するとユング心理学をその内省と否定を介して純化し止揚したヒルマンの仕事の意義もよく分かるだろう。
彼はユングのセルフやアニマは一神教的だと批判し、ユングの精神に即すことでその概念を刷新、元型心理学を確立したユング派の大御所である。
ヒルマンの理論ではアニマは女性のイメージに限定されることなくかつてのダイモーンのようにすべてのイメージへと解放され、ユング派における女性の解放運動を実現した。
ヒルマンの仕事は女性を個別的で多様性ある存在として実現することに寄与するのではなかろうかと思う。
※このような仕事は現実の世界では女性の社会進出に通じるのではと思う
もちろん普遍の論理は現代文明をなすにおいて重要であるから、なんでも多様性は危険であるのだが、こうした女性解放が翻って普遍の論理(男)を支えることを適切に見抜くことが肝要と考える。さもなければポストモダン的(帰謬論的相対主義)な文明崩壊を招く可能性も否定できなかろう。
普遍が多様を実現し、多様が普遍を支える、この相互否定的な弁証法がユング心理学において重要となる。
またユング派河合隼雄の女性の意識論は見事にこのことを洞察しているというのが僕の結論である。
※後期ラカンにおいて精神病がベースとなり一神教主体(男)が精神病のバリエーションの一つとなったことがこのことと対応させられるかもしれない
ヒルマンをさらに止揚したユング派のボス、ギーゲリッヒの論考も、この系譜にあるのではなかろうか。
※余談になるが一神教と多神教の言語化の違いや女性イメージの違いはフッサール現象学におけるノエシスの連続的調和の時間的様態を規定するものと思う
ユングの創造的退行とメランコリー
さてユングといえば創造的退行が有名だろう。これはメランコリーや神経症の影響で人が抑うつとなることで外界に向けられていた心的エネルギーが内面に向かい、無意識の深い層へと凝集、そのことで自閉的で退行的な抑うつを介して創造的偉業がなされるという論理。
一般に否定的に見なされている鬱状態がここでは肯定的に捉えられる。これはヘーゲルが自己否定によって弁証法的に自己肯定が実現するとした論理にも近い。退行という自己否定性が創造という自己肯定をなすということ。
ここでは創造的退行の理論を検討することで、ユング心理学のミッションを改めて確認したい。
さてここではプラトンのメランコリー論を確認してユングと鬱病論(創造的退行)の特徴を確認しよう。
プラトンはヒポクラテスの四体液説を採用する。これは人体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四つの液体からなり、これらのバランスが乱れることで心身に異常をきたすという説。
そしてプラトンは黒胆汁が多くなりそれが体の一点にとどまって凝集してくるとメランコリー(黒胆汁病、鬱病)になると考えた。
またメランコリーはローマ神話のサトゥルヌス(クロノス)を司る土星に関連付けられる。土星は公転周期が遅いため鈍重と見なされ、その鈍重さが怠惰に浸るメランコリーのあり方と重ねられたのである。
メランコリーにおける黒胆汁(心的エネルギー)が人体に凝集し外界への意欲が閉ざされ外部に否をつきつける態度。この抑うつ的状態(退行)が人間の創造性をなすというユング理論は鬱病を創造と結ぶ論考といえる。
さて病碩学においては周知の通り創造はもっぱら統合失調症に還元される。そのため鬱病と創造性は切り離されて考えられてきた歴史がある。
※鬱病と統合失調症はしばしば対極的に語られることが多い
※ただしアリストテレスは鬱(水平的狂気)を想像と結びつけ15世紀にもフィチーノは鬱と創造を結びつけた
しかしユングにおいてはプラトン的なメランコリーのあり方と創造とが明確に結ばれている。
既に指摘した通りプラトンでは鬱病の狂気は創造に属するダイモーン(垂直)の狂気から切断されていた。
これまでにユングが古代ギリシャ的な垂直軸の神々との接続の回復をミッションとすることを見てきたが、創造的退行の論理にはこのように鬱病親和性(水平軸親和性)も見て取れるのだ。
この点は、ユングが素朴な懐古主義とは一線を画することを示すと考えられる。
というのも一般に統合失調症が芸術などの非日常性(垂直軸)と接続されるために鬱病はその逆に日常性(水平軸)と関連付けられてきた。
そのため鬱病は水平的な現代の科学的コスモロジーの病、統合失調症はダイモーンによる垂直的な神話的コスモロジーの病という見方がされる傾向にある。たとえば木村敏のポストフェストゥムとアンテフェストゥムなど。
※大地の人と天の神との繋がりは天地の垂直軸(超越性)にあり、人中心主義的な文明社会における人と人との横の繋がりは水平的世界観を特徴とする、たとえば古代ギリシャの水循環は大地の水と雨として天から降る水の垂直軸にあり現代科学では海辺から陸地への水平軸によって論じられる
したがって失われた垂直軸(超越性)を現代において回復しつつ、鬱病性(水平)に創造を見出すユングの論理は、水平的な日常性と垂直的な非日常的神との繋がり、現代と古代の二つのコスモロジーの止揚を目指すものだと考られるのではなかろうか。
尺の都合で詳しい解説は省くが、もとより近代人とは実存的な垂直性と社会的な水平性、交換不可能(直接性)と交換可能(言語の普遍性)との弁証法的な同一にその根拠を持つ。それゆえユングの論理は近代主体の止揚であり自由な主体の産出をめがける運動なのだろう。
つまりユング心理学の魂は決して単に太古的な多神教への回帰を目指したのではない。そうではなく近代において多神教を止揚された形で回復することで、翻って自由意志をもつ近代主体を生かそうという試みなのである。
これこそがユング心理学のミッションであると考える。
終わりに:深層心理学とは
さてユング心理学の運動(主体)を古代ギリシャのダイモーンを軸に概観してきたわけだが、ここでは深層心理学とは何かを簡単に取り上げたい。
深層心理学では派が増殖したりする。たとえばフロイト派にしたってフロイトのテキストの解釈の仕方によってラカン派だとかアンナフロイト派だとか、クライン派なんかに分裂したりする。
これは深層心理学の本体が、書かれた文字にあるのでなく、その文字の行間にあたる文脈(主体)にあることで生じる。たとえばニュートン力学であれば行間だとか文脈ない、あるいは一義的に一つの文脈に確定できるのでテキストの正しい解釈は一つしか存在しない。だから派に分かれたりしない。
ところが書かれた文字とその文字を書く意図(主体、文字の意味)とが分離し、書かれた文字の背後にあって、それ自体は直接には記述されることのないテキストの意図(主体、文脈)をこそ実とする深層心理学においては、その主体の読解によって派閥が分かれることがある。
このような際限のない分裂はもちろん、合意形成を困難とするのであまり良いこととも言いがたい。
したがって分裂する派の論理を再統合するようなロジックというのも必要となる。そうした統合的論理は派閥を超えて互いの普遍的合意を形成するうえでも有効に機能するだろう。
たとえばこの記事にはフロイトとユングの弁証法的な統合という側面もあるということ。このような分裂と統合の運動をヘーゲル弁証法という。
したがって深層心理学のテキストは生きている。そのテキストはテキスト自身とテキストの主体(行間)との差異の同一による自己関係をなし運動する。
このような自己関係の運動を回復すること、それこそが精神分析でありユング心理学の治療でありミッションなのである。
だから深層心理学のテキストの弁証法的運動に参与することは、それ自体が分析のまったき実践となる。
まず、このことが深層心理学という学の基礎理念であるので、ユング心理学に興味のある方はこの点をふまえ入門書を読むことをオススメする。
読書紹介
ユングに興味ある人むけに僕がこれまでに読んでオススメの入門書を紹介。
河合隼雄『ユング心理学入門』培風館
※必ず培風館のものにしてください。他の出版社でも同じ本が出てますが、そちらは割愛されています
総編集河合隼雄『講座心理療法』(全8巻)
河合俊雄『ユング派心理療法』
河合俊雄『心理臨床の基礎2 心理臨床の理論』
ユング著『ユング 分析心理学』 小川捷之 訳
田中康裕『魂のロジック ユング心理学の神経症とその概念構成をめぐって』
ユング『自我と無意識』
以上の本だと魂のロジックが一番難しいかもしれないがこの本はユングのテキストの背後にあるユングの魂を本格的に読解する本である。
もしよりクラシックなユングが学びたい人であれば、MLフランツなどもオススメ。また物語分析や仏教との比較研究であれば河合隼雄は欠かせない。あとCAマイヤーや川嵜克哲もオススメ。
またユング理解のための哲学本ならヘーゲルの入門書がオススメ。最新のユング理論の理解にはヘーゲルの理解が避けられない。
現象学の基礎が分かってないと心理学がなんなのかがよく分からなくなるので竹田青嗣『哲学とは何か』を読んでおくとよい。
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