うたまるです。
今回は日本語と英語の言語学的な性質の違いを現象学的、深層心理学的に紐解くことで、日本人の文化的心性を明らかにします。
まずは日本と西洋の絵画芸術の性質の違いを取り上げ、それら芸術の相違が言語や心理といかに関連するかを考察、分析してゆきます。
言語に関しては中動態、能動態、受動態をベースにした考察です。この記事では日本人の文化や国民性と言語との関係にも踏み込むので、こうしたことに興味のある人むけの記事。
今回の記事は高畑勲の論文や木村敏の論文、そのほか多数の深層心理学の論文を下敷きにしています。
※深層心理学的読解、分析は解釈です。絵画や言語の構造は抽象的概念であって物理的実体はないため、これらへの学問的洞察は解釈の次元にあります、この記事はしたがって学問的基礎理論にもとづく一つの解釈です
日本と西洋の絵画の特徴
日本の絵画
日本の絵画の特徴は線画にある。日本画の影響を受けた西洋のアールデコにもいえるが、日本画は漫画の絵のような輪郭線があってその枠線の内側をべた塗りして描くのが特徴だ。
現実の事物対象には輪郭線など存在しないので線画は写実主義とはことなって比喩的なイメージの世界を描くのに特化している。
また浮世絵などの日本画には陰影がなく平板さをその特徴とする。
さらに日本のアニメにしても古くはモーションよりも止め絵が重要となり、要所でのキメのポーズ、歌舞伎の見栄のきるような止め絵が重視される。
日本では動いているシーンは雑でも止めの絵がきまっていればそれでごまかせたのだ。
また時間の流れを絵にした日本の中世の絵巻物においても、今この瞬間をこそ描くものが多いという。たとえば落馬する瞬間(『年中行事絵巻』)など。鳥獣戯画でもカエルがウサギを投げ飛ばす瞬間などが描かれる。日本の連続式絵巻物では前後関係を寸断するような現在の一瞬の状況を捉えるものが非常に多い。
高畑勲の著書『アニメーション折にふれて』にも‘’話の前後から切り離して、絶えず現在の場面だけを見る‘’のが日本の絵巻物の構造だと書いてある。
こうした特徴から日本人にとっての世界観が分かる。
というのも絵というのは描き手が世界をどのように認識するかを如実に物語るからだ。風景構成法などの描画による投影法が臨床場面で重宝されるのもそのため。
たとえば人の絵を描くとき、下腹部の下に横線を引いて描く人がまれにいるが、そういう人に、その現実にはない線をたずねると、上半身と下半身の境目だという。
つまりこの描き手にとって人間とは上半身と下半身の二つに分節してることが絵に現れているわけだ。絵の構造が描き手にとっての世界観の反映であるとはこの意味においてである。
つまり日本人の絵画には日本人の世界認識の構造が内在しているといってよい。すくなくとも臨床心理学上はそのように考えることができる。
すると以上の日本人の絵の特徴から日本人は物中心主義にあると分かる。というのも陰影がなく個々のオブジェクトが陰影や遠近感を無視してくっきりと浮き彫りに描かれているからだ。
ここで個別のオブジェクトが独立してそれぞれに中心をなすことが分かる。これはもちろん日本のアニミズムや多神教につうじるだろう。物に魂がやどり、万物に神(主体)がいると考える日本人の世界観をよく示す。
単一の視点(一神教)によって秩序化される以前のアニミズム的な対象中心主義の世界観だといえよう。
またこれは対象客体とそれを対象化するところの主体との未分離を示す。
たとえば、この寿司はうまい、という場合、これは、この寿司がうまいという仕方であることを示すが、
日本語ではこのとき、うまいという様態として寿司を在らしめるところの在る(存在、主観、主体)と、対象としてのこの寿司そのものとが区別されない傾向が強い。したがってオブジェクトに魂や神といった主体が宿る日本的なアミニズムでは客体と主体とが未分離。
陰影なき線画によるオブジェクトの中心主義の日本画はこの未分性をこそ示すと考えられる。
※在ると対象自体との差異をハイデガーは存在論的差異と呼ぶ、この差異が希薄なのが日本の特徴
このことは日本語が漢字という表意文字を好みシニフィアンとシニフィエとの分離が弱いのをしめす。
ちなみに、表意文字とは絵文字やオノマトペのことで、文字のフォルムや音感(シニフィアン)がそのままその文字の示す意味(主体、うまい)を表す。
つまり、先ほどの例で解説すると、この寿司がシニフィアン、うまいがこの寿司の意味(イメージ)であるシニフィエとなる。この二つが日本語や日本の絵画では未分離だということ。
うまい、が私の主体、主観でなく、寿司の主体性として寿司(対象)と一体ですよということ。ここには対象とそれをあらしめる私との未分離がある。
さて現実には輪郭線は存在しないため線画の世界とはイメージの世界であり写実主義と異なる。ここでイメージとは物の背後にある意味・主体の表象といえる。したがってイマジネールな日本の絵画は、対象よりも物の魂としての主体性を中心とする。
これを西田幾多郎は述語的と呼ぶ。つまり寿司という主語の本質を、うまい、という述語でありイメージに見出すということ。英語では主語的論理が強く主語に本質が見出される。
※現象学の本質直観における本質とは述語面に相当程度対応するだろう
またこのこととも関連し、日本人の時間意識は今が優位だと分かる。止め絵の重視や転機としての今この瞬間の描写を重視する日本人の意識は今この瞬間に開かれた生ともいえる。
こうした落馬の瞬間といった今の契機を中心に主体の生の始まりを描く心は今を中心に今この瞬間の未知性によってこそ生をなす実存意識を表象する。
転ぶ瞬間のはっとした感情やとっさの身体の反応といった今において、おのずから生じるところの生への意志が尊ばれたのだろう。
後の議論を先取りすると現在におけるこのような、おのずから生じる生への意志を自己の運命として覚悟するところに日本語の中動態→能動態の言語構造がある。
おのずからを覚悟して、みずからとなす、ここに自ずからと自らの漢字の同一性の理由あり。
また、これは武士道とは死ぬことと見つけたり、という葉隠れの有名な一節にもよく現れていると思う。
日本の芸術を研究する加藤周一はこのような日本人の今を中心とした世界観を現在中心主義と呼ぶ。
この現在主義は日本人の死生観と密接に関わる。
西洋の絵画
たいする西洋の絵画はルネッサンス期以降になると一点透視図法が登場し、その写実性に磨きがかかる。
遠近感のある立体的な描写を特徴とし、陰影が緻密に描かれ、輪郭線を目立たなくすることに心血が注がれた。
とりわけ光の陰影については西洋絵画の根幹をなす要素でフェルメールなどはその典型であろう。
こうした陰影があり遠近感のある西洋の絵画は個別の独立したオブジェクトをバラバラに描くことはない。西洋の絵画の中心はオブジェクトではなく、遠近感や陰影によって創り出される世界を認識し像をなすところの一つの視点(主体、神)にある。
この世界をつど一点においてあらしめるところの焦点(主体)こそが一点透視法における消失点(神)と対応するのはいうまでもない。
それは一神教の神の視点といってもいいだろう。聖書では神は最初に光りあれと言い闇と光を分節したことが知られる。西洋の神は言葉により天地、動物と人間など万物を分節し、6日で世界を創造したのだった。
より分かりやすくいえば陰影とは一個の光源と万物との位置関係を示すものといえる。この光源とは一神教の神の光(視点)に他ならない。
かくして世界における視点と対象との距離を構成する空間の立体構造と陰影とは客観をなすところの絶対者=一神によって構成されているのだ。
さて、こうした遠近感をもった世界空間の構造化は、じつは時間の構造化と対応する。オブジェクト中心主義の多点的世界、多神教的世界が示す現在主義と異なり、唯一神の空間構造はニュートン力学的時間を要請するのだ。
一神教にとって世界とは唯一神によって統一的な一つの目的意志のもとに創造されたことを考えるとこのことは感覚的に分かりやすい。
つまり聖書の世界観では万物は歴史時間の始まりに先立つ超越神によって目的的に開始・創造された。そのため万物はその起源である世界の創造に存在理由の根源をもち、万物の運命はその過去の一点たる起源によって規定される。
かくして今、現在はその重要性を剥奪され、起源および決定論的な歴史の目的(最後の審判)だけが問題となる。
この世界観では人間の実存もまた今、現在に求められることはなく神の運命たる起源に求められることとなる。
ユダヤ一神教の影響の強いユダヤ人のフロイトを創始とする精神分析が原因論を好み幼児期(始原)における心的外傷=起源をこそ症状(実存)の核とするのもこれと密接に関わるだろう。
ゆえに今とは客観主義=写実主義をなす一神教においては、無に等しいのだ。よって西洋の時間において今とは長さのない無に等しいものとされ葬られることとなる。
※この時間を巡るパラドックスは存在論的差異の混同、時間を空間とはき違える誤謬によって起こる
※空間と時間の相関については論理的解説も可能だが小難しいので一般読者むけに感覚的に分かる説明にした
日本と西洋の違いまとめ
日本人の世界観はオブジェクト中心主義であり物は独立してそれぞれに神(中心、主体)を宿すアニミズム的、多神教的な世界観をもつ。
そのため客体対象と主体主観との分離が弱く両者は未分離性が強い。シニフィアンとシニフィエがくっつく表意文字性が強い。
またそれに関連して、日本人の時間意識は過去や未来にではなく今にある。ここでの今は長さ=動きのない静止空間ではなく、主体性であり自ずから生じるところの自然の勢いというべき行為性であり意志を示す。
そのためある瞬間を描きつつ漫画のような動きのダイナミズムを表象する流線を描く絵巻物が多い。
たとえば振り回す薙刀に漫画ソックリの流線をつけてスピード感を出す絵巻が日本にはあると高畑勲はいう。
ちなみに西洋の写実主義の絵画や陰影の技法が輸入された江戸期において葛飾北斎などが西洋風の絵を描くも日本では流行らなかった。
※流線の表現は時間を客体よりも主体や述語面(こと性)に見ていることをしめす。それでいて主体と客体が未分であるためにイメージが実体化されて重視されイマジネールな絵画が主流となったと考えられる
対する西洋の世界観は一点透視法であり世界のオブジェクトをかくあらしめるところの一つの視点を中心とする。
シニフィエとシニフィアン、主体と客体が分離している。
これにともなって時間はニュートン力学的な決定論が中心となり、時間の今は静止空間(客体)として長さのない無にきし、万物創造の起源たる過去と、その過去により要請される歴史の終焉たる最後の審判だけが重要となる。
さて、次項ではこれらの文化的な心の差異を日英の言語構造の違いから紐解いてゆこう。
日本語と英語の違いと中動態
ぼくは言語学にはまったく明るくないのでこの記事は、YouTubeチャンネルの『ゆる言語学ラジオ』の動画を参考に僕なりに考察したものである。また以下の考察の論考は木村敏の考え方をベースにしている。
動画によると日本語は存在文であり英語は動詞文だという。
※この記事が参考にした動画『英語は荒野行動!?日本語に「時制の一致」が要らない理由 #5』
たとえば日本語の「時間がある」は英語では「I have time.」、「二人の息子がいる」は「I have two sons.」、「日本語が分かる」は「I understand japanese.」など。
英語では主語は全てIだが、日本語では時間や息子、日本語が主語となるという。これにより日本語では対象の側が主語(中心)だと分かる。
※この場合の日本語は無主語な気がするが、オブジェクトの側を主語と見なすこともできるようだ
さらに英語の場合、haveもunderstandも動詞だが、日本語では、ある、いる、分かる、は全て存在を示すという。
分かる、は動詞だがその語源は「分く+ある」であり存在を示す「ある」を含むという。
また存在文では、ここから山が見える、というようにおなじ場所(ここ)にいる人には自他の区別なくその主体性=見える、が共有されることになる。ここに主体と客体、自と対象との未分離がある。
日本画におけるオブジェクト優位主義、シニフィアンとシニフィエの未分離、写実よりイメージ主義はかくして日本語の存在文のあり方、無主語的なあり方に対応すると考えられる。
さて、本題に入ろう。まずは英語、印欧語を観てゆこう。
英語の「surprise」は驚くではなく「驚かされる」を意味する。
以上の特徴から導かれる仮説がある。
まず英語では世界を俯瞰する一神教的神の視点がその言語様態に顕著。
サプライズが驚くではなく、私は驚かされる、と英語で表現される理由は、神が私を驚かせるからだという。
つまり自己の都度の想念や感情の湧出、行為の主体性は自己存在の背後にある神による、というわけだ。
深層心理学的な視点でいえば、私が驚くという体験が驚かされる、として表記されるのは「エスのあるところに自我を在らしめよ」という有名なフロイトの言葉に通じる。
※ニーチェでいう力への意志が意志自身を意志するということにも通じる
エスとは周知の通り無意識の他者(行為、語り)の主体性を示すフロイトの言葉。
驚きとは私の意図を超えた感情であり、私の予期や企投の断絶を示す。このような外部的な存在(衝動、驚愕)に起因した自己の時間的な断絶としての「驚き」が英語では受動態の驚かされる、として表現される。
日本語ならば、驚いた!となるだろう。
ここでは、サプライズ=驚かされる、が中動態ではなく受動態であることが重要となる。
※見える=中動態(無主語文)、見る=能動態、見られる=受動態
受動態とは能動態と対をなして成立するもの、すなわち主体(見る主体)ー客体(見られる対象)の成立を示す。古い印欧語に受動態は存在しない。
古代印欧語には中動態⇒能動態だけがあったことが知られる。中動態というのは「山が見える」というときの見えるなどをいう。見る(能動)と異なり、見えるには主語がない。日本語は無主語的であり中動態が基本となる。
したがって中動態というのは自然(エス)の勢い、おのずから、想念や意志、行為性それ自体の自生性を示す。ニーチェでいう運命愛以前の永遠回帰の様態を示すといってもいいだろう。
いわば中動態的な自生的な行為性が自己自身において引き受けられ、欲望されること、欲望(自生的行為性それ自体)が欲望(自己化)されることにおいて中動態は能動態となるわけだ。
それ(中動態)を引き受けなければ神経症の症状(私の意志でない他者の意志の暴走)になる。だからフロイトはエス(それ)のあるところに自我を在らしめよ、といっている。
※エスはドイツ語でソレを意味する。英語ではitに相当、神経症の症状は私の意志を無視して生じる私の行為想念であり他者の主体性である
というわけで日本語に豊富な中動態(無主語文)とは、前人称的(前能動態的)な中動態のエスを意味する。いわばエスとは中動態における存在(あること、行為性)の他性(自生性)を示す。
したがってエスに驚かされたと解する英語の受動態というのは、本来は前人称的な無主語の行為性・主体性それ自体に神という名詞的主体性、主語を想定することであり、それは人と神(エス、自然)との分離を示す。
※ユングのセルフをエスの主体とすれば、存在の他性が自己と呼ばれていることになり、これは日本人の言語構造の自他未分と一致する、周知の通りユングは多神教的である、そのためユングにおいても時間は今が中心でありフロイトとの対立も時間を巡る対立ととれる
もっといえば中動態⇒能動態への移行における他性(中動態)の『引き受け(覚悟)』が中動態の能動態化への契機から分離してエスが客体化することで生じたのが受動態だといえよう。すくなくとも僕の現象学的な本質観取ではこのように理論化できる。
※僕の時間理論ではこれはハイデガーにおける所有(中動態→能動態)からの負課(引き受け、受動態)の分離に対応する
印欧語ではエスからの自我の分離において、ソレは純粋な自生的主体性(述語面)ではなく、神という他なる主体(名詞、主語)が発揮する主体性、神という形で名詞的に限定された主体的な主語によるものとされるのが分かる。
かくして、前人称的、前主語的な主体性たる対象の「ある(見えるなど)」を統べる総体としての神(客観視点)からの分離(名詞的限定)が受動態を生じ、受動態以後の能動態が、世界から切り離された外部存在としての神の視点と意志とを分有する主語「I」の誕生を基礎づけたと考えられる。
※印欧語では近代化にともない中動態→能動態は消滅し、受動態ー能動態の軸だけになる
また近代英語では、神において対象化された自己存在であるI(自我、主語的自己)が、あらゆる動詞(行為性)に先行してその行為の主語(文頭)としての自己像(自我イメージ)をなす。
したがって神が主体であった時代の古英語では主語のない文章が多い。現代英語のようにやたらと「I」は登場しない。そのため近代に至り神より主体性を簒奪すること(神殺し)を経て主語としての「I」が高頻度で登場するようになったと考えられる。
よって主語Iの誕生は、神であるところのエスを抑圧することでなりたつ。神経症が近代に可能になった現象なのは有名だが、神経症の要因とは以上から明らかに、神の殺害=エスからのさらなる分離、によって生じた抑圧の機制によるのだ。
※抑圧とは意識表象=自我にふさわしくない自己の存在性を無意識へと封じ込め意識に上がらなくすること、神経症の症状とはこの抑圧した物の意識への回帰とされる、また私の主体性における他性(神)の消失をラカンは去勢の防衛=おとしめ、や幻想として定式化している
さて、ルネッサンス期の一点透視法は潜在的な神殺しに相当し、後のフランス革命を準備する心理的構造を示すだろう。一点透視法は神を殺害して自己主体の一点から見える世界を描くもの。これはルネッサンス期の芸術が人間中心主義とされることにも通じる。
このような一神教的な言語的世界像が一点透視法や陰影、写実主義をなす根底にある。
万物は印欧語においては常に、主語のIあるいは神という一点において在らしめられる。対象と主体との分離、シニフィアンとシニフィエの分離を示す写実主義の構造的条件もここにある。
※英語ではエスの主体性(行為性)に対して遡行的に先行して主語(主体)が措定されるため主語Iが文頭に生じる
まとめよう。
驚かされるといった人間の受動態表現がエスの主体化(主語化、名詞化)によるエスからの人の分離において生じ、このような構造が一神教の特徴である。そして近代の神殺しはエスの抑圧を生じ、さらなるエスからの分離を実現し神経症を準備したということ。
言語構造と芸術構造がいかに連動し密接に関わり宗教観に根ざすかが、以上からある程度示せたと思う。
言語論の補足
以上をもとに、近代主体の自己意識の構造化の歴史的変遷を補足する。
まず中動態における自生的な存在(行為性)が、その他性のために他者としての主体(主語)、すなわち神を生じ、このことで主体性(能動)は主体と客体、能動態(神)と受動態(自我)とに分離、中動態(主体性、今)は欠如してゆくことに。
これにより客観的な神の視点における自己が意識され、神と自己との分離を解して主語Iも可能となる。
このような主語Iは主観性(個人的イメージ、アニミズム)の否定としての自己否定によって客観を可能とする側面をもつ。
※キリスト教はアニミズム的な物の魂を禁じた歴史がある
さらに近代に至り、フランス革命に象徴されるように神は殺害される。このことで人間の主体性は人間の自我である主語Iに移行する。神から主体を簒奪したといってもいい。さらなるエス(神)からの分離である。これを精神分析の抑圧に対応させることができる。
つまりまずエスが自然世界と切り離された世界の外部にいる神に回収され、そのことで上空の神の視点へと移行した自己意識はその視点から見られる対象としての身体自己像(I、鏡像)を形成。
つぎに神殺しによってその上空からの視点が身体自己像へと回帰する。
ここでは神の視点から自己を俯瞰する自己と俯瞰される身体自己像とが、分離しつつ同一されるという矛盾的自己同一が生じる。この矛盾的自己同一(弁証法)こそが近代主体(神経症)の基本構造となる。
このアニミズム的な視点から一神教的神の視点、そして矛盾的自己同一の視点という三段階の歴史的精神の変遷が中動態→能動態から能動態ー受動態という言語構造の変遷、および主語Iの頻度の上昇に対応する。
じつはこのことは風景構成法という心理テストによくあらわれる。
幼児に風景構成法というお絵かきテストをすると、古代の壁画や日本画のような平板で一様に全てのオブジェクトがあるような対象中心的なアニミズム的絵が見られる。
これが小学三年生になると、垂直に描画された川による構図の分裂と遙か上空からの鳥瞰図という二点を特徴とする絵が多く見られる。川による二分割は自意識による自己の分裂に対応し、天からの鳥瞰図は神の視点に対応するだろう。
ここでは神の視点と自己とが分離したままで同一しない。
これが小学5年以降になると川が斜めになり此岸と彼岸が描かれ、奥行きのある描画へと移行する。
近代の一点透視図法にちかくなり自己の視点を中心に、世界が限定された自己主体の一点との距離を軸に構成されるようになる。
これはちょうど神の視点が折り返して自己主体へと回帰したような弁証法の構図といってもいい。
※最近の日本人になると非定型発達の増加にともなって、純粋に写実的な絵も増えてる。これはイメージ以前の現実描写で、ルネッサンスにおける写実主義とはまったく異なる。つまり現代人にとって世界はイメージなき客体となりつつある。イメージとは霊魂イメージが現実の対象の死(否定)によって生じるように現実の否定によって可能となる。つまりこの観点においては現代日本人は古代日本人よりさらに原始的と考えることも可能
さて日本語の中動態、山が見える、の主語は無主語ともいえるが山とも見なせる。ここでは「見える」の自生性は山という対象の側に預けられる。ハイデガー風にいえば山が表象化するとき、山を山として表象化する者としての自己が表象化される。
また既に解説したようにこの場合の中動態は、ここから山が見える、という言い方が可能で、ここにおいては誰もがおなじ見えるという主体を共有する自他未分にある。
このような語法が、主体・主観の共同性、間主体性を前提とするのはいうまでもない。つまり日本語の存在文(ある)とは主語なしの中動態的自生性をその特徴とする。
エス=中動態とは自他未分の共同主体性なのだ。
さらにこの場合は当然に、主客未分の自然のアニミズム的な自律性が生きられる。したがって見えるところの山は客体にあらず。見えるという自然の自生性のそのつどの発現、自己実現に他ならない。
つまり見える山は自己自身の内なる他性をその存在に宿す。これがアニミズム的な物の魂、八百万の神という日本的世界観の実相だと考えられる。ここではエスの主体性は、主語的で名詞的な自己身体像の私には限定されない。また私と山との関係を第三者の視点(神の視点)から見る意識もないといっていい。
このような日本語の言語構造はラカンでいう妄想性隠喩に近い面がある。ただし妄想性隠喩では一神教的な全体主義的言語への防衛として女性への推進をともなうので、そこに日本語と妄想性隠喩との違いがある。
終わりに
すこし難しくなったかもしれない。本格的にきっちり分かりやすい説明をするとおそらくかなりの長さになるので、尺の都合で記事が説明不足で小難しく、主張も雑になった。
中動態から受動態がどうして生じたのか、に関するちょっとした深層心理学的な思いつきがこの記事の論旨のベースとなる。本当は所有概念こそが能動、受動、中動概念を規定し、これによって時間と空間の意識的構造が規定されているというのが僕の仮説なのだが、そこまでは記事にできなかった。
言語学についてはまったく知らないので甘いところもあろうがそこはご容赦願いたい。
さて、しばしば日本語の特性を英語との比較で紹介すると韓国語にもいえるとかいう人がいる。
しかし、そんなことは深層心理学をかじっていれば常識であるため、本当に日本語オンリーなどと思っている人は少ないと思う。
というのも韓国文化の恨(ハン)は日本文化の基礎をなす原悲と通底するからだ。たとえば黒塚という能の演目では原悲の物語とおなじ構成のまま徹底して恨が描写され原悲に至らない。
またイザナギの冥界探訪でイザナミに追いかけられるシーンも韓国的な恨であり悲しみ(美的解消)の前段階には概ね恨がある。
さらに悲しみという感情を現象学的に本質観取すれば、それが日本語の構造に見事に合致することが確かめられる。
※僕の本質観取だと涙や悲しみはラカンでいう女の式、ヒステリーの言語構造に相当する
したがって日本人にとっての根源的な情状性たる悲しみと韓国の恨はとても近い。心理学的には日本語と韓国語の構造が近いことは、ここから容易に察しがつくわけだ。日韓は不仲とされるが深層心理学的には同族嫌悪としか言い様がない一面もある。
ちなみに、元来のフィリピンの言葉も日本語と近い可能性があることが深層心理学的には推論されうる。
というのもフィリピンの昔話におけるハイヌヴェレ型の構造は古事記にも見られるし、日本の近世におけるキリスト教の受容と変質のあり方(隠れキリシタンの教義)もフィリピンにおけるキリスト教の変質と類同性があるからだ。
そしてフィリピンもまた時間においては今が圧倒的に優位なのである。また日本には義理人情があり、これが重視されるが、フィリピンにもウタンナローブというとても尊重される言葉があり、この言葉は義理人情を意味する。
日本の文化特性とはしたがって欧米一神教との比較においてもっとも顕著となる。もちろんフィリピンや韓国との比較においても細かな相違を体系的に論じることができるだろうが。
こうした文化研究は国際的な協調や相互理解にも欠かせないし国家によるメンバーシップの涵養にも重要であろう。
さっこんは訳の分からぬ詭弁を弄した論理実証主義が蔓延し、こうした現象学的な文化論をターゲットに一方的に荒唐無稽な攻撃をしかける迷惑系も多いので注意したい。
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