※この記事は映画バービーのネタバレを含みます。またこの記事は作品の意味を考察するものであり一つの解釈に過ぎません。
うたまるです。
こんかいは映画『バービー』を精神分析・フェミニズム論で徹底解説!
じつはこの作品、フェミニズム思想の変遷から現代社会と人類の向かう先を示す作品。また映画を観たかたには言うまでもないことですが、バービーはフェミニズム抜きに解説することが不可能な作品です。
そんなわけで記事を書くにあたり、エリザベスライト著、椎名美智訳、竹村和子解説『ラカンとポストフェミニズム』を参考にしました。著者、翻訳、解説全て女性でフェミニズムについて知るのにうってつけの本。
というわけでこの記事ではバービーから人類の心理がいかに変化し、どこへ向かうかが丸わかり。
さっそくバービーという映画の奥深さを探究してゆきましょう!
バービーとは
題名 | バービー |
監督 | グレタ・ガーウィグ |
公開日 | 2023/8/11(日本) |
製作国 | アメリカ |
公開3週間で興業収入10億ドルを突破した怪物級の大ヒット映画。女性監督の作品であり、フェミニズム映画の金字塔といえる。
バービーのイントロと鏡像
本作のイントロダクションは深層心理学的に見逃せない。
冒頭、バービー以前の子供用の人形が赤ん坊であったことが示され、バービーという成人女性の人形が販売されるや女の子たちが赤ん坊の人形を放り投げバービーに夢中になる様が描写される。
これは非常に重要な事実を物語る。
しばしば幼児はお人形遊びを通じて育児を体験しているという間違いが流布するが、じっさいには幼児にとっての人形とは鏡像である。
※人形をウィニコットの移行対象という人もいるようだが移行対象は布きれなどであり対象a、〈物〉の断片であって鏡像とは微妙に異なる
鏡像とは自我のモデルとなる理想的な自己像(自我イメージ)のことで、社会的(象徴的)な人物像を示す。鏡像というのは母が赤子を抱いて鏡を覗き、鏡に映る子の像に母が欲望の眼差しを向け、その像を母が承認することに由来する。
つまり鏡像とは母が目線をそそぐ他者のことで、母が社会的に欲望の眼差しをむける象徴的な存在。
たとえば母親が夢中になり眼差し(欲望)を送るアイドルとか優等生とか社長とかの社会象徴的他者が子どもにとっての理想的な自我の像として取り込まれる。このことで子どもは社会的=言語的自我像を獲得し、母の欲望(眼差し)を欲望して社会的な欲望(社会的自己実現への意志)を持つようになるというわけだ。この他者を迂回した欲望の構成のために人間は言葉を習得することとなる。
つまりバービー人形とは自己の分身であり理想的な社会的=言語的自己像である。
すると子どもが赤ん坊の人形よりバービー人形に夢中になるのも当然だと分かるだろう。映画の冒頭では人形遊びの人形が鏡像であることが意識的に明示されているのだ。
そんなわけで、マテル社でバービーを開発したルース・マリアンヌ・ハンドラーは子どもの人形遊びが育児のまねごとなどではなく、鏡像を投影していることを見抜いていた。
ここで強調してもしたりないことは、まずこの映画は子どもにとって人形遊びが育児のまねごとでなく、鏡像の基礎付けにあることが一貫して強調され、人形が鏡像(社会的理想像)であるとの認識のもとストーリーが構成されている点だ。そうでなければフェミニズム的な主題を扱うことができないともいえる。
したがって冒頭のシーンは後の映画全体のメッセージに鑑みて非常に示唆的なものである。
というわけでよく練られたイントロだといえよう。
またバービーが鏡像だということは子どもの欲望の対象であって自己実現の目標としての役割を人形が負っていることを意味する。まずはこのことを念頭におかないと作品の意図がぼやけてしまうだろう。
つまり本作の冒頭が示すのはバービー人形が女児にとっての社会的な自己の理想像を構成すること。これはもちろん女性のあるべき姿とか女性像に直結するわけだから、フェミニズムとか女性の社会進出を決定的に基礎づける。またそれと同時に子どもに託す大人(マテル社の人たち)の社会理想の反映でもあるわけだ。
フェミニズムの映画論
さて、鏡像ということに着眼して解説を開始したのには理由がある。
ラカン以後のフェミニズムにおける映画論ではフィルムノワールへの分析が典型だが、スクリーンを鏡とし、スクリーンを覗く観客の眼差しやカメラをコントロールする監督の眼差しが積極的に論じられる。
プロットやカメラワークから作中での女性の描かれ方を考察し、これが男性(監督)の欲望の眼差しに支配されているとか、逆に女性が見せかけ(仮装)によって男性の欲望をコントロールし場を支配しているだとかの考察がなされる。
※見せかけ(仮装)はラカン派における女性の性規範のあり方を示す。これは分離後に分離に執着するあり方を示すのだが、解説すると長くなるので今回は割愛する。簡単に紹介すると仮装とはファルスの欠如をベールで隠すことでファルスをあるように見せかけ、男性の眼差しを自己に集め自身をファルスに見せかけること
本作は女性監督グレタの作品であり、脚本からも明らかだが、女性の眼差しによって作品が構成されている。ルース・ハンドラーという母が娘を欲望する眼差しから生まれたバービー人形を、その娘たちの一人に相当するだろうグレタ監督が母(他者)の視点で眼差し、映画化しているわけだ。
したがって本作では男性から見られ欲望される対象としての女性ではなく女性から見た女性のあり方が問われている。
映画の基礎背景を確認したので、次に本作の理解に避けられないフェミニズムの基礎を紹介する。
ポストフェミニズムとバービー
エリザベスライトによると、フェミニズムは第三波まであり、第三波がポストフェミニズムだという。
第一派は20世紀初頭、女性参政権を求めたフェミニズム運動をいう。日本で言えば平塚らいてうがその典型だろう。
※ネットによると現代のフェミは第四波と呼ばれるが、第四波は第二波とほぼまったく同じ
結論からいえば、本作では第一派フェミニズム思想は全く射程圏外となっている。これは先進国の達成の結果とみてよい。
第二派は1960年代に学生運動とともに始まった。第二波フェミニズムの本分は家父長制や帝国主義への反発にある。具体的には職場での平等の実現、性的支配や家庭内支配からの解放が目指される。
しかし第二派は集団的活動が重視された結果、人種や階級の違いに始まり個々のアイデンティティの差異が無視され、内部での緊張状態が高まったという。
これにより第三波がポストフェミニズムが要請されるに至る。
ここでポストフェミニズムの説明に入る前に本作がどのフェミニズム段階を主題化しているか作中描写から考察してみたい。
バービーで遊んでいたグロリアの娘、サーシャのセリフに、女も男も女を嫌ってる、という痛恨の現代社会批評メッセージがある。このセリフは第二波フェミニズム運動(第四波)が個々のアイデンティティの抹消をともなったことで内部での緊張が高まったことをよく示すように思う。
このシーンは全体の作品のコンテクストに照応すれば、家父長制への抵抗というスローガンのもと女性らしさ全般を的にかけ、全体主義的に作動する第二波フェミニスト運動が今日において完全に限界を迎えていることを示すセリフととれる。
まとめよう。
本作は家父長制も問題にしているが、しかし、同時に第二波フェミニズム思想の限界をセリフや数多のシーン、とくにラストの定番バービーの脱構築などによって徹底的に暴露し、第三波のポストフェミニズムによって、家父長制の問題やフェミによる女性の分断の問題を克服する経路を開く。つまりポストフェミニズムとしてのフェミニズム作品なのだ。
以上から本作の理解にポストフェミニズムの理解が絶対的に不可避だと分かったと思う。さっそくポストフェミニズムについて確認しよう。
ポストフェミニズム
20世紀末以降のフランスのフェミニズムは複数化しており諸派が乱立しているという。
その1つにエクリチュールフェミニンというのがある。エクリチュールとは書かれた言葉のことだが、エクリチュールフェミニンとは、男性社会のファルス中心主義的な言語秩序に従う限り女性的な書き物は不可能だというもの。
ファルス中心主義というのはフェミニストを筆頭とした精神分析批判の決まり文句のことでフロイトおよび初期ラカンが、女性に欠如する身体器官としての男性器を、欲望の対象=ファルスと解釈し、そのファルスを中心に人間が主体化され言語を習得するという考え方への批判を示す。エディプスコンプレックスを男性にしか認めなかったフロイトへの批判ともとれる。
第二波フェミニストにとってフロイトは最大の敵であった。
またポストフェミニズムをその理論的支柱となるだろうポストモダニズム的な観点から補足するとファルス中心主義批判はプラトン主義批判にも通じる。
ここでファルスとは正嫡的で正統的な系譜のこと。本格的に解説すると父の名の話になって長すぎてきりがないので感覚的に分かるように圧縮説明するとファルス中心主義=プラトン主義には、男系天皇批判というニュアンスがある。
男系天皇はプラトン主義をよく表す。
天皇家は父系で家系が構成され天皇なら神武天皇やニニギまで父の系譜で遡れる。神武天皇という初代父のたった一つのファルス(父の名前)が現代に至るまで正嫡的に伝達され、母系はウソンコとして否定される家父長的で正統的なファルス伝達の歴史構造、言語構造、社会構造を批判する意図がファルス中心主義という言葉には込められている。
※これがプラトン主義に通じるのはプラトンが狂気をダイモーン的な天の父からなる正嫡性とそれ以外の三流とに分ける正嫡主義的な考えだったことによる。またこの正嫡主義がデリダによりプラトンのパロール主義と結びつけられパロール批判を経由してフッサール現象学までもが一絡げに否定されるのがポストモダン
つまり第二波フェミニズムは、家父長制への抵抗のもと、個々の女性の多様性を排除し、単一の女性像、すなわち定冠詞つきの女性像を新たに構築する運動である。
ポストフェミニズムの問題意識は、このような単一で多様性を認めない定型的(正統的)な女性の型を主張する第二波フェミが、翻ってファルス中心主義的な男性的システムの産物に過ぎないという点にある。
ともあれ、エクリチュールフェミニンなど色々と知的なフェミニズムが展開するなかで主体性の複雑さを研究したフェミニストも出てきて、そのおかげでフェミニズムはポストモダン思想(ポストフェミニズム)へと移行できたという。
ポストフェミニズムには肯定的な意味と否定的な意味がある。
肯定的にはポストフェミニズムは動的で形も中身も変化し続ける生命体(横浜駅)のようなもの、あるいは本質的な意味での思想(主体)だと解釈される。
この場合、第二波のTHEアンチ家父長制的女性という定冠詞付きの女性の定型を押しつけるあり方を批判するニュアンスがある。
結論を先んじて言えば、本作はこの意味でのポストフェミニズムを徹底的に賛美する作品。
否定的な意味では、ポストフェミニズムとは、もう女性主体の主体性を訴えるだけのフェミニズムはいらない。よってポストーフェミニズムという解釈されがち。
ナオミ・ウルフ、ケイティ・ロイフ、ルネ・デンフェルド、ナターシャ・ウォルターなどがこの筆頭。
しばしば彼女らポストフェミニストはアンチフェミニストのレッテルを貼られる。しかし彼女たちは実際にはフェミニストの軌道修正を自認する。
そんなポストフェミニズムでは集団的・政治的課題から、個人的・リベラル的な課題への変更が目指されている。政治が個々人の性的問題を扱うようになりつつある今日の政治なるもののあり方の変遷とフェミニズムの第二波から三波への移行はリンクしているのだろう。
※ルネ・デンフェルドはニューエイジ的・女神信仰的なフェミニズムを否定しており、この点でユンギャンフェミニストとは相性が悪い可能性もあるかも
ポストフェミニストのルネ・デンフェルドは古い家父長制批判の第二波フェミニズムを徹底して批判する。気に入らないものを十把一絡げに家父長制なるカテゴリーにぶちこむ議論は雑で話にならないというわけだ。本作はルネ・デンフェルドのこの指摘を十分に理解し作品に反映している。
まとめよう。
第二波は家父長制批判のもと、シャドウワーカーや古い女性らしさを男性主義のシンボルと見なし、男性を一絡げに悪者にして、バリバリのマッチョな女性だけが女性でそれ以外の女性は悪と見なす傾向がある。
対する第三波ポストフェミニズムは男性を一絡げに悪とせず、また専業主婦の女性も否定しない。ポストモダン思想的な相対主義にあり、あらゆる女性のあり方を肯定し、性自認を画一的な枠に押し込めることにノーを突きつける。
これ以上、学問的なフェミニズム理論について書くと読者がうんざりしてくるだろうから、この辺で切り上げて、作品の分析に移ることにする。
詳しく知りたい人は『ラカンとポストフェミニズム』を読んでもらいたい。
バービーの物語と性の幻想
本作を理解するにあたっての最低限のフェミニズム基礎は解説したので本題に入る。
本作ではケンが現実のロサンゼルスで馬と男性を結びつけ馬に固執するが、ここでの馬は男根=ファルスのメタファー。つまりファルス中心主義を示すのだろう。しかし僕は本作の馬をハンス少年の馬恐怖症と同じモチーフ(父の名の代理)かもしれないと考えるがそれについては後述する。
バービーランドと真逆で女性の社会進出が進まないロサンゼルス、バービーランドでは脇役でありバービーのおまけでしかないケンはそんなロサンゼルスに熱狂し、男社会のマッチョイズムと美学ってやつをバービーランドに持ち込み、女性中心社会の女性の幻想世界、バービーランドで男革命を実現する。
このことから男のケンは現実の女性に対応すると分かる。
バービーランドでは男女の性役割が完全に逆転しているわけだ。
とくに印象的なのはケンがバービーに求愛するシーン。自身がバービーの身につけるバッグなどの付属品でしかないというニュアンスのセリフをケンがいうところ。
これは女性が男性の性的欲望の対象でしかないということの裏返しであろう。
またケンがバービーに語るセリフ「僕が存在できるのは、君の視線のぬくもりの中だけ」とは男性の眼差しによって自己をファルスに見せかける女性のセクシャリティと一致する。
つまりケンがバービーランドにまき起こした革命は、第二波フェミニズムを揶揄・風刺するメタファーともとれるのだ。
また、女性がケンであるように、バービーがケンでもある側面ももつ。バービーは終盤にケンに対してバービーなしの独立した主体としてのケンを考えろという。このセリフがバービー自身にも問われて、定番型バービーを辞める決心をなす。
かくしてケンが自己実現を考えるシーンとバービーが自己実現を考えるシーンがシンクロ。
さて、ここで重要なのは、バービーとケンが恋人にならず男女が別々に別れることで両者の自己実現(社会化)が達成されること。通常の物語ではイニシエーションを経て男女が結ばれて社会化するものなのだが、本作では男女の性関係(対幻想)は人間の社会化に不要だとするメッセージを発している側面がある。
これは、結婚だけが人生ではないという多様性、物語の定番(定型)の破壊が意図されてのことだろう。
そもそも社会におけるシャドウワーク(家事、育児)と賃労働者が女性と男性の性に割り振られるのはなぜか。この理由は男女の恋愛と結婚という家族の幻想を媒介に社会人としての個人が生産される幻想構造にある。
人類史を参照すると、個々が社会のルールや価値観といった共同幻想によって規範化されるときには1対1の対人関係における幻想(対幻想)が両者を媒介することが分かる。たとえば学校は子どもを社会化する施設だが、ここでは教師と生徒は母子の二者関係を構成し、二者間の幻想(対幻想)を媒介して個々人を社会規範(共同幻想)に馴致させる。
民族学研究をふりかえっても対幻想を媒介にして個々人を共同幻想に組み入れる構造は原始農耕時代から揺るがない。
したがって既存の対幻想および対関係を解体することで個々が社会化する本作のあり方は、既存の人間社会とは異なる自己実現のモデルを提出するものでありポストフェミニズムの本質を洞察する上でこの点は見逃せない。
しかし対幻想も対関係もなしに人間の社会化、共同幻想への参入は可能だろうか?答えは否である。これは原理的にできない。鏡像について説明したように人間が社会化言語化するプロセスも幼児と母親の二者関係=対幻想における欲望によってであった。
※対幻想と対関係は厳密には異なり対幻想は恋愛的な恋に落ちる感覚(登ることは意図できるが落ちることは意図できない)、自己における自己が制御できない非自己性の体験。対関係は結婚的な予定的で既知的二者関係の締結をいう。また社会化や言語化のことをラカン派では疎外と呼ぶ
だから男女の対幻想(恋愛)や対関係(結婚)を否定して自己実現と社会化(疎外)を実現する本作では、男女のペアリングと異なる、より古層的な対幻想が導入される。
本作を視聴された方にはお分かりだろう。それは人間が鏡像を獲得する最初の対幻想、母子関係なのだ。
したがって本作は母と娘の物語を積み重ねて構成される。
作中に登場するバービー開発者、ルースハンドラーとその娘バービーの物語はそのまま、バービーで遊んでいた母グロリアとその娘サーシャの物語にリンクする。
ちなみに本作ラストで語られるが、バービーの名前の由来は母ルースハンドラーの娘バーバラからきている。だからバービーは実際に母の娘であり、その意味で鏡像なのだ。
本作がエディプス的な去勢を経たヘテロセクシャルとしての対幻想を放棄し、太古的な母娘の対幻想をつかって共同幻想(社会規範、象徴)を組み込み自己実現している点は見逃せない。
民族学的観点でいえば、母娘の対幻想によるイニシエーションの歴史は前古代から古代にまで遡る。このあたりはユング派の研究が詳しいのだが、狩猟採取時代から原始農耕時代に移行すると地球上のどの文化圏でも例外なく母性社会が形成されたことが分かっている。農耕初期は女が世界を支配していたようなのだ。
そして初期農耕=母性社会では、人類のイニシエーションは母と娘の対幻想が共同幻想に象徴化されたり、女性が対幻想の相手に共同幻想の象徴を選択するパターンが多く見られる。
※初期農耕ではデメテルとペルセポネのような母娘関係の神話が強い、エレウシスの秘儀ではこれが母ー息子(イアカス)になる。時代変遷としては母ー娘⇒母ー息子だったはず
ポストフェミニズムの世界とは、この意味で太古的な人間観を生み出さざるえない側面があるのかもしれない。
またこの観点で観るとケンの社会化は見逃せない。ケンは対象愛としての対幻想を捨てて、自己愛的な対幻想を経由した社会化を選択させられたように見えるからだ。
このあり方はインフルエンサーに対して鏡像的な同性愛感情としての対幻想を発動して自己を社会化する現代人のホモソーシャル感にぴったりフィットすると思う。
このように考えるとケンが馬に固執したのは、本来自身の性的ロールモデルとなる父性をフェミ映画では要請できないために、父性の代理として要請された表象が馬だったからだろう。つまりフロイトの有名な症例、ハンス少年の馬恐怖症に近い。これについては、きっちり解説すると長いので割愛する、詳しくはブルース・フィンク著『ラカン派精神分析入門』を参照。
長くなるので簡単な紹介にとどめるが、資本主義が支配化する社会幻想においては、人間の対幻想・対関係は母子関係に退行するか自己愛化せざるえない。するとポストフェミニズムで男女ともに対幻想を同性に頼ることが要請されがちなのは、フェミニズムという思想そのものが資本主義のシステムによって呑み込まれていることを示唆するのかもしれない。
このことは対幻想からプラトニックラブ(プラトン主義的愛)における禁制が消去されつつある現代社会の性のあり方にも対応するだろう。
バービー人形の未来
作中、バービー人形は多様化し、ノーベル賞をとるバービー、大統領になるバービー、オリンピックで金メダルをとるバービーなどさまざまな鏡像がうみだされる。
定番型のバービーが男性の性対象としての鏡像的側面がやや強調されていたふしがあるとすれば、そのことへの反省もあり、現実社会で女性が社会進出して欲しいという理想がバービー人形を多様化させたのだ。
これにより女性の社会進出が世界中の女児に意識されたのは間違いないだろう。いわば定冠詞つきの女性は多数化していったわけだ。
※ユングは男性の夢に生じる女性=アニマは単数(定冠詞付き)なのに、女性の夢に生じるアニムス=男性は複数形だという。これについて男性は職業が沢山あるが女性はシャドウワークしかないからだ、という解釈が古くからある
バービー人形という女性の鏡像の多様化は、マテル社が社会に果たした最大の功績に思う。
本作でもそのことが強く強調されている。
しかし女性の社会進出は第二波フェミニズム的なあり方に依存しており、それでは不足であり、そのことが本作では主題化されていたのだった。
と同時に定番型バービーのスタイルの良さだとかの批判、つまり第二波的な批判もなされている。
そんな本作で重要なのは、定番型バービー、というセリフが徹底して反復されること。
そして定番型バービーの定番が物語のラストで破壊され、普通のバービーが必要だという提案がグロリアからなされる点だ。
マテル社の社員であり母のグロリアが新しいバービー(鏡像)として、バービーの定番を壊す決断をする。ここに本作がポストフェミニズムである最大の理由がある。
第二波フェミニズムではシャドウワーカーなどの専業主婦像がしばしば否定されるわけだが、グロリアの掲げる新しい鏡像(バービー)にはシャドウワーカーも含まれる。つまり既存のバービーは第二波フェミニズム的な側面があり、社会進出する女性だけを認めたり、男性を一絡げに貶める欲望が作動しているが、それはケンが革命を起こしたことからも分かるように、結局のところファルス中心主義の反動形成にすぎない。
本作では様々なシーンでそのことが描かれているのだった。
さて、定番型バービーの定番とはなんだろうか。
臨床心理学では、本作における定番を定型と呼ぶ。定型とは社会的な規範・象徴としての定型のこと。
つまり日本男児たるもの~であるべし、とか、女性たるもの大和撫子であるべし、というようなセクシャリティやその他カテゴリーにおける定番の型(大和撫子、男らしさ)のことを定型という。
男のくせに泣くな、というのも定番型男は泣かない、という定型の表れ。
だから定番型バービーを解体する本作の野心は、社会における定型を破壊することにある。そしてそれは鏡像(バービー)が定型を喪失することで実現するというわけだ。
ポストフェミニズムとは単一の定冠詞つきの女性を否定し複数系の女性像を目指すのだった。だから第三波が目指す女性の鏡像に定型はあってはならない。オリンピックの金メダリストとか大統領とかの象徴的な型だけに個人を押し込めることもできない。
ポストフェミニズムが目指す女性像はそうではなく、いわばありのままの単独的・個別的な女性。
つまり社会的・言語的な象徴、型にはまった大統領とか、メダリストとかではなく、リアルで象徴的な定型にはおさまらない現実の女性一人一人なのである。それは言語や社会的な地位、肩書きといった象徴には回付されない絶対的に固有な生きたリアルな女性、いかなる肩書きにも回収され得ない固有名をもつ交換不可能な女性像である。
そのような鏡像のことを作中のグロリアは普通の女性と呼ぶ。定番から普通への鏡像の変遷が意図されているのだ。これは全体から単独的なものへ、とか、定型から非定型への移行といってもいい。
よって既存のバービー人形を第二波フェミニズムとすれば、本作が提示する未来のバービーは、ポストフェミニズムということになる。
これはラカン派でいえば男性の式から女性の式への移行に対応する。
補足すると本作におけるポストフェミニズムは第二波的な女性の象徴的社会進出を否定しているのではない。そうではなく、それだけが女性なのではないということを主張している。現実の女性は象徴(理想)と完全に一致などできないといっている。
以上が本作の監督の主要な狙いだと思う。
さらに本作を深掘りし、定型の否定がどのような事態を意味するのかを作中の描写、すなわち女性の欲望の眼差しから分析したい。
バービーの人間化
本作はロードムービーなどにありがちなイニシエーション型の作品の典型となる。
イニシエーション型の作品とは、主人公が日常世界から旅立ち、非日常世界を旅して成長し、日常へと帰還する型の物語である。
本作が興味深いのは非日常であるバービーランドの側、つまりイメージの側のイニシエーションになっている点だ。通常は人間がバービーランドにいって現実に帰還する構成にあるが、本作ではバービーという架空の存在の側がイニシエーションを体験するわけだ。
もっともグロリアとサーシャがバービーランドにいって現実に帰還するイニシエーションとセットではあるのだが。
さて、この観点で見逃せないのが、本作が鏡像イメージであり商品であるバービーの主体化を描いている点だ。
バービーは自身が定番型バービーという象徴存在と一体化しており、理想=象徴=定型と一切のズレを生じない。
ところが理想像イメージそれ自体であるはずのバービーはグロリアの憂鬱のために、バービーである自己自身とのズレ(自己違和感)を生じる。
実はこの象徴と現実の自己とのズレのことを精神分析でも現象学でも主体と考える。
平たく言えば、主体とは自己自身とのズレ=葛藤によって生じる自己内省をともなった思考の産物というわけだ。簡単に解説しておくと、もし無葛藤でいかなる自己の行為、選択に悩むことがなければ、人間は自己主体の自由を感じないし生じないということ。
自分の意志で選択するとは悩むことで生じる感覚。だから悩まない、葛藤しない即自的選択には選択の自由がないということ。つねに条件反射でしか動かず、内省もしない人に自由意志の感覚などあろうはずもないということ。
重要なのは、本来は鏡像とのズレは鏡像自身ではなく、鏡像を欲望する人間主体が演じる鏡像=肩書きとしての自己と自分自身とのズレなのだ。だから鏡像=象徴と自己とがズレることで主体であり自由(葛藤)が生じる。
ところが本作では人間と鏡像がズレるのではなく、鏡像自身が鏡像自身とズレてゆく。つまり鏡像と自己とのズレ(葛藤)が悪いこと、女性の自己肯定感を下げることと誤認され、その誤認から、現実の人間とズレてしまうような鏡像=定型は、ダメ!ということにされて定型が解体される運びとなる。
その結果、ズレは鏡像自身の側にしわ寄せされてしまっているのだ。
したがって、人間主体が自身と鏡像=肩書きとの差異を消去する運動は、人間の主体(自由意志)を消去し、その代わりに鏡像の側に主体=ズレを生じるのである。
だからこそ、本作は人間の側を主体化(主人公化)できないのかもしれない。
本作の試みは主体を人間から鏡像(商品)の側に移すことでしか成立しない。それは本作が依拠するポストフェミニズムがデリダを筆頭としたポストモダニズムをベースにするためであろう。
ここでは詳述しないがポストモダニズムは客体や象徴、記号の側に主体性(ズレ)を移植する性質がある。
まとめよう。
現代社会では人はもう悩まなくていい。あなたの代わりに商品であり鏡像であるバービーが悩み考えてくれるから。
このように言っても結局、鏡像の葛藤を考えているのも人間であり監督や脚本家、マテル社の社員じゃないか、と思われるだろう。たしかにそれはそうなのである。
だから、より厳密にいえば人は内省する代わりに、鏡像に内省を強いるようになった。あるいは、人は放棄した鏡像の立場でしか自己を考えることができなくなった。いずれにせよ、この場合、鏡像は人間とのズレを否定されるわけだから、人間そのものになるほかないのである。
バービーがラストで人になるとは、だから二重の意味がある。1つには、鏡像の側が主体化し人間が脱主体化するという意味。もう一つの意味は、象徴的(定型的)な鏡像は解体し、鏡像が人間主体それ自体となること。
※鏡像や商品の側に主体が移行することについては当ブログ記事、ソーセージパーティーの考察記事に詳しく書いている
というわけで本作のシナリオは監督の独創であること以上にポストフェミニズムの理論的な帰結をよく示すのかもしれない。
これで考察を終えてしまうとあまりに残念なので、なんとかしてみたい。この程度の映画に感動する僕ではないので、この映画にはもっと凄い何かがあるはずなのだ。
ひょっとすると、ズレてしまった鏡像としてのバービーが人間になったことが大事なのかもしれない。つまり、ズレて主体を獲得した鏡像が人間に一致することで主体性(葛藤)が人間に帰ってゆく、という全く新しいタイプの主体化(疎外)の構造が、見事に描かれた作品なのかもしれない。
※この観点からするとソーセージパーティーの続きとしてバービーを観ることもできる
グレタ監督でありルースハンドラーのバービーへの眼差しに、新しい主体の可能性の萌芽があるのかもしれないのだ。
また、もしこのような読解に正当性があるなら、バービーが示すポストフェミニズムは不毛なポストモダン思想を超えた、ポストモダンとは似て非なる思想だと言わねばなるまい。
最後にこの読解の正当性の根拠となる作中のバーバラのセリフを一部引用する。
『‘’人間にはたった一つの結末しかない。架空の存在は永遠でも人間はそうじゃない。人間として生きるのはかなり大変よ。人間が男社会とかバービーを作るのは大変な現実と折り合いをつけるためよ。それに人は死ぬ‘’』
誰も理想にはなれない、現実と理想にはズレがある、だからこそ人は理想を胸に抱く、葛藤こそが生の本質である、ということがよく示された名台詞だと思う。
映画バービーの感想
もし僕がこの映画に点数をつけるなら100点か99点。
正直に言ってなんの不満もない。凄く良くできていると思う。シンプルに感動したし鏡像としてのバービーの偉大さを学べた。
しかし、問題がないわけではない。問題点は既にあらかた指摘したと思う。答えのない分からない問題にもなんらかの仕方で人は信じるもので答えなくてはならない、ということが問題なのである。
日本のSNSに沸いている知的水準がアレな第二波的フェミニスト(第四波)の体たらくを観れば、本作のポストフェミニズムがいかに先進的かよく分かるだろう。日本人の限界がよく分かる。日本でこれだけの映画をつくれる女性がいるだろうか。
この国の知性の限界を感じてならない。個人ブロガーはGoogleの検閲システム(YMYL領域の禁止)のため、映画を語るとき学問的・政治的・公共的な言説を徹底的に排除する傾向が強い。
そのせいで、まともな公共的映画評論記事がほとんど生産されないのが現状だ。しかし映画バービーは明確にポストフェミニズム、ラカン派フェミニズムにあり、この映画は映画を観た人による公共的な議論とセットだと思う。
ブログは公共的な発信であるのに、公共的な議論が検閲される。このようなシステムは民主主義を破壊し、ひいては映画やゲームといった精神文化の衰弱を招くだろう。
おまけ
この記事はバービーという映画の解説でありつつ、エリザベスライトのラカンとポストフェミニズムの解説・入門記事にもなった気がする。
どうやらポストフェミニズムの一派は70年代ラカンの男女の式をベースにあるべき次のフェミニズムのあり方を捉えているらしい。性別化の式については当ブログで後期ラカンとユングについて論じた記事で解説しているので興味ある人は参照して欲しい。
さて、フェミニストの竹村和子はフロイトの理論を神なき近代のバックラッシュ理論として捉えているようだ。つまり無意識の主体、思わずの行為を神に回付することで自己のアイデンティティを安定化することが不可能となり、そのことで神に代わる自己同一性の安定装置として精神分析が要請されたというニュアンスの分析をしている。
第二波的なフロイトを素朴に敵視して石を投げる脳筋的なフェミニズムよりポストフェミニズムはずっと知的なようだ。
また竹村はアルチュセールとラカン、マルクスとラカンなど資本主義をベースとしたフェミニズム論の必要性を説いている。
※竹村は英米文学の専門らしいがラカンにも理解がある様子、こういうまともに知的な人の声が小さく、あまりにアホな言論人や学者がTV、ネット番組にしゃしゃり出てくるのは謎
フェミニズムについて考えている人がこの記事を読むかもしれないから、この点について思うことを述べたい。
シャドーワークと賃労働といった経済における性別化、性と経済と国家に着目するうえではラカンだけでなく吉本隆明の共同幻想論が参考になる。とくに山本哲士は性的リビドー(対幻想)がいかにして経済性別化を生じるかをよく分析している。山本を参照したフェミニズムの展開を考えるのも選択肢としてありだと思う。
※山本哲士は吉本の他にアルチュセール、フーコー、ラカン、マルクス、イリイチらに精通している
また象徴界システムにおける両性の式の理論的な意味と構造については、竹田青嗣『言語的思考へ 脱構築と現象学』はとても参考になる。男性の式に対応する50年代ラカン理論のまずさについて卓越した批評を展開する竹田の著作は、言語理論をベースに数千年に及ぶ哲学史の流れにポストフェミニズム思想を位置づけ、その軌道を適切に修正するための理論的な羅針盤となるだろう。フェミニストの人にも参照してもらいたい一冊だ。
既にこの記事で示しているがデリダ的なポストモダン思想をそのまま使うことはできない。その先に破滅しかないのは理論的に確実だと思われる。
いずれにせよ、社会や国家、個人、家族といった幻想の領域は相互関連しており、これらは位相が違うのだが、かといって独立して存在しているのではなく、幻想とは全て幻想間の関係によって規定されている。
この構造を見逃すと、とんでもない間違いをしでかすことになる。まず個人があって、その個人があつまって契約によって規範や法といった幻想を構成する、という考えは完全な間違いである。
そうではなく共同体の法や規範が個人を生成するのである。個人主義のルソーをして、個人の自由に対して一般意志を先行せざるえなかった理由もここにある。
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