うたまるです。
今回は哲学初心者が哲学について学ぶ上で絶対に欠かせない最高の一冊、竹田青嗣『哲学とは何か』を紹介、レビュー。
じつはこの本、僕のような深層心理学好きには必読、さらに社会学者や道徳家にもかかせません。とりわけラカン派精神分析理論との親和性は抜群でラカン理論をルソーやヘーゲルの社会理論という観点から理解する上でも本書は必読。
※深層心理学の本ではユングでもラカン派でもカントの物自体、ハイデガー存在論、フッサール現象学、ドゥルーズのアンチオイディプスなどへの言及がしばしばあるため本書の理解は非常に重要
哲学の入門書は数知れずあれど、この本はその他の哲学入門書とは深さ分かりやすさともに次元が異なります。
そのため僕のような工学部卒の理系の方にとっても興味深い内容に。
なんとこの本一冊で2500年に渡る西洋哲学のロジックと歴史とその意志がすっきり分かる優れもの。
この記事で少しでも本書が気になった方は、ぜひ本書を手に取って読んでいただきたい!
『哲学とは何か』とは
本書は宗教と哲学の違いから入り、哲学の本分を世界の普遍説明の確立による普遍戦争の縮減(平和)と自由の相互承認に見出す。
※世界の普遍的認識なしに普遍的ルールはありえず、ルールがなければ力の論理によって暴力がはびこるということ
したがって哲学のテクストを決定づけ産出する哲学の主体性(志、コンテクスト)が明瞭に述べられ、その哲学の企投的意志のもとに歴史的な哲学理論の展開について理路明瞭な解説がなされる。
そのため議論は一貫しており膨大な数の哲学者の論考が体系的にまとめられ、圧倒的に覚えやすく分かりやすい。
※暗記が苦手な理系にもこの本はオススメ
まず、この点で、本書はありがちな哲学学者による哲学テキストの字面解説とは一線を画する。つまり哲学のテクストからその動機を探りだし、その動機に照応させてテクストの真意を明らかとし哲学の主体(時間的展開意志)のもとに現代哲学の再生を目論むのである。
そのため本書は、古代ギリシャの哲学者ゴルギアスの提唱したゴルギアステーゼと呼ばれる「存在≠認識≠言語」の帰謬論モデルによる認識論問題を軸に、スピノザ、ヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、その他もろもろの哲学者の流れを論じる。
さらには現代の言語哲学、ウィトゲンシュタインやクリプキ、ラッセルからポストモダンのフーコーやドゥルーズ、デリダをもその射程におさめ、これもゴルギアステーゼによって解説し、その実態を明らかとする。
そして、昨今世間で話題のメイヤスーやマルクスガブリエルら新実在論派(最新哲学)についても論じその限界を暴露。その哲学のあり方が哲学史において反復されてきた相対主義に対する揺り戻しとしての独断論に過ぎないことが示される。
さらにコントを契機とする実証主義社会理論を概観、マルクス主義やデュルケーム、ルーマンのシステム論社会学といった社会理論がなぜ普遍認識を構築できないかをフッサール現象学のモデルによって解明し、認識問題の哲学的なこじれが現代社会論に落とす影を示す。
ここから社会学の本来のあり方を再考し社会の本質学としてそれを提示。社会の本質学とは構造主義的な主体の消失に陥ることなく時間の実存性を捉え、社会をたゆまなく改変する動的構造として見抜くことを原則とする。
※本質とは意味や主体、実存の領域をいい客観は主体によって構成される概念に過ぎず本質は主体(欲望)の側にある
したがってレヴィストロース流の主体を消去し歴史の動因(構造改変)を消し去る構造主義とは一線を画する。現象学は主体をこそ本質とする学であり、この意味でも深層心理学に親和するだろう。
※竹田青嗣はフッサール現象学の専門家であり社会の本質学もフッサールとニーチェに依拠する
さらに社会構造改変の動因・根拠が一般意志(ルソー)にあることを本質観取する。もちろん一般意志(大他者の意志)とはラカン派でいう象徴構造の欠如のことでありS1に対応、これを代理する社会規範(法言語)がS2に対応する。
これによって本書はデリダでは消去されてしまう主体(一般意志、時間性=今、企投的意味)をこそ中心とした社会理論を可能とする。
ゴルギアステーゼを入り口に、最終的にはホッブス、ルソー、ヘーゲルのロジックを参照、あるべき社会理論(社会の本質学)を示し、今日の資本主義における格差や矛盾の問題への回答を示す。
かくして哲学の使命とその生命を取り上げ、死に瀕する現代哲学に息吹きをもたらし、そのことで今日の社会問題を完全解決する入り口に読者を導くことが本書の狙いとなる。
本書は人権と自由と多様性を尊重する全ての人にとって、参照必須の名著であり、これ以上に体系的にまとまった哲学入門書はおよそ考えられないと思う。
※いま生きている哲学者でいえば僕の知る限り竹田青嗣とその他ではレベルに差がありすぎるように個人的には感じる
『哲学とは何か』の概要
本書は最初にゴルギアスの帰謬論モデルを示し、このモデルが現代のポストモダン(相対主義)の依拠するロジックの源流であることを論理的に提示。
そのことで認識問題の解明、すなわち存在の謎、認識の謎、言語の謎の解明なしに相対主義を克服することはできないことを示す。
また哲学の使命が普遍的認識であるゆえ、相対主義(普遍的認識は存在しない主義)の帰謬論による反哲学とそれに対抗する独断論との不毛な対立を繰り返してきたのが哲学の歴史であることを示す。
※独断論とは根拠なくこれが世界の真理だと決めつけること
たとえばスピノザのキリスト教的な独断論とヒュームによる宗教の多様性による反論など。またメイヤスーやマルクスガブリエルら現代の新実在論もデリダ、フーコー、ドゥルーズらポストモダン(相対主義)に対する揺り戻しとしての独断論の域をでないことが論証される。
したがって本書は存在の謎、認識の謎、言語の謎を解き明かす。厳密にはこれらの謎はニーチェとフッサールの哲学的達成において解明されているのだが諸事情によってそのことが現代の哲学者に理解されていないという。
それゆえ本書はカントの物自体を粉砕したニーチェの欲望相関スキーマをベースにフッサール現象学を駆使することで現代社会の問題を克服する経路を理路明瞭に示す。
最終的にはあるべき社会理論を提示しホッブズ、ルソー、ヘーゲルの社会理論に依拠する社会の本質観取によって、社会の本質学の三原則を提示することで現代の格差や戦争などの問題の根幹を暴き解消する経路を提示。
三部構成
まとめよう。
本書の構成は大まかに三つのパートに分かれる。
最初のパートがゴルギアステーゼの解説とゴルギアステーゼから生じる認識問題のニーチェ、フッサールによる解明、および古代から現代に至る哲学の運動の解明。
このパートではカントによる物自体をベースとした認識パラダイムが提示され、つぎにヘーゲルにカントの認識装置論(感性、悟性、理性)に対してダイナミズムが導入されたこと。
さらにニーチェによって欲望相関的な認識パラダイムが開かれ、フッサールはそこから普遍認識へ至るための方法論として現象学を構想したことが示される。
またこれにより現代、世間に流布するフッサールとニーチェの理解は完全に間違っていることが解説される。
またフッサール現象学の本質観取、エポケー、ノエシス(コギタチオ)、ノエマ(コギターツム)、連続的調和、ノエマの可疑性とノエシスの不可疑性、内在ー超越、といった基本タームも理路明瞭に解説され、懐かしさや死の不安、エロスなど本質観取の具体例も示される。
これによって読者はこの本を読んだ直後ただちに現象学的本質観取を体得することができる。
他にも現代言語哲学の歩みが提示され、クリプキの固定指示やラッセルの確定記述などの限界が解説される。さらにヴィトゲンシュタインの哲学的な仕事が検証され、言葉の意味が客体的・一義的には規定不可能なことが示される。
次のパートが認識問題に関するフッサールへの無理解から現代の人文領域学問全般が普遍的論理の構築を目指すも全て挫折し、不全に陥ってることが示される。このパートではレヴィストロースの深層心理学による治療機序の解明と深層心理学および認知行動療法の限界が提示され本質観取によるその克服が示される。
この他、社会学についても概括し、マルクス資本論やコントの実証主義につらなるスペンサー、デュルケーム、ルーマンらの社会学理論が参照され、なにゆえこれらが客観的分析を目指しながらまったく客観的なコンセンサスに到達しないかを解き明かす。
かくして、人文社会が本質領域であることが示され、社会の本質学(現象学)の必要性が論証される。
自然科学と人文領域との性質の差異が詳細に検証され、人文知の研究対象が自然科学の方法論によっては扱えないという当たり前のことをきっちり理論的に解説。
※かねてより僕は自然科学と人文を分けないアタオカ学者が多く怒りが爆発していたのでこの本の記述にはいちいち納得がいく
また社会理論や正義についても語られ、デリダらの帰謬論的相対主義の社会理論が贈与(デリダ)や他者(レヴィナス)といった独断的な超越項の措定なしにありえないこと理論的に示す。
※デリダは存在論的差異を理解していないとしか思えない
さらに現代のアメリカ政治哲学の議論も参照。ここではロールズの正義論が参照され、それに対するアナーキストのノージックの権原理論による反論、さらにそれに対するコミュニタリアンのマッキンタイヤによる真価概念による反論が紹介。
これにより考えの多様性のため社会に関する信念対立が生じ、現代社会の問題解決に向けた社会変革の向かうべき方向の大筋の合意形成ができず、その結果現状維持となり社会の問題が一切解決されないことを示す。
価値観の多様性と帰謬論的相対主義の二つの課題の克服なしには社会問題は解決できないということ。
最後のパートで社会の本質学の必要性がまとめられ、その三つの条件が提示される。またホッブズ、ルソー、ヘーゲルの社会理論が社会の本質学の要として取り出される。
このパートではホッブズの不安による普遍闘争の縮減としての国家権力の必要、ルソーの社会契約と一般意志の重要性、両者の意見を適切にくみ取り整理したヘーゲルの相互承認と一般福祉、普遍資産といったキーワードをベースに普遍的社会理論(社会の本質学の原則)が提出される。
普遍闘争の縮減、自由の相互承認、この二つを実現するにあたって要請される絶対的条件の提示という形で社会の普遍的理論が提唱される。つまり社会がどうあるべきかとの問いに対しては考えの多様性によって多様な独断的理念が提出され、普遍的合意はうまれない。
しかし、平和と相互承認を実現する条件を満たすにはという条件法としてなら普遍的合意形成を実現する論理が提出できるということ。したがって社会の本質学は条件法となる。
格差問題
資本主義による格差化の問題は深刻で自由の相互承認と普遍戦争の縮減の基礎条件の崩壊に通じることが示される。
たとえばアメリカでは富裕層によるロビーイングによって社会のルールが歪められ民主主義が機能不全に陥っている。
一人一票ではなく一票Xドルのようなことになってきているということ。
このような状態は万人の人権の存立さえ不可能としかねない。
そもそも自由で公平な社会、異なる価値観を相互承認する多様性のある社会(自由な市民社会)とは、互いに対等な権利を認め、誰もが対等にルールに従い、そのルールの変更は成員の合意によって決定することで成り立つ。
そのため富裕層だけがルールをつごうよく独断する世界は、近代の自由の相互承認を不可能とする。格差が問題となるのは自由の相互承認のための条件を不可能とするため。
ちなみに自由の相互承認を否定すると信念対立から闘争が生じることになる。
たとえば宗教的な独断論においてプロテスタントとカトリックも戦争を繰り返してきた。したがって国家間の闘争も自由の相互承認という市民社会をベースとした国家がその相互承認を国家間に敷衍することで抑制される。
自由な市民社会ぬきの公平な世界平和は考えられないだろう。
よって自由の相互承認の条件を破綻させるのが経済格差の過剰な拡大なのだ。
したがって本書ではヘーゲルの一般福祉と普遍資産の概念によって再配分の論理が構成される。
庶民の福祉充実が、市民の自由な実存可能性を確保。また経済活動による資産は、社会における各人の相互依存関係にあるという。
つまり相互依存的な関係において経済活動で富が生まれるゆえその富は共通普遍の資産であってこれの再配分は共同体を代表する一般意志だけが決定する権利をもつということ。
これに対してアナーキストからの反論もあるだろう。しかしその反論は無効。
というのもノージック的な権原理論(個人の所有権最優先)はロック的な独断論的当為にすぎない。なぜなら一般意志による市民の合意なしに個人の所有権を基礎づけることはできないため。超越項なしの人民主権を想定する限り権原理論は独断論に過ぎないのだ。
※非常によくできていて条件法を了解する限り一般福祉と普遍資産による再分配を論駁することはほぼ不可能になっている
また言うまでもなく一般福祉がなくなり格差が拡大すれば金だけが絶対的価値となり一様序列化する。さらに将来不安から競争は限度を超えて過激となり、道徳観念など消し炭になるであろう。また不安は普遍闘争を準備し、暴力の縮減も不可能となる。
※価値の一様序列化が去勢や分離を不可能とし、そのことで社会が致命的におかしくなっていることを当ブログは他の記事で説明している
しばしばベーシックインカムなどが提案されるが、その善し悪しは置いておくとして、ベーシックインカムの意義は金の価値を下げることで他の文化的価値を隆盛することにある。
近現代史を見て分かるように産業革命により庶民階級に財が蓄積、生産性の向上によって庶民にも休暇ができ、観光などのレジャーが可能となった。このことで音楽、絵画、建築など多くの芸術と文化が飛躍的に向上し文明人としての人間性を庶民にも可能としたのである。
このような庶民の人間性と文化の発展なしに、市民の文明的な人権意識や倫理観の涵養を要する自由な市民社会と国民主権はありえない。
今だけ金だけ自分だけ、全ての国民のマインドがこのような幼稚園児レベルに陥ると文明社会そのものが不可能となり、封建主義や専制政治の時代に逆戻りするだろう。
※勝ち組インフルエンサーには知能は遺伝、知能=金持ち=努力家という非科学的な妄想を科学的と称してしつこくキッズ相手に反復主張する人もいる。彼らは最終的に支配階級と被支配階級を隔て下層階級を奴隷化しその人権を剥奪することが狙いのように思える。
一般意志とは
本書で提示される社会理論ではルソーの一般意志がとりわけ重要となる。
ルソーは自由の相互承認の意志によって社会契約が生じるという。社会契約とは人民による統治権力の樹立を意味する。
したがって統治権力は一般意志に従うのでなければならない。
※一般意志とは自由の相互承認の意志の総体、第三者的他者としての個々人の意志の総合
権力による法(ルール)は一般意志の最適な表現であり、しかも一般意志とは一致せず、つねにさらなるよき表現(法)を目指す。つまり一般意志と具体的な法との差異こそが市民の自由の条件であるところの主体性を担保し、その主体性こそが社会の改変可能性の根拠となる。
余談だが、このような一般意志と法との差異としての主体をラカンでは欲望(存在論的差異)と呼ぶ。
ヘーゲルvsカント
カントの道徳理論に対するヘーゲルの反論が本書では解説されるがこれが重要となる。
カントは人間の認識装置には感性、悟性、理性があり、この装置が普遍的なために自然世界に対して普遍的な法則(ニュートン力学など)を取り出せるという。
そして精神の自由の世界もまた同一の認識装置によって認識されるので道徳にも普遍性が取り出せるとした。これにより善とは誰にとっても善であることだという普遍法則に至る。
さてプラトンの考えに徳福一致というのがある。これは善をなすものは現実にも幸福を手にするという考え。ようするに悪さすると必ずバチがあたるという考え。
これについてカントは、徳福の一致は保証されないという。しかし両者が一致しないなら善をなす動機がない。
そのため神がいたなら世界は徳福一致になっているので神を証明できないとしても神は求められるべきだという。
ところが、ヘーゲルはこれを問題視。
まず近代の自由な社会では生き方も多様化するため、理想と現実、徳と福は必然的に分裂に至る。このとき哲学は両者の不一致をどのように解消するかに答えられねばならないという。
しかしカントは両者が一致すべきという当為を持ち出し、神を要請して思考停止。
カントは自然世界と自由の世界を分けて自由の世界から道徳の法則を取り出したのに後から両者が一致しないと騒ぎ独断論的な当為によって神を要請しているというわけだ。
このヘーゲルの考えには徳福の完全な一致が人間の近代的な主体性=自由を抹消してしまうという含みがある。この点でヘーゲルの論考はラカン的と言わねばならない、あるいはラカンはヘーゲル的だといってもよいだろう。
つまり一般意志とそれを代表する法との不一致をベースにしつつ、よりベストな一般意志の表現(法言語)を目指すという社会の本質学は、この徳福の不一致に対する明瞭な答えになっている。
※ラカンのシニフィアンは他のシニフィアンに主体を代理表象するというテーゼを社会論の位相で言語化すると一般意志は法によって意志を代理表象する、となる。本書の論理はルソーの一般意志とラカンの論理の関係を暴いている
補足しておくと徳福一致とは太古的な世界といえる。カントが外的現実の自然世界と精神内界の自由の世界を分けたように、近代人にとって内面と外面、主観と客観は分離していて連続性が途切れている。
そのため徳福の一致とは内的なイメージが同時に外的現実でもあった神話時代(プラトン時代)におけるパラダイムに過ぎない。つまり神話時代では神話という比喩的な外世界に対する内的イメージが外的現実の実際に起きた物理学的出来事として認識されていたということ。
※現代に古事記にある国産み(神話的イメージ)を現実の出来事と思う人はいないだろう
したがって人間の精神の自由はその本性からして両者の分離を必然的に要請するというのがヘーゲルの考えだと思う。このような主観と客観の断絶をノエシスーノエマとして止揚するところにフッサール現象学の卓越があるに違いない。
ヘーゲル的にいえば現象学およびその理念は精神の自由の自己展開ということになるだろう。
※昨今ネットでは日本は地上の楽園、嫌なら出てけという言説も散見されるが、このように現実の日本と理想を一致させる発想は自由な市民社会の基礎条件を毀損する
デリダの問題もこの観点から規定できると思う。デリダはこの存在論的差異(主体)をこそ、ないといってしまう。
※ラカンが欲望をないというとき、その欠如は差異であり現実界のあるとして規定されるがデリダでは本当にないことになっていて存在論的差異という概念がない、この認識こそが相対主義=独断論の主体構造に一致する、デリダのいう客観はないとは、ないという仕方でネガ的に客観を実体化しており、この意味で独断論と変わらない
社会の本質学の三原則
あらためて社会の本質学を論じる。
まず本書ではコント、マルクス主義にたんを発する厳密客観の学としてのデュルケームやルーマンら社会学の限界が提示される。つまり社会を客観的なシステムや構造と見なしてもその普遍的な構造を記述できないことが示される。
※ウェーバーの洞察の適切さも示される
ここから社会の何であるかは徹頭徹尾、意味の領域に属し、個々人の欲望に相関してその核心をあらわすことが示される。したがって社会とはどのような関心によって対象化されるかがまず問われる。
この問いが社会の本質学の最初の原則となる。
人間が社会を意識するとき、社会はとうの社会を意識する人に対して矛盾を与える。つまり社会的な不正義、理不尽といった矛盾の体験が人に社会を意識させるのだ。社会が理想そのもので不満が皆無であれば人は社会を意識しないし問いもしない。
したがって社会とはその矛盾が解消されるべき希望としての時間的核心をもって対象化されることになる。
このとき近代社会では個々人が多様な生き方をとるため、矛盾のあり方も異なる。そこで社会のかくあるべきという認識は多様性をもつ。そのため社会がどうあるべきかという問い方では普遍的な社会理論は構成できない。
※本書ではこの問題の克服のために条件法という戦略がとられたのだった
次に社会がその矛盾によって欲望相関的に意識されることで社会とは、希望を実現する改変可能性の構造としてあると分かる。これが二番目の原則。
従来の客観社会学のように社会を客観的なシステムや構造と見なしていては、社会が一般意志によって構造化され、矛盾解消にむけた改変可能性をもっていることが見逃される。
そのため、客観としての社会学では社会問題が生じたときどのように解消すべきかの根拠を持てないし、社会の構造がどのような自己変動(意志)を内在するかを洞察することもできない。
また民主たる自由な市民社会では、社会の改変は一般意志をその根拠とする。
以上から統治(社会はなんでありどうするかの法の決定)は一般意志によって規定されねばならない。これが最後の原則。社会のルール(構造、法)は社会の成員の集合意志=一般意志によって決まる。
自由の相互承認をしようとしたら、一般意志による社会はどうあるべきかの決定の他に手段はない。すでに確認したように逆説的だがポストモダンでは多様性は担保されず、パワーゲームによって自由も人権もなくなる。
一般意志とは普遍的他者の企投的意味ともいえるだろう。
最後の原則では法は一般意志の最善表現とされ、法の改正の正当性は、よりよき一般意志の表現であることに依拠する。
また一般意志と法とはつねに差異があり完全には一致しない、一般意志と法との差異が自由(市民の主体性)の根拠となる。
ポストモダンの問題
本書ではポストモダンの問題が論じられる。
ここではその一部を紹介する。
フーコーの近代批判が参照されフーコーが近代を否定するだけでオルタナティブな社会を提示できない批判思想に過ぎないことが示される。
※本書ではフーコーが近代の問題点を指摘したことの意義は評価される
またドゥルーズのアンチオイディプスにも触れ、デリダの脱構築も参照される。
その結果、ポストモダンの論理がなんの普遍的な規範も権力も抑圧もないところに真の正義と自由(主体)があるという顛倒した錯覚に過ぎないことが示される。
※ラカンはこれを想像的誤認と呼ぶ
つまり一般意志による法の禁止こそが個々人の自由を保証する自由の相互承認を可能にしており、禁止の法のないところに自由だとか主体がありえないことが示される。
※この構造については当ブログのいくつかの記事でラカンをつかって解説している
ラカンとヘーゲル
※ラカン少し知ってる人向けで少し小難しいです
すでに解説したカントの徳福不一致に対する可想界での神の要請、ヘーゲルの不一致の一致の弁証法的ダイナミズム、社会の本質学の一般意志と法の弁証法、この三つをもとに、ここではラカンの欲望の弁証法とヘーゲル弁証法の関係を示す。
まずカントの神の彼岸に理想と現実の不一致を拒絶し、両者を静的に一致させる考えをラカンは強迫神経症の幻想とし、これを例外と呼ぶ。
もちろん例外は幻想に過ぎず誤認である。したがってこれを想像的誤認と呼ぶ。
ところで僕たちは現実に理想をもとめその一致のためにこそ社会を欲望するのだった。したがって近代主体における欲望とは、この例外を迂回して欲望を継続することにある。
この迂回路の形成を対象aの抽出と呼び、これが去勢の効果とされる。
また現実と理想の一致は欲望の死を意味する、というのも両者の不一致こそ欲望だから。したがって迂回されつつ幻想され望まれる彼岸のそれは主体自身の死であり根源的な心的外傷でもある。
それゆえ人は外傷をこそ欲望の核とする。
ラカンの欲望の弁証法とは、カント的な幻想を迂回して求める自己不一致(欲求不満)の言語運動のことをいう。
したがって一般に欲望の弁証法とヘーゲル弁証法は違いが強調されるがそれは嘘でほとんど同じである。
というのもヘーゲルは徳福不一致に人間の自由を見たのであり、ここで自由とは主体=欲望を意味するからだ。
またヘーゲル弁証法がオプティミスティックな表現をとる狙いは、カントの幻想である想像的誤認を克服することにあるのだと思う。
このヘーゲル弁証法の表現の肯定性が近代を不当に敵視するポストモダン勢力には受け入れられないのだろう。
ではポストモダンは何を間違っているのか、本書はそれを鋭くも、普遍的法(規律訓練)なしの自由という顛倒したイメージのためだと見抜く。
※法なしの自由はなく法によって自由が可能となることをポストモダニストは理解しない
すなわちこの顛倒こそが想像的誤認の効果なのである。したがってここではカント的な幻想の処理(誤認の解消)が問題となっているに違いない。
ラカン派では誤認はサントーム(疎外されぬS1)の取り出しによって解消が目指され、ユングではヘーゲルと同じ表現での解消が目指される。
ヘーゲル弁証法はユング派の魂の自己実現(個性化の過程)とほぼ全く同じ概念なので、ヘーゲル、ラカン、ユングは一般に言われているのと違ってとても似ているところがあるのだ。
本書で提示される社会の本質学の原則、統治における一般意志の最善表現はヘーゲルをベースとしながら極めてラカン的でもある。
一般意志は意志(主体、欲望)であり、法言語はつねに意志を言語のレベルに於いて欠如する。したがって意志の自己表現系である法(鏡像)における意志自身の欠如=欲求不満がつねに法を改変可能性として実現するのだ。
とすればこれを欲望の弁証法における「シニフィアン(S1)とは他のシニフィアン(S2)に主体(意志)を代理表象する」のテーゼとして理解可能となる。
つまり「一般意志の直接完全表現(S1)とは法(S2)に一般意志(主体)を代表させる」のであり、このことが本書では一般意志の最善表現と言われている。
ラカン的に本書を読解すればこのように解釈するより他にない。
本書の一般意志の最善表現はヘーゲルから導かれたのであって、やはりヘーゲル弁証法とラカンの欲望の弁証法とはそっくりなのだ。
だからブルースフィンクなどのラカン派はヘーゲル弁証法と違うというのは、嘘だと思う。
本書の読み方
本書の読み方にはオススメがある。
どんなによい本でもロジックをなるべく深く理解した上で最低限内容が記憶されねば読む意味がない。といって完全に内容を丸暗記するのも特別な映像記憶スキルでもない限りコストが大きすぎてできない。
そこでオススメなのが二回読むこと。日あたり2~3時間読んで、一週間で読み切る。
ちょうど二週間で二回読む計算。このように読むとほぼ概要は頭に入り、本書について、そらで他人に数時間の解説ができるようになると思う。
※僕はこの読み方で二回読んだ。読書メモはとっていない
一回読んだだけだと記憶も理解も曖昧すぎて全然ダメなのだ。一回目は理論の理解、二回目はキー概念を暗記することに注力すると良い。
※一般意志とか企投的意味とかどうしてもタームの暗記は多く必要になる
かならずしもメモをとる必要はない。ただ読み終わったら、簡単に概要をまとめるとよい。実際に自分の理解を記述するなどで言語化すると理解の甘いところがたちどころに明らかとなる。
※明瞭に説明できないことは理解できてないことを示す
可能なら何回でも読み返し、長文でその内容をまとめるなどしたら完璧だろう。
その他
じつはこの記事と別に本書の要約解説記事を書いてみたのだが書いてる途中で2万字を軽く超えてしまい公開を断念、いちから書き直しコンパクトなこの記事を用意した。
というわけで本書はトピックも多くそれらが体系的に纏められている。この記事ではそんな本書の魅力は尺の都合でとても紹介しきれない。
同一性の謎とか美の謎などが解かれたり、フッサールの連続的調和についてとか、ここでは紹介しきれなかったかなり面白いトピックが数多くある。
認識論や帰謬論、時間、ゴルギアステーゼおよびその解消など紹介したい具体的なロジックはまだまだ山々である。
というわけで充実の内容になっているので興味をもった多くの人には本書を読んでもらいたい。
これ以上の哲学入門書は他にはないと思う。僕は哲学書はほとんど読んだことがないがこの本のおかげで哲学について詳しくなった気分になった。
この本はその実力が世の中がアホ過ぎて正当に理解されていない。これはとんでもないことである。
自由な市民社会では自由の意味だとか社会の理念だとかを国民の一定の割合が理解しないと実現ができない。だから本書を少なくとも僕程度のレベルで読解できる人が最低でも日本人の3割くらいはいないとお話にならない。
※いま全く理解も知識もない人も、僕のブログなどを読んで作品分析でもしてこのブログで紹介する類いの本を読むようになればその多くが数年で僕程度にはなるはず
コメント