※この記事はリトルナイトメア2のネタバレを含みます!
うたまるです。
今回は『リトルナイトメア2』(LITTLE NIGHTMARES II)をユング心理学で分析!
リトルナイトメアシリーズは象徴的な描写が多く、作品そのものがこの時代に生きるゲームプレイヤーの見る夢のような作りをしています。
そのため本作は、深層心理学的な夢分析を必要とする作品ということもできるでしょう。また本作のラストはユングの子ども時代の夢に酷似するので、ユングの夢とも対応させて分析します。
というわけで前回リトルナイトメアを分析したのに引き続き、今回はリトルナイトメア2をユングとラカンによって夢分析し、作品の魅力をつまびらかにします。
リトルナイトメア2とは
題名 | リトルナイトメア2 (LITTLE NIGHTMARES II) |
ジャンル | サバイバルホラー |
ハード | PS4 PS5 Xbox One Xbox Series switch windows |
発売日 | 2021年2月10日 |
販売元 | バンナム |
作り込まれた独特の世界観でこれまでにないホラーゲームの新境地を切り開いた大人気ゲーム。
また本作は徹底されたヴィジュアルの作り込みやホラー要素もあいまって、ゲーム実況では定番となっている。そのため観るゲームという側面が非常に強い。
昨今のゲーム実況という新しい消費スタイルを意識しているためか、装備画面だとかステータスだとかアイテム管理画面だとかの観劇の邪魔になるようなゲーム要素は一切排除されている。
そのためゲーム実況の視聴者はまるで映画を観ているかのようにシームレスに物語を味わうことができる。
心理学的な基礎情報
本作は前作、リトルナイトメアの前日譚に相当する。
そのため前作の主人公シックスもNPCとしてではあるが主要キャラとして登場する。
前作は、深層心理学的には象徴的な母殺しが主要テーマであり、母なるものがラスボスであった。
対する今作では父なるものが徹底的に描かれ、父殺しがテーマとなる。そのため前作と今作は母と父という対照的な主題を扱っていることが分かる。
また前作では少女シックスが主人公であったが今作では少年モノが主人公となっている。この点でも前作と対照的なつくりをしているのが分かる。
そこで今回は深層心理学的な父親コンプレックス、および父の不在を中心に作品の滋味を掬してゆく。
物語序盤のユング的解釈
ここではモノ達が川を渡り彼岸の都市へと行くまでのストーリーの意味を夢分析の手法に即して分析してゆく。
ハンターのユング的解釈
物語は、主人公モノがブラウン管テレビの画面から出てくるところから始まる。
物語のスタート地点は薄暗い夜の森。暗い夜の森はユング心理学では無意識のモチーフと考えられる。
したがって森は太古的な世界であり彼岸とも通じる。
そんな森を進むと一軒家にたどり着く。一軒家のなかのオルゴールがなる部屋は閉ざされていたため、モノは扉を斧で破り侵入。そこには一人の少女、前作の主人公シックスがいた。
二人は互いに助け合い先へと進む、すると「ハンター」と呼ばれる男がショットガン片手に懐中電灯で森を照らして二人を狩ろうとやってくる。
深層心理学では、ハンターは父のメタファーと考える。また前作では自我を表象するシックスが明かりを持ち無意識の世界を意識の光で照らしていたが、ここではハンターが懐中電灯をもちモノとシックスを照らしてショットガンを発砲してくる。
このことは、物語冒頭では世界を認識する主体が主人公ではなく無意識の側、ハンターにあることを示す。
主体が無意識の側にあるとはどういうことだろうか。以下に詳しく確認しよう。
まず、まだ文明化していない森のなかに一軒家がある様子は、後の街との対比でいえば、近代以前の古い世界、心の古層としての無意識世界を表象していると考えられる。
したがって物語冒頭の森の世界は人類史でいえば、中世的世界を、個人史でいえば幼児期を表象すると分析できる。
また人類史的観点ではハンターは一神教の父なる神のメタファーととれるし、個人史で言えば、幼児期の父による去勢不安の表象ととれる。
このような中世時代や幼児期では主体は自我(主人公モノ)にはない。たとえば中世では世界の真理も自分の存在理由(実存)も全ては父なる神が決定することとされた。
つまり中世ヨーロッパにおけるキリスト教信仰の生きていた世界では、自己の運命の決定主体は自己自身=自我(モノ)ではなく神(父=ハンター)の側にあったのだ。
そのため世界の闇を照らすのも父であり、世界を言葉によって意味づけ分節する主体もまた父=神である。
したがって中世では主体とは神の属する無意識の主体であるハンター=父の側にある。
そのため無意識の側が主体の光=懐中電灯を携えているのだ。
すると父なる神はなぜ恐ろしい人殺しのハンターとして表象されているのかが気になるだろう。
それは1つには人間に原罪をもたらす神=父がもつ去勢機能のためであるが、ここでは人が神(信仰)を殺して近代化していったことが大きいと思われる。
つまり中世の禁欲的で人に主体を明け渡さない神は、近代化し人間中心主義へと移行する自我意識にとっては恐怖の対象となるわけだ。
ちなみにフロイトのあまりに有名な論文『トーテムとタブー』の考察をベースに分析すると、モノとシックスを兄弟同盟、ハンターを原父に位置づけることもできる。
原父とは共同体の法の主体であり、全ての女を独占する支配的な父のこと。またフロイトの仮説によると原初の人類には原父がいたという。
女性を独占する原父に追い出された兄弟は同盟を組み、原父を殺すという。そして殺害した父が超自我として兄弟達の心に内面化しトーテム動物として表象化されることで、かつて父が化した法、近親相姦の禁止が内面化され秩序が生じるという。
またここで父殺による罪悪感が生じるという。
もっともシックスは少女であり閉じ込められていたため、兄弟同盟ではなく、原父によって独占されていた女性と観る方が妥当かもしれない。とくに後の物語の展開を考慮するとそのように思われる。
父殺しと近代の成立
モノとシックスが協力して父神(ハンター)の道具であるショットガン(科学)で父なるハンターを殺すシーンは非常に重要となる。
これは人類史の観点でいえばフランス革命に相当し、啓蒙主義の隆盛、すなわち信仰の終わり、ニーチェでいう神殺しを表象する。
つまり、人間主体としての神を殺し、人間が神になりかわって主体の光をその手にした近代化の流れを表象しているわけだ。
じじつモノはハンター(神)を殺して川を渡ると、そこではハンターのように懐中電灯で周囲を照らすものとなる。
これはハンターとモノとの密かな同一性を示す。まさに前作でレディとシックスに同一性があったのと対をなしている。
というわけで神(ハンター)がもつ科学の叡智を象徴するショットガンを手にして、人がその文明の力によって神を屠りさる様はまさに科学の力=産業革命で信仰が終わったヨーロッパ近代史に通じる。
この神殺しを経て、二人=人類は都市文明を築く。そのためハンターを殺した後、二人は板にのって現代社会の街へと向かうと考えられる。
また個人史のレベルでは兄のモノが独占的な父(原父)から妹を助けた過去があってそれを表象しているのかもしれない。
エディプスコンプレックスと父殺し
本格的な作品解説に入る前にリトルナイトメア2のベースとなっていると考えられるエディプスコンプレックスについて解説する。
これはフロイトの概念であり、フロイトによると人間にとってもっとも根底的なコンプレックスだという。
またエディプスコンプレックスは僕たちの夢(ナイトメア)において頻出するとされる。
ちなみにコンプレックスとは心的複雑性のことでユングの言語連想実験がもとで命名された概念、簡単にいうと無意識の心的葛藤を核とする情動によって連絡された諸々の記憶表象の体系というニュアンスになる。
話をエディプスコンプレックスに戻そう。これは古代ギリシャのオイディプス王の話がモデルとなっている。
その概要を簡単に説明すると、最初子どもは母との近親相姦的な直接的母子一体にある。しかしこれが父によって分離させられる。
(※じつはドーキンスの利己的遺伝子論でエディプスコンプレックスをある程度説明できたりする)
この母子の分離、父による母の禁止の脅しを去勢不安という。母と結婚したいという子どもの願望はこれにより抑圧。
子どもは父に去勢されるのを恐れ、その去勢不安のために母を断念して分離するわけだ。しかしそこには、父を殺して、自分が父となり母と結婚したいという無意識の欲望が抑圧されていることになる。
したがってエディプスコンプレックスは無意識に隠された父殺しの願望を示す言葉でもある。
じじつギリシャ悲劇におけるオイディプス(エディプス)は、無意識に父を殺し母と結婚し、自分が母と結婚したことを知って自分の目を潰す。
(※アマプラの「ザボーイズ」でホームランダーが母と近親相姦して母の目を焼いて殺すのはエディプスの話を反転させたものと考えられる、盲目の母の主題は山椒大夫など東洋の基本なので東洋批判作品かもしれないが、西洋の作品分析でエディプスコンプレックスの理解は必須)
したがって父に占有されたシックスを解放して、去勢をせまる父なるハンターを殺し、父に成り代わってシックスを手に入れるという話のベースはエディプスコンプレックスだと解釈できる。
ラストでモノが、殺した「ノッポ男=父」になってしまうシーンを考えると、このことは分かりやすいだろう。
余談だが、ユングは女性のエディプスコンプレックスをエレクトラコンプレックスと呼び男女のエディプスコンプレックスを対称とした。それに対して、フロイトは非対称としたためエレクトラコンプレックスを認めていない。
つぎに都市へ渡った後の物語の内容を分析しよう。
リトルナイトメア2のユング的解釈
川を渡って都市へとたどり着くモノとシックス。ユング心理学では森との対比における都市は、しばしば意識、日常世界と対応させられる。
また夢における川は、しばしば無意識と意識、彼岸と此岸、生と死を隔てる境界であり、日本でいう三途の川に対応する。
したがって森でのハンター殺し(父殺し)を無意識に抑圧してなりたつのが都市空間と考えられる。
人類史レベルでも個人史レベルでも、森の世界は抑圧された過去、ないしは父殺し願望、都市の世界は現在の意識を示すと考えられる。
ここまでで分かるのは本作が現代社会を中世における父殺しを経てあるものとして捉えていること。その意味で本作のパースペクティブは、父なき時代として現代社会を捉えるところにある。
このように本作を見抜くことで、前作が母殺しを徹底することで現代社会を描写していたことと対照をなす作品として論じることが可能となる。
現代社会批評とリトルナイトメア2
ここで後の議論を先取りして本作が提示していると考えられる現代社会への批評性について触れる。
まず本作の都市が父殺しを経た父なき時代としての現代社会の表象であるのは示した。さらに本作では眼のマークが作中に度々出てくる。
そもそも本作の肝となり、終盤では大量に登場するブラウン管テレビやテレビに映るノッポ男もまた、「視聴者」から見られるものであり眼に関わる。物語後半ではテレビ画面に釘告げの大衆が強調して描かれているのも見逃せない。
つまり本作では眼は目線、見ることを示し、見るものと見られるものとの対立と葛藤がつねに中心的主題として、象徴的に描かれているのだ。
もちろんこのことは、本作がゲーム実況されることを織り込み済みで観劇に特化したゲームデザインをとっていることとも密接に関わるだろう。
つまり本作に登場する画面に釘付けの視聴者達は、リトルナイトメア2のゲーム実況ライブなど同時視聴で見る僕たちのメタファーと解釈することもできる。
ともかく、視聴者がかじりついて見ている画面にはノッポ男が映る。
また視聴者に顔がないのはネットの匿名性と没主体性を示すと考えられる。
その意味で本作は優れてメタフィクション的であり高い批評性を持っている。
現代人といえば常にスマホやタブレットの画面にべったり、とくに臨床心理学の論文では幼児段階から子どもがスマホやタブレット漬けにされており、それが子どもの心理に問題を起こしている可能性を示唆する論文も多い。
そして、画面に釘付けの現代人は画面の中にいるSNSインフルエンサーに自己の理想像を投影する。また政治系インフルエンサーともなれば、ありもしない敵を実体化し、ファンを扇動して分断や争いを惹起し人気と金をえる人もいる。
するとブラウン管テレビはスマホ画面を表象しており、そこに映る「ノッポ男」はインフルエンサーのメタファーともとれる。
ここで思い出して欲しいのが、中世の人と神との関係。前項で解説した通り、中世では人間の主体は神であり、神が人間がどう生きるべきかを決定する主体だった。
じつはこれと同じことが現代社会では起きているとされる。
つまりインフルエンサーと大衆との関係は中世における神と人との関係に酷似しているのだ。
インフルエンサーを神格化しインフルエンサーに籠絡され、その信者と化す現代の大衆はその意味で主体を持っていない。つまり無脳の主体と考えることもできる。
するとノッポ男(神格化したインフルエンサー)は「死んだ父なる神=ハンター」の回帰した姿であり、殺した父になりかわって神格化した人間自身の姿ともとれるのだ。
すると非常にエディプスコンプレックス的な観点から現代批評をなす作品だと分かる。
この記事では全体を通じてこのような観点から本作の意味を夢分析してゆく。
学校といじめっこの正体
都市へと渡った二人は最初に学校を訪れる。まず学校では「いじめっこ」と言われる無脳の敵キャラクターが印象的である。
いじめっこが無脳で中身空っぽなのは主体性のなさを表象すると解釈可能。
たとえば、いじめっこはSNSで焚きつけられたり、インフルエンサーの拡散するネットの炎上事件に乗せられて発狂し、誰かを集団で叩く現代人の姿とみることができるかもしれない。
いずれにせよ、いじめっこは個別の主体性を持っていないのは確かだろう。
あるいは中身がなく表面しかない大衆のメタファーともとれる。たとえばモノがいじめっこの頭を被るといじめっこは誰も中身がモノだと気づかないシーンがある。
これはいじめっこには中身がなく、それゆえ表面でしか人を判断できないことをしめすと解釈できる。いわばいじめっこは他者から切り離された固有の内面をもっていないのだ。だから表面でしか判断できないのである。
また中身(個性)のないいじめっ子をウロボロス的父性と見ることもできる。ウロボロス的父性とはユング派の概念で父なき社会で父性のなさを補うために作動する獰猛な父性のことを指す。
ウロボロス的父性は、生徒達と先生というタテ関係、母子関係を軸とした集団において、生徒のなかで特別な存在や自己を主張する存在、つまり個を獲得しそれを主張する存在を集団リンチして殺す父性のことをさす。
ちなみに一神教的父性の弱い日本文化ではウロボロス的父性が強いと河合隼雄はいう。
ウロボロス的父性は一神教的な強い父性を持たない父なき時代の父性として理解できるもので、本作のいじめっこのあり方を捉えるのにうってつけの概念といえる。
すると「ティーチャー」と「いじめっ子」の関係性も分かりやすい。女教師=母のメタファーであるティーチャーはスパルタで無脳の生徒達に恐れられる。
ティーチャーは子どもの主体性=個を認めない子どもの自我を呑み込む母そのものであり、父なき時代においてはその母から子どもを分離する父がいないことを示すと解釈できる。
じじつ現代人は無個性で主体性を失っているとする疫学統計も多い。本作の学校は、そんな現代社会を表象していると考えることができる。
ティーチャーが見てないときは、法を無視する生徒のあり方は、まさに象徴的父の不在とウロボロス的父(ティーチャーやいじめっこ)の台頭に合致する。
病院の意味
次に二人がたどりつくのが病院。
病院では「ドクター」と「患者」が敵キャラとして登場する。ここで患者をいじめっこに、ドクターをティーチャーに対応さえることもできる。
本作の公式設定によるとドクターは完璧主義であり患者を愛するという、そして患者はドクターなしでは生きれずドクターに依存する存在とされる。
つまり両者は相互依存的関係にある。本作をプレイしたり視聴済みの方はお分かりと思うが、ドクターと患者の関係はそのまま、モノとシックスの関係にも対応する。
またドクターはノッポ男と同じく「死んだ父=ハンター」の回帰した歪な父(ウロボロス的父)ととれる。じじつ医者は深層心理学では去勢する父のメタファーの定番とされている。
(※多くの場合、整形外科医=ドクターもインフルエンサーも「知を想定された主体」である)
この意味でドクターと患者の関係がノッポ男と視聴者の関係と同じである点も見逃せない。スマホ依存症のごとくモニターのノッポ男に釘つげの視聴者はノッポ男に依存していると考えられるだろう。
また患者は義手など作り物の身体に換装されている。これは整形手術や画像編集などで自己の身体像を操作する現代人を批評的に捉えているのかもしれない。とすればドクターは大衆からの評価の総体(評価基準)とみることもできるだろう。
ここで作品理解を深めるため、中世、近代、現代の3つの主体を美人投票の例で簡単に解説する。
まず中世で美人投票をすると誰が美人か、何が美人かは神によってあらかじめ決定されている。したがって投票は神の決定に依存する。
つぎに神殺しを経た近代では、人間=自我が意志決定の主体となる。そのため個々人が自分の好みに合わせて自分が美人だと思う人に投票する。
では本作が批評的に描いていると考えられる現代はどうだろうか。
現代では、自分なんてものはなく他者=大衆が良いと思うものに投票する。つまり自己主体や個は消失してしまい、投票の意志決定の主体は大衆=他者に移行するのだ。
その意味で現代は権威主義の時代ともいえる。現代の権威=神は数字なのだ。
現代のSNSのアルゴリズムがいいねなどの承認の数字そのものが数字自身を再生産するようにデザインされていることからも、このことはよく分かると思う。
したがって現代人は主体を持っておらず、数字の総体としてのインフルエンサーを神として盲目的に信仰することが多発していると捉えることもできる。
このことが分かると、患者が依存するドクターを大衆からの評価の総体と見なす理由も分かるだろう。
中身のない表面だけのいじめっこと同じく、患者にもドクターにも中身はない。
ところで一見してインフルエンサー(ノッポ男)やドクターは、大衆(信者)に対して主体を持っているように見える。しかしインフルエンサーは数字になることをやっているだけでそこには個としての意志がない。
大衆の意志決定の主体である当の扇動系インフルエンサー自身も大衆に呑み込まれ依存し、消費社会の刹那主義的快楽に踊らされているのだ。このような現代のネット社会の相互依存的な対人関係を父(神、ハンター)の不在として本作は批評的に描いていると考えられる。
焼かれるドクターの意味
本作の印象的なシーンにドクターを焼却炉で焼くシーンがある。このシーンは『ヘンゼルとグレーテル』を想起させる。
ヘンゼルとグレーテルでは周知の通り、兄ヘンゼルと妹グレーテルが魔女を釜にいれて焼いてしまう。これによって兄弟は母から分離し個(性役割)を獲得する。
モノとシックスを兄妹とすれば非常に似ているのが分かる。もっとも「魔女=母」ではなく、父(ドクター)が焼かれるという違いがある。
いずれにせよ、ここでもハンター=父殺しが反復されているのは見逃せない。
ドクターの焼却は、父性を失った世界で、獰猛な個の屹立を許さない回帰した父を葬り去るシーンと見なせる。
前作同様、今作も父なき現代社会における個としての主体の屹立を課題とした物語とすれば、現代における主体の獲得は、依存的な承認世界という価値観=父から脱却(焼却)しなければならないということだろう。
二者関係とリトルナイトメア2
リトルナイトメア2ではドクターと患者達、ティーチャーと生徒、ノッポ男と視聴者達、という具合に母子の依存的二者関係が中心となっている。
ここで本作の理解を深めるため、深層心理学の基礎となる三者関係(三項関係・象徴界)と二者関係(二項関係・想像界)を簡単に解説する。
まず二者関係とは相互依存的な母子関係となる。つまり母と幼児の直接的関係のこと。二者関係では幼児は母の欠如を埋める理想の対象となるべく邁進するが、同時に母に呑み込まれてしまうことを恐れ母の不在=分離をつくりだそうともする。
ひらたくいえば口唇期の授乳などはこの二者関係に相当する。そんな母子一体の状態を分離し、個としての主体を与えるのが第三者としての父である。
つまり父による離乳、母子一体を父が引き離し、子どもに母の不在をつくることで、母から切り離された個としての主体を実現するのが三者としての父となる。
また重要なのは三者としての父は言語(法)の主体であること。言語は動物の鳴き声によるコミュニケーションと異なり、音の高低などの感覚の直接性を捨象することで成立する。
そのため言語は自分と直接関係のない第三者(三人称、彼)にも、自分の経験や考えを伝達することができるのだ。
すると父なき時代の現代では言語の三人称性が変質することが考えられる。
たとえば現代では有名人に敬称「さん」をつけるのが一般化しつつある。
もともとの日本語では一部の例外を除き有名人に敬称をつけるのは失礼とされていた。それがここ数年で変わったのだ。
ところで、さん、などの敬称は私と相手との関係性を示す二者関係に属している。たとえば上司と部下の関係なら部下は君付けされるが部下が上司を君と呼ぶことはまずない。
つまり敬称はしばしば直接的な二者の間柄、関係を表すことがあると分かる。
すると有名人に敬称をつけないのは有名人が通常は自分と関係性(間柄)を持っていないためだと分かる。このことは一般的に歴史上の人物に敬称をつけないことを考えると分かりやすいだろう。
ところがSNSでは有名人(鏡像)と一般人は直接関係してしまう。というより厳密には関係しているような錯覚を与えてしまう。
そのため三人称という父の次元が現代の言語空間において変質ないしは消失しつつあるのだ。
(※厳密には三人称と二人称が融合しているのが現代だが、ここでは分かりやすさを優先する)
たとえば、YouTubeはラジオに近く、ノッポ男と視聴者のように、一人の人物が画面の向こうにいる僕ら視聴者に向かって直接に語りかける二者構造が主流である。
これに対して、テレビ番組はあるタレントと別のタレントのやりとりを、第三者=父の視点(カメラアングル)で視聴する構造が主流。
※このことからもリトルナイトメア2のテレビは、スマホやタブレットないしはネットのメタファーになっていると考えられる
さらにネットにおける政治の語らいを見ても政治家の妻がどうだとか、あるいは政治系インフルエンサーの敵勢力とのプライベートな痴話喧嘩がそのまま政治的イデオロギーならびに政治的意見の対立とごっちゃで語られ、公(三人称)と私(二人称)との境界が溶けている。
(※このようなSNS時代の政治を生政治と呼ぶ)
このようにコンテンツそのものから三者構造が消去され、その結果言語の三人称構造が変質(二者構造と融合)しているのが現代なのだ。
じじつ、すでに現代人の言語活動の変質は深層心理学(ラカン派)の世界では有名である。
このことが分かると、本作のモチーフが全て相互依存的な二者関係を構成する理由がよく分かるだろう。
父のない母子の二者関係は相手を呑み込み互いに依存する相互依存関係が基本となる。
また画面に入ったり出たり、テレビに入って別のテレビから出たりというあり方は視聴者とインフルエンサー(ノッポ男)、見るものと見られるもののネット的なあり方を象徴的に描写していると考えられる。
物語終盤の意味
ここでは物語終盤の意味を解説し本作の分析のまとめに入る。
モノが顔を隠す理由
本作では眼のモチーフ、見るものと見られるものの関係が強調される。そのためモノがかぶり物で隠しているのはモノの目線だと解釈できる。
ここで目線は欲望を意味する。たとえば窃視症や男性による女性の盗撮を考えると分かりやすいが、その目線の先には欲望の対象がある。
したがって目線は、その人の欲望を示すと考えられる。
とすれば、モノはシックスへの近親相姦的欲望を隠していたのかもしれない。シックスを妹とすればシックスへの欲望は近親相姦願望と見なすことができる。
この欲望が抑圧されていたため目線が隠されていたともとれる。すると本作でモノがシックスを助けシックスを自分に依存させる二者関係=近親相姦願望をもっていたことも頷ける。
その証左にリトルナイトメア2では数カ所でとらわれたシックスをモノが助けるシーンがある。ちなみに女性をおとしめて助けるという男性の空想をフロイトは「おとしめ」と呼ぶ。モノのシックスへの関係は「おとしめ」の典型ともいえる。
シックスを捉え監禁するノッポ男はモノの理想(父)でもあり、モノの欲望が投射された存在ともいえる。だからこそノッポ男はモノ自身でもあるのだ。
余談だが、いじめっこがシックスを宙づりにするのは精神分析における倒錯(サディスト)に対応する。
巨大化するシックス
閉じこもりオルゴールをならす巨大化したシックスは、冒頭の森の一軒家で部屋に監禁されオルゴールを鳴らしていたシックスの姿と重なる。
いうまでもなくシックスを監禁し依存させようというのはモノの欲望。
そしてラストシーンでモノがノッポ男に変化することからノッポ男はモノでもある。そのため、ノッポ男の欲望はモノの欲望である。
物語後半でノッポ男がシックスを拉致してテレビの中の部屋に閉じ込めてしまうのもそのため。
本作ラストでは、モノはそんな自身の欲望を悟り、シックスを解放する。もとの姿に戻ったシックスは外の世界へと逃げる。
モノは自分の欲望を自覚し、シックスの手を離し崩壊するテレビ世界の奈落へと落ちてゆくのだ。
肉と眼、ラストシーンとユングの夢
ラストでモノは目玉のついた肉の塊に追われ、奈落の底に落ち、そこで複数の眼のついた肉に取り囲まれる。そして隆起する肉の上にある椅子にたつモノは光に照らされる。
すると時が経過してモノは大きくなり椅子に腰掛けるノッポ男(想像的ファルス)となる。
じつは、このシーンはユングのファルスの夢に酷似する。
ユングのファルスの夢とはユングが子どものときに見た夢。
その内容は、地下室に玉座がありその玉座に「巨大なファルス=肉の棒」が天高く生え、ファルスのてっぺんは光を放ち、目玉がついている。
これを目撃してユングが驚愕しているとユングの母の「これが人食いですよ」という声がして目覚めるというもの。
地下に降りると肉に眼、玉座(椅子)、光など、ユングの夢とリトルナイトメア2のラストシーンには共通点がある。クリエイターはユングの夢を参考にしたのではなかろうか。
さて、モノのラストは何を意味しているのか。肉に複数の眼がついていてこれに追われるという描写、ここでの肉の眼は本作をゲーム実況動画として見ている僕たちの目線(欲望)かもしれないし、SNSでの承認の目線かもしれない。
また肉に迫られ呑み込まれるラストのシーンはユング心理学では母性原理、元型的な母に呑み込まれるシーンともとれる。
ラストシーンは、そんな他者の欲望の眼差しに呑み込まれて、モノが二者関係的に支配されたノッポ男となってしまう。
ここでノッポ男がインフルエンサーのメタファーと解釈できることを思い出そう。
すると大衆の欲望(目線)の対象として、自分のことを「理想像であるノッポ男=インフルエンサー」とすることは、まさに現代人のあり方に対応していると考えられる。
また、モノは自己の罪を認め落下するというイニシエーション的な死に向かったが、死ぬことができずノッポ男と化してループしてしまっている。
本作ではモノはハンターに始まり多くのキャラクターを破壊し死に追いやっているが、自己を殺すことができないのだ。
ちなみにイニシエーションとは非連続的な精神的成長を心的に基礎づける儀式を示し、ユング心理学においては夢にイニシエーションが生じることが知られる。
イニシエーションにおける象徴的な自己の死とは今までの自分の死であり、この死によって今までとは異なる自分となることができると考えられる。この死は母子の分離を示す心理学的な去勢に対応する。
したがって夢分析的な視点で本作を論じるのであれば、イニシエーションの失敗ととれるのだ。また言うまでもないが、リトルナイトメア2という夢のイニシエーションで試されていたのは、現代人を象徴するモノが三者構造を獲得し他者と分離した個としての主体を誕生させること。
というわけで本作は父なき時代における個の獲得の困難が巧みに描写された作品と見なすことができる。
リトルナイトメア2の究極の構造とおまけ
本作では電波塔が発する怪電波の影響で街の空間が歪み街の住人がおかしくなっている。その怪電波の元凶であるノッポ男を倒し、世界のゆがみを元に戻そうとするが主人公自身がノッポ男であったという話となっている。
ここでは怪電波による空間の歪みに注目しその意味を分析し作品の理解を深めたい。
つぎにみてゆく空間の歪みは、ここまでに論じた父の不在、言語の三者構造の崩壊と同一の事態を示す。いわば父の不在を言語の地平でみると、言語の三人称性の歪みとなり、空間の地平でみると空間座標のZ軸のゆがみとして現れるのだ。
Z軸と都市
都市にたどり着くと森では見られなかった前後軸(奥行き)の移動が頻繁に生じ、背景に奥行きと遠景が強調される。
また本作は立体的に移動できる仕様ではあるものの、ほぼ横スクロール的な作品となっている。そのため上下左右の移動が基本だが街の特定の場所やテレビの中に入ると前後軸の移動に移る。
森から街へと移行すると一点透視図法による描写が印象的だ。
たとえばTVの中の廊下と廊下の先にある部屋の扉。またこれは街の風景として頻繁に出てくる左右のビル(廊下の壁)と中心の電波塔(部屋の扉)の一点透視法の描写と対応している。
ところでTVの廊下の奥の部屋にいるのはノッポ男であった。だから風景の奥にあるひょろ長い電波塔はそのままノッポ男でもある。
(※本作は街の中にTVがあり、そのTVの中にまちの景色のメタファー(廊下とノッポ男)がある)
まずは街で重要となる奥行きある世界を構成する一点透視図法(遠近法)を確認しよう。一点透視図法とは座標軸で示すとX、Yに足されるZ軸の誕生にある。
じつは、空間におけるZ軸の強調は近代になって生じたことが知られる。
以下の図を見ると分かるが奥行き(Z軸)の果てにいるノッポ男=電波塔は一点透視図法における消失点に対応する。一点透視図法ではこの点は無限小という意味で消失した、欠如としての点となる。
ところでユング派ではお馴染みの風景構成法という「川⇒山⇒田⇒道⇒家⇒木⇒人⇒花⇒動物⇒石」と順番に描かせる心理テストがある。風景構成法は簡単にいえば有名な箱庭療法のお絵かき版である。
この風景構成法では中世的な人ほど一点透視法ではなく平板で奥行きのない絵を描く傾向があるとされる。(※例外もある)
また近代主体の契機となるルネッサンス期になってはじめて一点透視図法が可能となった。それ以前の中世では絵画は平板でありZ軸が弱い。
つまり世界の物が同時に平板にあるのではなく、自己(個)という消失する一点に視点(主体)が集約され、その一点から世界を見るとき一点透視法による奥行き(Z軸)のある世界が開かれるということ。
逆に奥行きがなく全てのものが同時に平板にある世界は母子一体の二者関係(二軸)の空間を示す。というのもこのような平板な世界では、世界の空間を開く視点は自己という一点に限定されていないからだ。
個を持たないということは世界を開く視点が自己という一点(消失点)に限定されず、すべての対象が平板に遍在しているともいえる。つまり中世では空間の一点に限定された私という視点・主観からの距離・奥行きという観念が希薄なのだ。
したがって描画におけるZ軸(奥行き)は三人称の視点、父の視点であると深層心理学では理論化されている。
すると本作の怪電波で歪む街のビジュアルは現代におけるZ軸(父)の開かれと歪みをうまくしめしている。上の画像や以下の画像を見ると分かるが建物の上部が歪み一点透視図法に乱れがある。
本作ではこのZ軸を示す街の一点透視法が歪んで描かれ、その歪みが再三にわたり強調される。
このZ軸の描かれ方は、本作における象徴的な父の不在とウロボロス的父性の蔓延を示す。よって現代社会のZ軸(父)の歪みとしてドクターと患者、ノッポ男と視聴者、ティーチャーといじめっこといった歪な二者関係が生じているのだ。
つまりこの「Z軸の空間の歪み=歪な父の回帰」が本作の問題であり、この空間の歪みを正すことをモノは求めていたといえる。
本作でモノがノッポ男を殺し抑圧した自己の欲望と向き合う(覆面を外した)ことで怪電波を止めて、世界を正常化しようとするのはそのため。
つまり本作では三者関係のゆがみを修正し母子分離しようという力動が、現代主体における1つの歴史的ミッションとして描写されているのだ。
だからモノが最後に死ねずに母なる肉の目線に呑み込まれノッポ男と化すのは、その失敗ととれる。ここでモノは母の不在(母子分離)を無効化する母子一体を示す母のファルス(想像的ファルス=ノッポ男)になってしまう。
とするとやはり本作のラストはユングの母が「人食い」、つまり個としての自我を呑み込んでしまう肉だと言った、ファルスの夢と酷似している。
※ひょろ長いノッポ男や高くそびえる電波塔は精神分析ではファルス(男根)のメタファーとされる
ユングはその夢で、椅子に生える眼のついた光を放つ肉の柱であるファルスに呑み込まれずに済んだが、モノはファルスに呑み込まれファルスそのものになってしまったのである。
いずれにせよ、本作は、父なる神を殺し中世(森)を脱して近代化(都市化)した人類が、その父の不在のためエディプスコンプレックスをこじらせ、ネットによる退廃した世界で主体の屹立に手こずる様をうまく描写していると解釈できる。
最後になぜZ軸の生成が父(第三者)の成立と関わるのか別角度から、簡単に説明する。
これは空間における奥行きが、今自分が見えてる景色を自分と異なる角度から見る第三者の視点を想定することで可能となるため。
たとえば車があって、その横に家があったが車が横に移動して、家にかくれて車が視界から消えたとする。この場合、車が消滅したように見えるが、このとき車と家を自分とは違う位置で90度違う角度で見る第三者には家の奥に車があることが分かる。
よって横から、つまりZ軸から対象物を見る人を想定することで自分の視覚空間に奥行きが生まれるということ。
ちなみにこの辺の議論はドゥルーズが空間の条件としての大他者として論じている。
おまけ:手
アダムスファミリーのハンドのような敵が本作では出てくる。これはラカン派ではラメラ、部分欲動と考えられる。
いわば自我の統一的な意志から逸脱し、自律した身体器官の欲動のこと。依存症などはこうした消すことのできない部分欲動の作用が大きい。
現代人は依存関係を好み様々なものに依存する。たとえばアルコール依存症など。現代人の依存性と部分欲動のあり方を示しているのかもしれない。
終わりに
なかなか記事にするクオリティの考察にするのが難しく、前作の考察に比べるとやや難解かもしれないが、今回の考察内容は現代社会に興味のある人には一定の価値のあるものになったと思う。
またエディプスコンプレックスとユングのファルスの夢を中心に、父の不在、言語の三人称性、空間のZ軸、との関連で本作の要諦を示すことができたと思う。
あまり難しい内容にするとPVが減りそうなので、分裂する主体とか無意識の主体の議論など解説が複雑になる要素は全てオミットしている。
本当は本作の主題となる見る見られる関係=自己を見る自己と、自己に見られる自己という自己関係は、主体の分裂を示すもので、この分裂した主体の不一致の一致が深層心理学という学の基礎構造を成していたりする。
意識の側=モノが見るものだったり、肉の眼やハンターなど無意識の側が見る主体となったりするのも本質的には主体の分裂や他者=無意識の心理学的構造によって生じる。
ところで、この記事を書いていて思ったのだが、二者関係が支配的となった現代社会、ことに日本では、作品分析はもっとゴシップ的で体系性のない内容にした方が受けるのかもしれない。
たとえばモノはパラノイアで、病院のシーンは精神病院、その証拠にぬいぐるみを燃やすシーンで縫いぐるみの置いてある部屋にはノッポ男と眼の絵が描いてあるとか。
これはモノがこの病院に入院していたため、さらにノッポ男は鏡像関係にある小文字の他者で症例エマにおける自罰妄想と同じ全く構造をしているとか。
こんな具合にゴシップ的な尺度で、センセーショナルに分析して近親相姦をことさらに引き立て、社会性・社会批評性を消去した幼稚な分析評論をした方が今の日本人には受けるのかもしれない。
いずれにせよ作品評論(夢分析)は現代ではまるで機能しなくなっている。
いくら社会に作品の1つの解釈を還元しようとしても無効化されてしまう。つまり短絡的で分かりやすい短文のレビューが溢れ、作品の体験を悉く矮小化するネット言論をどうにかしない限り、社会の問題は何も解決しないと思う。
最後に説教っぽくなってしまったがリトルナイトメア2は本当に名作だと思う。この作品だけで現代の問題の根幹を完全に解説することが可能なのは確かである。
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