うたまるです。
今回は自由意志が存在しないことを世界一分かりやすく解説・証明することを目指します。
またこの記事を読めば直接に自由意志がないことを自分で確認することができます。
というわけで、現象学をつかって誰にでも分かるように自由意志のなさを徹底解説!
自由意志とは
ここにいう自由意志とは近代において西洋で花開いた概念である。その内実は自己の意志によって自己の意志を規定することをさす。
つまり自分で自分の職業を決めたり(職業選択の自由)、結婚相手を選択したり(自由恋愛)、あるいは自分の意志によって何かを意志決定することの自由を自由意志とする。
自由意志が存在しないことの証明
自由意志とはつまるところ自分の意志によって行動したり、何かを考えることである。
とすれば自由意志は存在しない。なぜなら自分の行動や意志を自分自身が決定することは不可能だからだ。
このことを実験で確かめてみよう。
まず読者の皆さんにはランダムで3桁の数字を思い浮かべてもらいたい。
思い浮かべただろうか、ここでは仮にその数字を368とする。
この場合3桁の数字を思い浮かべたのは、この記事を読んでいる読者の皆さんの意志によると思われる。
しかし、思い浮かべる数字を368と決定したのは読者の皆さんではないのだ!
なぜなら、もし仮に思い浮かべる数字を368にしようと思ったとしても、そのように思ったときには既に368という数字が思い浮かんでいて、決定しているからだ。
ゆえに読者の皆さんは、自分がどの数字を想起するかさえ自己決定できないのである。
つまり意志というのは、それ自体、自生的であって思考と意志決定の主体であるはずの「私」の意図につねに先行しているのである。
もっといえば、3桁の数字を思い浮かべる場合、なんとなく自己自身に「なんか数字思い浮かべ!」と念じているだけに等しいだろう。
この念を無意識(私の外部の何か)が受けて、かってに数字がポンと頭に浮かぶというプロセスで368が想起されている。
したがって自由意志とは自己を超えた無意識からわいてくる想念を自分の意志として引き受けることで生じていると分かる。
ところで自由意志とは「私」が「私」を思い通りにコントロールすることであり、その意味で、「私」が「私」の原因となることともいえる。
であれば、もし仮に自由意志があると仮定した場合、究極の原因、つまり私の一貫性を生じる「目的意志=私の始点としての原因」もまた私であるといえる。
しかし始点となる私の意志は決して私によっては規定しえない。だからこそ自由意志は不可能なのだ。
なぜなら始点という最初の原因に対する原因を措定すると始点が始点ではなくなるからだ。
つまるところ、私の意志が私によって統制されていることを認めたとしても、その意志の起源(始点)は私の意志を超えている。
まとめよう。
理論的には、私の意図を超えて、かってに脳内に生じた想念を自己の意志として引き受けることで私がその想念の主体として事後的に生成される。つまり自由意志の主体である「私=能動者」とは遡行して想念に先行してある主語になりすましているに過ぎず、実際には想念を引き受ける受動者に過ぎない。
自由意志の主体は原理的には、事後的に創られたフィクションということ。
つまり自由意志の主体であるはずの「私」には主導権がなく、受け身的に想念を引き受けることしかできないのだ。
したがって、自由意志という「私」の「私」に対する絶対的な支配権は錯覚に過ぎないのである。
さきほどの実験からも分かるように、私が私の意志を根底的に操作・支配・原因することはできない。
自由意志と連続性
さらに言えば、私の意志の連続性すらもが私の側に根拠を持っていない。
たとえば、ある連立方程式の問題があって、その式を解くと決意し、実行したとする。
※方程式を解こうとする決意は自己の始点であり原因に相当する
この時、連立方程式を解くには逐次的に、つまり連続的に数式を計算せねばならない。ところが計算している途中で、突然、勝手にアイスクリームのことが頭に浮かび、計算をほっぽり出して冷蔵庫のアイスを食べてしまう可能性を否定することできないのだ。
つぎの瞬間、自分が衝動的に何をしたくなるか、何を思うのか誰にも確定はできない。自分の決意がその先も引き継がれる確証を僕たちは自己自身の内にはもっていないのだ。
したがって、どの瞬間の想念もまた自生的であって、すくなくとも「私」の側が想念の連続性の根拠をもっているわけではない。
以上から人間の自由意志が錯覚に過ぎないことが分かるだろう。
私の意志は私を超えて外部にある。あらゆる想念とは、それ自体で自生的なのであって私の意志によってコントロールされているわけではないのだ。
自由意志の仕組み
さすがにこれだけだとショボい記事なので、ここではなぜ存在しない自由意志を僕たちはあるように感じるのか、自由意志がないとすれば、僕たちはいったい何を自由意志と呼んでいるのかを解き明かそう。
ここでも先ほどと同様に現象学によって直接的に解明する。
まず僕たちが自由意志を感じる状況を考える。するとたとえば、三ヶ月で10㎏痩せようと思い、その目的を達成したときなどは多くの人が自由意志を感じるように思われる。
つまり何かをしようとして、それを実現するとき人間は自由意志を感じるだろうということである。
また、なにも葛藤がなく妨げるものもなくひたすらに無限の自由だけがあり、その都度の衝動のまま動物のように生きた場合、自由意志は存在しなくなると考えられる。
この場合は、もはや動物であり、私が私をコントロールすることは成り立たず、今の私と未来の私とに同一性すらないだろう。自己の時間的な同一性がない場合、自由意志という観念を生じることができないのはいうまでもなかろう。
このことは選択の自由を考えると分かりやすい。
たとえば右にいくと目的地に安全にたどり着くことができて左に行くと射殺されるとする。このとき右を進んだとしても、「僕は自由意志によって右を自分の意志で選択した!」とは思えないだろう。
つまり左は選択肢として機能しておらず、この場合は選択の自由がないに等しい。選択の自由が成立するためには、迷いうるだけの選択肢が最低二つはなければならないということ。
よって、自由意志(選択の自由)は何らかの葛藤を必要とするのである。
するとフランス革命も奪われた自由を取り返すための闘争だったのではなく、革命という闘争行為(葛藤)それ自体が自由という幻想をつくりだす構造的条件だったと分かるのだ。
(※ここの理解は現代における新反動主義と福祉主義との不毛な対立に関する決定的に重要なものでもある)
というわけで自由意志とは自己の決意が、つどの衝動・葛藤に打ち勝ち、未来に渡って引き継がれ貫徹されることで成り立つと分かる。
いわば、方程式を解こうとして連続的・逐次的に数式を解くという、自己の方程式を解くという決意がもたらす時間的な自己の一貫性・同一性が自由意志という感覚の正体なのだ。
つまり、最初の自生的な決意(想念)を自己の意志決定としてひきうけ、その決意のもとに自己の時間的同一性を生じる営みのうちに僕たちは自由意志という観念を形成しているのである。
ここで重要なのは自己の時間的な同一性・一貫性・連続性はそのまま時間の連続性を構成している点。
自己が無葛藤で一貫性を持たない動物であれば、時間もまた、今の非連続な連なりとしてしか知覚されないのである。
したがって時間の因果律的な連続性の形成と自由意志の成立には密接な関連がある。そのためニュートン時間を打ち立て、ニュートン力学という時間の連続性が発見されるより以前の世界、とくに太古の世界では時間は今が主であり、ほとんど今しかない時間意識を特徴とする。
これは近代以前に自由意志が希薄であったことの理由でもある。
自由意志は時間と深く関わる概念なのだ。
自由意志をもっと知りたい人へ
ここでは、この記事を読んでさらなる自由意志の構造やメカニズムを知りたいと思った人に向けて、参考になる文献を紹介する。
まずは木村敏の著作を読むとよいだろう。つぎにラカンの入門書がオススメである。
木村敏とラカンを知ることで、かなり詳細に細かく自由意志の構造を知ることができる。
あまり難解な記事を書くと読まれないので触れなかったが自由意志の成立には身体所有の形式や存在論的な時間理論、構造主義的言語学などが密接に関わる。ラッセルのパラドックスや存在論的差異の問題、自己同一における差異の同一などの理解なしに自由意志の構造を把握することはできないのだ。
また言語の成立と時間と空間と自由意志はそれぞれ密接不可分に関わっており、コインの裏表の関係にある。そのため僕が自由意志について普通に基礎を解説をするとおそらく5万字超えくらいの記事になってしまう。
そのくらい自由意志を理解するにはボリューミーな現象学的および抽象論理的議論を要するのである。
自由意志の本格的な考察をしたい方には、当ブログの以下の記事も参考になるはず。
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