教養が身につく最強の本!木村敏『分裂病の現象学』要約・解説・レビュー

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うたまるです。

最近読んで面白かった木村敏、筑摩書房『新編 分裂病の現象学』の内容とレビューを紹介。

分裂病の現象学というと精神医学の小難しい本という印象があるかもしれませんが、木村敏の本は普通の人や社会について理解する上で重要であり、その内容は哲学的で一般人向けです。

そのため、本書は西田幾多郎、ハイデガーなどの哲学者の理論を軸に展開し、木村敏独自の自覚的現象学という哲学理論がメインに論じられます。

じつは分裂病を知ることとは現象学をすることであり、普通の人や社会を理解することに他なりません。ゆえに本書は多くの人にとって興味深い内容となっています。

したがって本書はぼくのような精神医学の実用にはまったく興味のない人にもオススメ。

また社会について知るなら社会学と考える人が多いかも知れませんが、木村敏や深層心理学は社会を理解する上で非常に有用です。社会学を学ぶより社会について分かったりもします。

また本書はハイデガーなどの哲学の基礎も自然と身につく内容なので教養を養うにはもってこい。たんに知識が身につく本ではなく現象学的な世界の見方、考え方が鍛えられます。

分裂病の現象学とは

臨床哲学という分野を開拓した精神科医であり哲学者の木村敏の初期論文集。
一般読者に配慮して哲学的に面白い論文が集められ、面白みに欠けるひたすら専門的な精神医学の話は省略されているようである。

木村敏といえば、あいだ論や『時間と自己』で非常に有名でありドイツやフランスでの評価が高いことで知られる。

また木村は西田幾多郎、ハイデガー、ヴァイツゼッカーの影響を強く受ける。初期論文集である分裂病の現象学では西田、ハイデガーの影響がとくに色濃く、ヴァイツゼッカーへの直接の言及は見られない。

本書ではフッサールの現象学とは異なる独自の自覚的現象学が展開されるため、自覚的現象学について丁寧な説明がなされているのが特徴となる。

木村敏の著作『異常の構造』や『分裂病と他者』に直接通じる議論も多々あり、本書は木村敏の理解を深めるうえでも欠かせない。

概要

本書ではドイツ精神医学の歴史が概観され、その限界と課題が明らかにされる。

つぎにヤスパースの記述的現象学とビンスヴァンガーの現象学が比較され現存在分析の特徴が述べられる。

またビンスヴァンガー、ミンコフスキー、クローンフェルト、ブランケンブルクら現象学的精神病理学理論が比較検討され解説される。

さらに自覚的現象学の方法論が述べられ、分裂病のプレコックスゲフュールについて自覚的現象学による考察が展開される。

あいだ、身体の問題を自覚的現象学の視点から概観し分裂病の本質論へとせまる。

最後には付録として離人症の現象学理論が展開され、ハイデガー的な時間と空間の議論のもと、西田的な時間論につうじる非連続の連続としての時間性が分かりやすく解説される。

見所

上記概要を読んでも木村になじみの無い人からしたら、まったくピンと来ないだろう。

というわけでここでは具体的に本書の見所を紹介、解説する。

自覚的現象学とは

本書の主題である自覚的現象学の理論はやはり面白い。
自覚的現象学とは言うなれば、他者についての体験であり内面を現象学的にあつかうことを可能とする。

ちなみに現象学とは日常の認識について、その認識が何を条件にいかに可能になっているかを自己の主観・経験を振り返ることで探る方法論のこと。フッサールやハイデガー、ヤスパースなどが現象学では有名で、論者により現象学の手法や考えは異なる。

しかしながら科学が主観性を排すことで普遍的(客観的)な知を取り出すいとなみとすれば、現象学は総じて個々人がその主観を徹底的に深めることで、普遍的知を取り出す手法といえる。

愛や正義など、科学では扱えない主観的価値観についての共通理解、相互理解を確立するうえで現象学的手法は絶対に避けることができない。また客体化してしまうと矛盾を生じることで知られる時間についてを考える上でも現象学は非常に重要になる。

ではさっそく自覚的現象学の概要をみてゆこう。

まず対人関係においてアプリオリ(経験に先行)なのは自他未分の状態だという。
(※西田でいう純粋経験)

たとえばダブルスや合奏などの経験を思い起こすと相手と自分はシンクロして一体にあることが分かるだろう。

よって、対人関係では、そのつど自他未分の状態がまずあって、そこから意識の対象化作用によって自と他が分離して自分ではない他者として相手が知覚されるというプロセスによって他者が認識されると分かる。

ここで自他未分の根源性とは一つの共有された気分(内面)のようなものであり、この根源性より析出されるのが自分と他者である。

したがって根源的な気というべき自他未分とは、人と人との間ということがいえる。いわば、あいだ(関係)から析出してくるのが対象(関係項)としての自己と他者なのだ。

したがって他者への印象とは、この根源的な間(関係)のことだといえる。たとえば相手に感じる不自然な印象は、その意味では自己の内面そのものといえる。不自然なのは相手ではなく自分と相手の間だということ。

かくして、他者への印象、他者の違和感を自己の直接的な体験・主観として現象学的考察の対象とすることができる、というのが自覚的現象学の概要である。
他者への違和感ここでは自己自身の自覚であると同時に他者の内面として規定される。

くわしく知りたい方は是非本書を読んでもらいたい。

自同律と物の自己限定

本書で見逃せないのが自同律に関する考察である。また本書で展開される自同律の議論は『異常の構造』で展開された議論と直接に通じるので異常の構造を読んだことのある人にはとくに面白い。

自同律とは論理学の基礎で、A=A、私は私である、ということ。

じつは自同律とは自明ではなく自己同一によって可能となっている。そのため自己同一性が破綻すると成り立たなくなる。

といっても分からないと思うので、まずは本書の自同律に関わる物の自己限定の話を簡単に説明する。

たとえば、「これ(この空き缶)は、空き缶である」というとき主語のこれは述語の空き缶という一般的な意味に限定される。

このとき主語これ、とは絶対的な個別性であり、これとしかいいようのない感覚与件である。

この感覚対象の主語の特殊個別性が、普遍的客体概念であるところの述語の空き缶という一般的な意味に限定される。このようなプロセスが、僕たちが日常するこの空き缶は空き缶であるという認識の構造だといえる。

ここで面白いのが個物としての主語と述語のとしての一般的な意味概念(客体)とのあいだには無限小の差異があること。
つまり主語の個物を限定する言語的な述語表現は、先端が丸みを帯びている、とか、樹皮光沢を放つ、というように無限に個物そのものへと近づけることができる。

しかしながら無限に言葉を重ねても感覚対象としての個物そのものには述語面は到達することがない。
したがって主語の個別の物(感覚)自体は客観的な対象概念と無限小の差異があり、けっして一致しないという。

じつはこの無限小の差異をラカンは対象aという。そのため本書の現象学の内容はラカンにも通じるところがある。
ちなみに、この感覚与件としての生々しい二人称性の個物と三人称的な客体概念(一般的な意味概念)との差異が一致すると発達障害になったりする。

(※このことはアンナフロイトがいう攻撃者(超自我)への同一化が現実吟味能力の破綻を生じるという理論とも密接に関わり、三人称的概念と二人称的な主観的対象の完全な一致によって現実吟味は破綻する。現実か空想かの判断は現実が欠如していることで可能ということ、あるいは現実はその欠如において構成される)

また目の前の物は、いくつかの簡素な述語的な特性によって、自己を一般的な意味に限定することが分かる。つまりぼくたちは、まず判断主体としての自己があり、その自己がいちいち目の前の物の特徴を意識的にいくつも取り出して、一般的な意味にカテゴライズするのでなく、見た瞬間に個物が何であるかを直観しているということ。

この事実は物の自己限定によって自己もまた、その物を限定するところの物の相関者として限定されることを示す。自己とは周囲の物を認識し対象化するところの主体であるため、物の自己限定は同時に自己の限定に通じている。

ようするに車窓からカラス飛んでいるのを見つけて、カラスだ!と認識するとき(カラスがカラスとして自己限定するとき)、私はカラスを見ている、として、つまりカラスの相関者としての自己=私に限定されるということ。

その意味で人は物に照らされてそのつど自己を自己として確定しているのだ。

自同律の自明性のなさ

ところで、Aは他ではないAである、という論理学的規定は自明ではなく論証できない。なぜなら世界はつねに変化しており、Aは厳密には次の瞬間にはもはや同じAではありえないからだ。

AがAといえるにはA自身が自らの属する時空間内において同一性を保っている必要がある。たとえばいま読者の目の前にあるスマホ、これが同じ自分のスマホであるというためには、スマホに同一性がなければならない。そしてスマホの同一性は時空間の連続性に依拠している。

この物質世界を内包する空間がもし次の瞬間には別もので非連続だとしたら、物の同一性などありえないことはいうまでもないだろう。

ところで、客観的には時間は連続しておらず時間と空間はバラバラであることは物理学の難問としても有名である。これをゼノンの矢のパラドックスという。

つまり、今という瞬間は、時間を客観的にとらえる限り、長さのない点(静止空間)に還元され消滅してしまう。このことは映画やYouTubeなどのあらゆる動画が非連続な制止画の束から構成されている事実を考えると分かりやすい。

よって時間を客体化しこれを客体の変化に対する概念として規定すると、時間は静止空間の束に還元され、パラパラ漫画のごとく、あらゆる物は、その連続性=同一性を失う。

つまり時間は動きそのものを説明できなくなってしまうのだ。また、どの瞬間の今も静止していることになり、しかも今は長さがないので、そもそも今など存在しないことになる。

もちろんこの場合、過去は既に過ぎ去った今であり、存在せず未来もまだ来ていないので存在しないということになる。つまり音楽を聞いていても音など一瞬たりともなっていないという馬鹿げた結論に帰結してしまう。

これは曲線をその部分に分けると多角形になり線がカクカクの非連続になってしまうという数学の曲線問題にも通じる。

したがって時間とは現象学的にいって論理的には客体ではない。つまり時間とはどちらかといえば主観に属する概念であり、人はそもそも原理的に客体・客観へ到達することはできない。

この時間の難問を見事に解き明かしたのが有名なハイデガーの存在と時間なる論文なのだが、そこまで解説するとこの記事が終わらなくなるので、割愛する。

(※時間について手っ取り早く要諦を知りたい人は竹田青嗣の新哲学入門を参照。ちなみに時間の論理学的な連続性は対象aの迂回によって生じるフロイトの現実原則は快感のために対象a(快感)を迂回することを示し、この迂回は身体(ファルス)の所有と直線的時間の構成を生じる。)

また意識を振り返ってみても、ぼくたちは、その日の記憶を連続的に想起することすらできないし、数学の連立方程式を解いている途中で脈絡なく、アイスクリームのことが頭に浮かび、計算をほっぽりだして衝動的に冷蔵庫のアイスを食べるというようなこともありうるだろう。

このように自己意識は実際に現象学的に考えても、非連続であることが確認できる。

いかにして時間の非連続性、そのつどの非連続な今=自己が認識において連続され、自己は自己であるという自同律が可能となっているかについては知覚の能動性の項目で解説する。

比喩の成立と他者の成立

本書では、比喩表現がいかに可能となるかについて詳細に考察される。
ラカンの隠喩と換喩の議論やユング派のイメージの現実性に関する理論を知っているとここでの話は非常に興味深い。

簡単にその概要を説明する。
まず比喩とは、例えば、足の速い人を見て、まるで鹿のようだ、ということ。

これは足の速い人の駆ける姿に鹿を見たときの迫力や素早さを感じることで生じる表現である。比喩の場合は~のようだ、と述べ実在の鹿ではないことが示される。

ここでは鹿が持つ一般的な意味である速さや躍動感といった印象としての一般的意味足の速い人の駆ける姿に感じた印象(その時の意味)と一致したために、鹿に喩えられている。

したがって比喩としての鹿は印象すなわち関係=主観(意味)を示しており、実体=客体を示しているのではない。ここには主観である印象(意味されるもの)と客観である実在の鹿(意味するもの)との分離が前提されている。

でなければ、鹿のようだ、という比喩表現は不可能で、「彼は鹿だ!」と言われることになるだろう。

じつは古代人や統合失調症はしばしば比喩がないのがその特徴だったりするのだが、その理由は主観と客観の未分化にある。

比喩とは主観(印象)と客観(実在のモノ)の分離によって可能となるのだ。

そしてこの主客の分離は絶対的な他者における自他の内面の分離によって可能となる。つまり自己の内面=主観と他者の内面が分離することで主観は一個人である自己の印象に過ぎないという具合に限定され客観から剥離する。むしろこの主観と客観の分離が主観と客観の概念を生み出す。

この自他の分離不全が比喩の構成の不可能を生じているのだ。

このシンプルな理屈はラカンの基礎理論とも通じるしユングのイメージのリアリティ論にも関わるので深層心理学が好きな人は必ず理解しよう。

ちなみにラカンのいう妄想性隠喩は本書では芸術作品に本質的に近いことが示され、芸術と統合失調症の親近性が指摘されたりもする。

芸術論から民族学、ひいてはポストモダン的な現代社会を考察するにあたり、本書の比喩の理論は非常に便利である。

より詳しくは本書を読んでもらいたい。

ノエマ的身体とノエマ的自己

サルトルの三つの身体、主観としての身体、他者の身体、自分にとっての他者から見える自分の身体などの既存の身体論を概観しつつ、木村独自の理論であるノエマ的身体性に関する論理が展開される。

ここでの木村の議論はラカンにおける身体のシニフィアンによる上書き、鏡像(身体像)の言語への疎外の論理に対応しておりラカンを知っている人には特に興味深い。

身体とは他人から見られ認識される故に、その人の内面を世間的に規定、限定し表象する。

たとえば身体的な外見である強面は、凶暴さなどの内面を示している。この宿命的に与えられた容姿、身体のことをノエマ的身体という。

またノエマ的身体に表象されてしまう内面をノエマ的自己という。ノエマ的自己は内面としてある自己の性格像などの自己イメージ、自我のこと、一人称代名詞でもある。

ノエマ的身体とノエマ的自己の一方的な不一致が生じると自己身体に対する親密さがなくなってしまう。

じつはこの理論は昨今のポストモダン的な価値観を考察するうえで欠かせない。つまりルッキズム問題である。

つまりルッキズムとはノエマ的身体とノエマ的自己とのズレを抹消する試みともとれるのだ。この問題については本書の内容だけでなく木村敏の『分裂病と他者』の論考やラカンの疎外の理論を参照すると、何が問題かよく分かる。

ちなみに自覚的現象学のいうノエマとは内的イメージや観念から外的な物理的対象までを含めた具体的な対象を示す。また自覚的現象学にはノエシス的自己という概念があり、これは主体の能動性、行為性を示す。

※フッサールのノエシス・ノエマと自覚的現象学のノエシス・ノエマは異なります!

簡単にいうとノエシスとは対象化作用のことであり時間の今のこと、これはラカンでいう欲望、構造主義でいう関係に相当する。

知覚の能動性、行為的事実と今

本書の最後に付録として収録される離人症の現象学において、知覚の能動的性格が解き明かされる。ハイデガーや西田のエッセンスがつまったこの論考は、分かりやすくかつ体系的で非常に興味深い。

まず対象の知覚とは、外界の物たち(存在者)からの感覚によって触発された心(現存在)が、そのつどの関心、欲望によって、知覚対象を構成することで成り立つ。

つまりお腹がすいているときに、ウサギを感覚すると、獲物・食料として美味しそうなウサギとして、外界のウサギを対象化・知覚することになる。かくしてウサギの知覚は、知覚それ自体のうちにウサギを追い食べるという主体の行為を喚起・内在する。

もし満腹のときに同じ感覚を受けても同じようにウサギが対象化されることがないのはいうまでもないだろう。

したがって知覚とはそれ自体が能動的でありつどの欲望における能動的な対象化の産物であるといえる。
この意味で知覚はそれ自体、能動的な性格をもち行為的かつ行為産出的なのだ。

この感覚と知覚の能動性の連動を木村は行為的事実と呼ぶ

以上から、ぼくたちが感じる世界や知覚対象への現実感、リアリティというのは知覚に対する行為的事実における能動的な主体の関与によって生じていることは言うまでもない。

もし知覚や対象化においてつどの関心・欲望などの主体的な能動性、行為性がなければ、認識対象は自己から疎外され、なんのリアリティも持たなくなる

ちなみに、このような行為的事実の障害による知覚の能動面の消失した状態を離人症という。

また、そのつど自己実現として対象化を実現する行為的事実こそが、非連続な瞬間に過ぎない今に自己性と連続性(自己同一性)をもたらしている。

というのも、そのつど認識されるノエマ的対象ーノエマ的自己相関は、行為的事実の能動性である欲望・ノエシス的自己の源泉としての自他未分の根源性を代理しているからだ。

これを関数に喩えるなら、円の方程式(全体的自己)が行為的事実の能動性であり、かく座標の点がそのつどの今におけるノエマ的対象ー自己に相当する。

つまり、かく今の非連続な点(ノエマ的自己)は、その全体である円(ノエシス的自己)をつど代表代理し、これまでの今を包括(被投性)しつつ次の今(未来)へと向かう行為・投企を内在しているということ。

かくして自己同一とは非連続の連続として規定することができる。自己とはそのつどの自己の集合ではなく、全体としての自己(円の方程式・ノエシス)がまず先にあって、そのつど自己(座標点・ノエマ)が全体を代表しているということ。

このことを時間という視点でみれば、時間とは根源的な永遠の今(非空間的・空間産出的時間)がまずあって、その今がつどの行為的事実における対象化によって分節しているに過ぎないといえる。そのつどの今は今からと今までを含む全体としての今を内在・代表しているのだ。

こうした時間における全体と部分(つどの空間・存在者)の相互包括関係を西田は逆限定という。

臨床心理における人間個人の歴史性、実存というべき時間は、この非連続の連続と逆限定を基礎とする。したがって人間や人間社会を理解するうえにおいて、ここに説明した時間論の理解は欠かせない。

つまり人はなぜ、癒やされるのか、どうして生きていけるのかという根本的な問いの答えが、この時間の逆限定的な様態につまっているのだ。

木村敏とラカン

時間や自己同一に関する議論は非常に込み入っている。とくにラカンを知っているとラカンに全く足りないところと木村敏があまり重要視してない要素があるのが分かる。

ラカンの話は本書のいう主語的同一性としての自己同一がどうして可能となるかをよく説明できるが、述語的同一性の構造についての視点が抜け落ちている。

その点、木村敏の理論は述語的同一性としての自己同一性をよく説明できるが、主語的同一性の議論はラカンほどは重視されていない印象を受ける。

また本書で分裂病性の自己疎外、自明性の喪失として理論化される話はラカンのいう排除の考えと近い。

そもそも本書で強調される西田の理論をベースにした統合失調症における他者が自己性を帯び自己が他者性を帯びることに関する精緻な理論は、ラカンがメビウスの帯に喩える分裂病の自他の癒合の議論とほぼ同じだったりする。

そのため本書を読むとラカンの話がより詳しく分かる。本書はラカンより遙かに分かりやすく他者の自己化、自己の他者化を現象学的に説明している。

また統合失調症の発病契機についてもラカンと木村敏で、ほぼまったく同じことを言っているのは興味深い。

パラノイアに関する考察では、ぼくにはラカンと木村では圧倒的に木村が優れているとしか思えない。

木村の理論はラカンの理解を深めるにもユングの理解を深めるにも強力で、木村理論は深層心理学が好きな人には本当に欠かせない。

なので木村好きはラカンやユングを読まなかったり、ラカン好きはユングや木村をあまり深く参照しないことには疑問しかない。個人的にはメラニークラインを読むくらいならラカン派は木村敏から学んだほうがいいとすら感じる。

ところで、もし現代社会に興味があるという人には社会学の本より、木村やユング、ラカンの入門書を読むことをすすめたい。

繰り返すが本書は深層心理学や木村敏の本は精神医学そのものには興味のない、ぼくのような普通の人や社会について知りたい人にこそオススメ。

程度の低いベストセラーに毒された現代人に木村はあまりにハードルが高いかもしれない。
しかし、まったくの一般人向けに書かれた一番優しいハイデガーの入門書と西田幾多郎の入門書を一冊づつ読んでおけば、それだけで木村の本は意外と読むことができる。

せっかくの読書の秋、どうせ読むなら骨太の本物の知性、木村敏に挑戦してみてはどうだろうか。

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